小説家になるための戦略ノート

坂崎文明

第64話 【200文字小説】てきとー/歴史&ミステリー小説を書くための特務機関の謎とアジアの未来

【200文字小説】てきとー作者:小春日和

思いつきのネタを200文字小説にしてみました。続くかどうかもわからない行き当たりばったりの作品ですが、読んでいただければ幸いです。

『強盗』 2014年 03月 26日
http://ncode.syosetu.com/n6842ca/


200文字小説ですが、SF作家の星新一のショートショートとか懐かしいです。
ラストがアレですがw、この作品を書いた勇気に脱帽です!


ビジネス・雑学・情報大賞 参加作品
http://www.alphapolis.co.jp/contPrize/


こちらの方も、3月末でそろそろ締切ということで、上位はなかなか面白い作品が集まっています。

3.「甘いお菓子ができるまで」つまようじさん
http://ncode.syosetu.com/n9776by/(リンク切れ)

4.「三つ編み眼鏡さんはネットスラングを探究中」雲居 残月さん
http://ncode.syosetu.com/n9324by/

5.「逸脱! 歴史ミステリー! 」小春日和さん
http://ncode.syosetu.com/n6873bm/

6.「小説家になるための戦略ノート」坂崎文明
http://ncode.syosetu.com/n4163bx/


こちらの作品は「小説家になろう」勢となってるので、応援してあげて下さいね。

僕の作品は最近、メルマガになってしまってますが、小説家になるために戦略をあまり書いていません。代わりに小説を書くため題材、ネタ的な歴史のお話とかを書いています。何かヒントになればいいなと思っています。


中国の台湾侵略法案が議会を通過したらしい
http://sakazaki-dc.hatenablog.com/entry/2014/03/22/024826

宮崎正弘氏を囲む――中国反日暴動の裏側(一)/西尾幹二のインターネット日録
http://www.nishiokanji.jp/blog/?m=20050510(リンク移転)

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実は日本は南京を助けに来た解放者だった

中国の反日プロパガンダというのは、江沢民の時代に盛んだったんだが、それは同時に、日本企業が怒涛の勢いで沿海部に進出し、今の中国経済繁栄のベースを作った時代でもある。

なんで、一方で日本企業を優遇しながら、もう一方で反日やっていたのか? 中国人というのは非常にプライドの高い人種で、19世紀に諸外国に荒らされたのを物すごく恨んでいる。ジャッキーチェンの映画でもそういうの、あったよね。

なので、あの猛烈な反日プロパガンダがなければ、単に日本企業がドカドカ進出しただけだったら、またぞろ、外国に愛する国土を奪われるのか、と、大騒ぎになりかねない。

そこで、父親が日本軍の協力者でスパイで、本人も酔っ払うと炭坑節歌う親日家だった江沢民としては、何とか民衆をなだめすかして日本資本を導入するための「方便」として反日を利用したわけだ。

まぁ、そういう方便も、中国のGDPが日本を追い越す時代になれば、もう必要ない。もともとプライドの高い人たちなので、これから行き過ぎた反日は消えるだろう。そういう歴史的な経緯を知れば、あの時期、反日のガス抜きで日本企業を守ってくれたのは江沢民である、という評価も出来ると思う。
http://blog.shadowcity.jp/my/2012/07/post-680.html
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ブログの方で日本の特務機関が戦後も現地に残って「草」のようになって活躍してる説を出しています。

インドやアジアの国の独立を助けたり、北朝鮮を作ったのが日本人の特務機関員「金策」だったり、江沢民が酔っぱらうと炭坑節を歌うという話、ベトナム戦争の地下トンネル掘りは日本軍が教えたものだったりします。

すべてを総合すると、中韓の反日運動はカモフラージュだったりするのですが、自国のガス抜きをしつつ、裏では日本としっかり協力していたりします。

世の中、一筋縄ではいかないというか、日本は敗戦して占領されてしまいましたが、アジアは解放されて、陸軍中野学校とかの特務機関員は今でもその活動を止めていないと思います。

