才媛は一日にして成らず

篠原皐月

(9)前途の希望

「ただいま」
「お帰りなさい、お父さん! 早く帰ってきてくれて良かった! こっちに来て!」
 身体的精神的疲労感を覚えながらも、ノランは自宅に帰り着いた時には娘に笑顔を向けた。すると自分以上に表情を明るくしたシレイアが、問答無用でノランを居間へと引きずるように誘導する。
「シレイア? どうかしたのか?」
「いいから、早く!」
 そこで食堂から廊下に顔を出したステラが、何事かと声をかけてきた。

「シレイア、何を騒いでいるの? ノランが帰ってきたから、今からご飯にするわよ?」
「それは後! ちょっと待ってて!」
「え?」
 当惑する母に背を向け、シレイアは父を居間に押し込む。常には見せない娘の強引さに半ば呆れながら、ノランはソファーで向かい合った娘に理由を尋ねた。

「シレイア、今日は一体どうしたんだ?」
 そこでシレイアが、勢い良く預かってきた封書をノランに向かって差し出す。
「あの、何も聞かずに、まずこれを読んで! 今日、ワーレス商会書庫分店に行ってきたんだけど、そこでラミアさんから預かってきたの!」
「会頭夫人から? 私に?」
 困惑を深めながらもノランはおとなしくそれを受け取り、開封して入っていた便箋の内容を読み進めた。しかしすぐに無言のまま目を見開き、読み終えると同時に俯いて額を押さえる。

「……シレイア」
「総主教会の内情を、部外者に漏らしてしまってごめんなさい!」
「いや、まあ……、遅かれ早かれ、外部に伝わるだろうと思ってはいたがな……」
 疲れたように呟いたノランだったが、総主教会幹部なだけあって気持ちの切り替えは早かった。

「シレイア。この手紙によると、デニー宛の物も預かっているな?」
「うん。持っているわ。直接手渡しするように頼まれているの」
「よし、これからデニーの所に行くぞ。お前も来なさい」
 素早く立ち上がった父に、シレイアも真顔で倣う。
「今日中に届けに行くつもりだったけど、一緒に行ってくれるの?」
「当たり前だろう。重要な事だからな。急ぐぞ」
「はい」
 そして二人揃って廊下に出てから、ノランは奥にいるステラに向かって叫んだ。 

「ステラ、すまん! 今からシレイアを連れて、デニーの所に行ってくる! 夕飯は先に食べていてくれて構わないから!」
「えぇ!? 今からシレイアを連れていくって、あなた!?」
 驚いて廊下に出て来たステラを残し、ノランとシレイアは慌ただしく玄関から外へ出た。


「デニー、すまん。急用だ」
 デニーもノランと殆ど同時刻に帰宅していたが、娘同伴で押しかけて来た友人に目を丸くした。
「いや、それは分かったが、シレイアを連れて何事だ?」
「だから、急用だ」
 真顔での短いノランの訴えに察するものがあったデニーは、息子を振り返る。
「ローダス。お前は呼ぶまで部屋に行っていなさい」
「……分かった」
 不満げな顔をしながらもローダスは自室に向かい、デニーは居間にノランとシレイアを誘導した。

「それで? どういう事か、聞かせてくれるんだろうな?」
「シレイア」
 ソファーに座ったデニーがノランを促したが、ノランは娘に短く声をかける。それを受けて、シレイアがデニーに向かって封書を差し出した。

「あの……、これをワーレス商会のラミアさんから、デニーおじさんに預かってきました。今、目を通して貰えますか?」
「あ、ああ、それは構わないが……、ワーレス商会の会頭夫人から?」
 先程のノランと同様、デニーも怪訝な顔でそれを受け取った。続けて、中に入れられていた便箋の内容を読み進める。デニーは当初険しい表情を見せていたが、読み終える頃には深く考え込んでいた。

「これは驚いたな……」
「因みに、私にはこういう手紙がきたが」
「交換してくれ」
 そこでデニーとノランが便箋を交換し、目を通し始めた。殆ど同時に便箋から目を上げた二人は、自然な動作で無言のまま頷き合う。

「シレイア、良く分かったよ。全面的に了承したと、私からワーレス夫人に伝えよう。こちらで内々に調べて把握していた内容も、全て先方に伝える」
 総主教会最高責任者の顔でデニーが告げると、さすがにノランが躊躇う素振りを見せた。