GHQに協力して反共戦略に協力したり、最後は自衛隊に再就職して潜り込んでます。

1974年帰国に帰国した情報将校だった小野田寛郎さんも特務機関出身(陸軍中野学校二俣分校卒)ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E

それで、この日本の特務機関を作った教育機関が「陸軍中野学校」です。ミステリー小説「ジョーカーゲーム」にもでてきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1

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校風

学生は軍服を着用せず、普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。そのため代々の軍人の家庭の出身者は、親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用し長靴を履き将校軍衣を着る陸軍将校に憧れ軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在した。

八紘一宇、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。また、天皇に対する見方も自由であり学生や教官の間で天皇制の是非が討論される事もしばしばだったという。敵国語の禁止なども全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から話すことを推奨された。


教育

午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、午後は自習となっていた。ここでいう「諜報」とは、情報を収集することで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても素早く的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を流して敵を混乱させることである。いわゆるスパイの特殊技能そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。

中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。

講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した明石元二郎大佐が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。教官は、中野学校の一期生や、参謀本部、陸軍省の中堅将校などであった。

2012年(平成24年)に発見された1期生の卒業報告書『後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告』[2]によると、1361単位中1290単位が実施された。科目は、軍事学(兵器・築城・航空学など)、外国語(英語・ロシア語・中国語)、武術(剣術・柔術・忍術)、細菌学、薬物学、法医学、実習(通信・自動車など)、その他(気象学・交通学・心理学・統計学など)など多岐にわたっている。また1938年(昭和13年)7月に入所した1期生19人の内訳は、大卒3人、専門学校卒11人、中卒4人、中退1人となっている[3]。

このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県富岡町に移設されることとなり、これを境に教育内容も二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した遊撃戦の訓練などが行われた。

(中略)

施設用地の変遷

中野学校の用地は戦後、警察大学校・警視庁警察学校などの警察施設地へと転用されたが、これらの施設は2001年(平成13年)に府中市へ転出し、2008年(平成20年)4月1日に東京警察病院が千代田区から移転した。跡地には福本亀治揮毫の「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。

(中略)

離島残置工作員 - 中野学校出身の工作員が教員などになりすまして沖縄地方の離島住人を組織し、米軍の侵攻に備えていた。
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堤幸彦監督の「SPEC」にも公安0課というのが出てきますが、あれ実話というか自衛隊にも入ってるし、警視庁にもたぶん紛れ込んで公安とかの母体になったのでは?と思っています。

小野田寛郎さんも、本隊からの帰国命令がなかったので(日本が敗戦してしまったので)1974年まで帰国せず、現地での活動を継続していたといいます。

彼らのような人々を「残置諜者」といいます。いわゆる忍びの「草」のような人々で、ソ連とのスパイ戦をしていた金策は、日本名「畑中理」(はたなかおさむ)といい、北朝鮮を実質、建国した人です。抗日パルチザンというから、もうそれ自体がカモフラージュというか、意味わかりますか?

米朝間の新たな密教回路
http://michi01.com/ohudohsama/305jyt26691115.html

情報機関が探らない「北朝鮮の英雄」金策の正体(PDF)
http://www.gyouseinews.com/p5_uwasanokaikijouhou/uwasa2008042001.pdf


何が本当か?わからなくなってきますが、完全に敵の中枢に入り込んでマフィアのボスの片腕でありながら、実は潜入捜査官という感じですね。

安倍総理の祖父の岸信介の作った「国際勝共連合」と統一教会、CIAは反共戦略という線でつながってるし、北朝鮮を建国したのは金策だとすると、あのミサイル騒動とか、北朝鮮の拉致は意味が違ってきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8B%9D%E5%85%B1%E9%80%A3%E5%90%88

小泉総理の北朝鮮電撃訪問も意味が違ってきますね。


もう、ここまで来ると善だとか、悪だとかの価値観では通用しなくなって、神の視点で事実を眺めるしか方法はないですね。

小説家ならそれができるはずです。

ひょっとすると、731部隊のお話やオウム事件、薬害も意味が違ってくるかもしれません。

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中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、「至誠」の心を強く持つよう教育された。
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この教育は凄まじいというか、そのおかげでアジアの国々が植民地からの独立を果たし、今の経済発展につながっています。

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卒業生の動向

各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は太平洋戦争(大東亜戦争)中も活発に活動した。 参謀本部勤務などの他、アジア各地で各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じたが、戦争末期は遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても義烈空挺隊に数名が要員として参加している。

1941年12月8日にはじまるマレー作戦では、中野学校出身者らで構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が、英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて樹立されることになる。

ビルマの戦いでは、1940年より、中野学校出身者らで構成された南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。

波照間島では、1945年2月、山下虎雄(偽名、中野6期戊種)は小学校の代用教員として潜伏。全校生徒250名の4年生の担任となり、青年学校の柔剣道教師を兼任した。その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されたため、「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出されたが、山下は西表島への疎開は困難であることなどを何度も司令部に訴えたが、司令部に聞き入れてもらえなかったため、疎開を受け入れない一部の住民には軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。

その際、西表島に連れていけなかった住民の所有する2,000頭あまりの牛馬、羊や豚や鶏などを住民とともに殺処分し、処分された家畜は日本軍の食料とした。住民はマラリアの流行る南部地域に移住したため、由布島に移住したもの以外はマラリアにかかることとなり多数が亡くなった。戦争マラリアの項も参照。

蘭印作戦では、陸軍挺進連隊がパレンバンに落下傘降下したパレンバン空挺作戦やジャワ攻略戦において、オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を混乱させた特殊ラジオ謀略放送にも中野学校出身者が深く関与していた。

至誠を重んじ、本気でアジア国家の独立を願った中野学校出身者は、戦況の悪化からアジア諸国の独立を迅速に達成できない軍首脳と衝突することも多かった。
二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である(一説に2,131名とされる)。公式には1945年8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事田中徹雄大尉など)、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争[1](谷本喜久男少尉など)を始めとする戦後の東南アジアの独立戦争に携わった卒業者も多くいた。
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たぶん、生き残りがベトナム戦争にも関わって、米軍の撃退に貢献してると思うし、麻薬の栽培とか、ゴールデントライアングルでは、中国の国民党と合流してるかもしれませんね。

未だにビルマには麻薬王とかゲリラがいますしね。
そうやって現地で自給自足し、食糧、資金を調達するのが特務機関員の才能ですしね。


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教官はすべて日本人、創設されたエリート軍学校

やがて加茂は中部における抗仏戦争の拠点、クアンガイの町に入った。1946年の4月頃だった。丁重に彼を迎えたベトミン幹部からは、「わたしたちのために、陸軍中学をつくって下さい」と言われたという。クアンガイでは、現代ベトナム独立闘争史上でも異彩を放つ、日本人教官による「クアンガイ陸軍中学」が創設されようとしていたのである。

「教育はすべて日本人がやる、そう最初から決まっていました」と加茂は語る。
このクアンガイ陸軍中学創設のため、同地には元日本軍将兵30名が集まっていた。総数約400名のベトナム人学生を軍の中級幹部に仕立てること、これが学校の目的だった。教育にあたって4個中隊がつくられ、加茂は第4中隊を担当した。教官は将校、助手は下士官が務めた。このあたりの編成・職制は、日本陸軍の制度を模したのだろう。

「共産党員であること、戦歴があること、地方の党委員会による推薦を得ていること、だいたい年齢は20歳前後でしたかね」
集まってきた学生像を加茂は思い起こし、「我慢強い、音を上げない、どんなつらいことがあっても人民のために、という気概を持っていた」と賛嘆する。軍の幹部候補生として、彼らの気構えは申し分なかった。だが一方で、軍事に関しては日本軍の新兵よりも未熟な状態にあったようだ。
「学生はほとんどが中学を卒業した者です。当時のベトナムで中卒と言ったらエリートですが、とにかく動作が鈍いんですよ。気をつけもできない。だから教育は気をつけ、休め、回れ右、敬礼といった基本的な軍隊用語と動作を教えることから始まりました」