「デニー。しかしそれは……」
「総主教会の恥を晒す事になるが、そんな事に構ってはいられない。いざとなったら私が責任を取る」
「おじさん!?」
 今度はシレイアが顔色を変えたが、そんな彼女をデニーが宥める。

「あまり心配しなくてよいよ。シェーグレン公爵家とワーレス商会が関与してくるとなれば、他の筋から王家に情報が入って、監督不行き届きを責められる恐れだけはないだろう。できるだけ穏便に、事を進めてくださる筈だ。今回はご厚意に甘えよう」
 それにノランが苦笑で応じる。
「そうだな。不用意な言動は叱るべきだが、不幸中の幸いだった。会頭夫人にここまで書かれたら、叱るに叱れない」
「親を心配したが故の子供の行為を、あまりきつく叱るものではないからな。そうだな? ノラン」
「ああ、分かっている」
「反省してます」
 すかさず頭を下げたシレイアを、大人二人は温かい眼差しで見やった。それから男達の間で幾つかの話し合いがされてから、ノランとシレイアはデニーに別れを告げた。


「これから忙しくなりそうだな」
 家に向かって歩きながら、ノランが独り言のように呟く。それにシレイアが、反射的に尋ね返した。
「お父さん。無事に解決するよね?」
「全面的に助力して頂いて解決できなかったら、それこそデニーだけではなくて私も職を辞さないといけないだろうな」
「頑張ってね! バールド通りの人達も応援してるから!」
「え? いきなりバールド通りって、何の事だい?」
 シレイアの激励に、ノランは面食らった顔になった。紫の間で交わされた内容を思わず口走ってしまったシレイアは、慌ててそれらしい作り話を口にする。

「あの……、ワーレス商会の書庫分店で知り合った人が、以前結婚式を邪魔された知人がいたとかで、お父さんの事を知っていて……。今日たまたま、その時の話を聞いたの」
「ああ……、昨年の、あの時の事だな」
 一瞬だけ考え込んだノランが、なんでもない事のように頷く。
「驚いたわよ。そんな事にお父さんとお母さんが関わっていたなんて、全然知らなかったし。互いに名乗った時、私がお父さんの娘と知ったその人にお礼を言われたのよ」
「別に、わざわざ礼を言われる程のことではないのだが……。そうか。それなら尚更、貸金業務を軌道に乗せないといけないな」
「そうよね! 頑張って!」
 笑顔を見合わせた二人は、気分よく帰宅した。しかし何事かと食事をせずに待っていたステラに詰問され、平身低頭謝ることになった。


 翌朝、いつもより早く起きたシレイアが修学場に向かっていると、背後から駆け寄る足音と共にローダスの声が響いてきた。
「おい、シレイア!」
「あ、おはよう、ローダス。早いのね」
「早いのはお前だろ! 家に行ったら、おばさんに『もう出た』って言われたし! 何をそんなに張り切ってるんだよ!?」
「何って……、別に? ただ、何事に対しても一生懸命に取り組むのは大事じゃない? 今現在、私は修学場に通っているんだから、勉強に真摯に取り組むのは当然よね?」
「それはそうだけどさ……」
 平然と切り返されたローダスだったが、納得しかねる顔で食い下がる。

「それじゃあ、昨日の夜、いきなりおじさんがお前を連れてきて、居間でしばらく話し込んでいたのはどうしてだ?」
「ああ、それはね……」
「それは?」
(う~ん、軽々しく口にはできないし、ローダスに話しても良いと判断すれば、おじさんが言うわよね? それにこれは、紫蘭会会員間の秘密にもなってしまったし)
 迷ったのは一瞬だけで、シレイアは満面の笑みでしらばっくれた。

「ちょっとした大人の事情って奴よ。それじゃあ、先に行くから!」
「はぁ!? どこが『大人の事情』だよ! お前も子供だろうが! シレイア、ちょっと待て!」
(昨日までと違って、気持ちが軽くて清々しいわ。修学場から帰ったら、今日もワーレス商会書庫分店に行こうかな)
 言い捨てて元気よく駆け出したシレイアを、ローダスが慌てて追いかける。前日までの鬱屈を綺麗に吹き飛ばしたシレイアの笑顔は、実に晴れ晴れとしていた。

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