加茂が語るように、陸軍中学の教育は基礎の基礎からスタートした。まず号令のかけ方、基本姿勢(気をつけ、休め、解け)、基本動作(匍匐、匍匐前進、横転、横進)を習得させた。
次いで銃の操作、銃剣術、手榴弾投擲、散開、立哨、警備巡回といった個人的技術の訓練を施した。また昼間・夜間戦闘、白兵戦、奇襲、偵察、陣地構築、通信、兵站確保の他、分隊・小隊規模での軍事技術と指揮方法を教え、指揮官が必要とする技能と知識を学ばせ、最後に集中的に戦闘式の演習を実施した。

「先生は軍事知識の基礎を教えて下さいました──」
これは2005年、NHKがベトミンに参加したベトナム残留将兵にフォーカスした番組、『引き裂かれた家族──残留日本兵とベトナムの60年』中で紹介された、クアンガイ陸軍中学出身者らの言葉である。日本人教官が基礎の基礎から教え込んだことは、当の学生がもっともよく記憶し、感謝している、「私たちは日本人教官のご恩を忘れることはできません」と。

クアンガイ陸軍中学の教育は同年11月には早くも終わりを迎える。フランス軍の北部ハイフォン上陸を受けて、ホー・チ・ミンが「全国抗戦宣言」を発し、ベトミンは北部山岳地帯での抗戦を決定したのだ。
加茂は北上して抗戦拠点入りし、その後も教育に携わり、「軍訓局」という訓練専門の部署で働き続けた。その貢献が高く評価されていたのだろう、加茂に対する軍上層部の態度は常に礼儀正しかったという。
そんな加茂に対し、ベトナム政府は第一級戦功勲章、第二級戦功勲章の二つをもって報いている。

クアンガイ陸軍中学は戦局の影響から短命に終わった。だが同校は近代戦の経験者たる日本人将兵が、本格的な軍隊教育を施したという点で特筆されるべき存在である。
卒業した者たちは抗仏戦争を戦い、続くベトナム戦争では将官、佐官になるものも現れ、連隊長や作戦参謀として第一線に立ったという。日本人の教えたものが最前線の知恵となっていたと想像するのは、あながち的はずれではないだろう。

「新ベトナム人」のすべてが日本軍を離脱した残留将兵だったわけではない。なかには、「ベトナム」という土地に早くから理解と愛着を持ち、半ば必然的にベトナム残留を決めた者もいる。次回はもう一人の「新ベトナム人」について語ろう。

ベトナム秘史に生きる「日本人」  Web草思
http://archive.fo/1dCnR
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今回、書いたことが事実だとすれば、日本の近代史、現代史そのものがひっくりかえりますが、たぶん、単なる事実なんだよね。

日本人がアジアの人々に好かれてるのは彼らの功績が大きいです。

その歴史を知って、アジアとの連合を中韓も含めて出来て行けばいいなあと思います。

反日や北朝鮮問題ももプロレスみたいなものかもしれず、それにとらわれずにものを見ていけたらいいですね。


次回は、奈良旅行に行った時の法隆寺と聖徳太子の謎のレポートです。







(あとがき)



トンイ
http://www.bs-j.co.jp/toni/



韓流時代劇「トンイ」が面白くてはまってます。
60話ぐらいあるんですが、前半のトンイの苦境と王様とのかけあいが面白いのですが、トンイは王様の身分を知らなくて、判官(裁判官)だと思わされていて、それがどこかでばれてというくだりが面白いです。

このネタは水戸黄門ではお馴染みですが、やっぱり高貴な身分の人が身分を隠してとか、出生の秘密とか面白い展開になりますね。



2018/5/4 6:43
https://www.alphapolis.co.jp/novel/771049446/375169170/episode/1037775

2014/03/27 14:34
https://ncode.syosetu.com/n4163bx/64/

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