帰らずのかぐや姫
はじまり 2
その鬼が、緩やかに迫りつつある死がもう目前まで来ていることを自覚したのはいつであっただろうか。長く長く生き、もはや体は満足には動かない。かつて月の覇者であった鬼の一族も残すは数えるほどとなり、その鬼が死ねばまたひとつ鬼は衰退の道を辿る。
しかしそれもまた運命なのだろう。栄え、そして滅びる。ヒトに限らず、鬼に限らず、生きているものであれば逃れられぬものなのだ。
自覚するがゆえ、鬼は静かに終わりが来るのを待っている。亡骸をヒトに触れられたくないという意思ゆえに住み慣れ愛着のあった住処は捨てた。ここはヒトどころか生きるものが何もいない絶壁の底。あるのは静寂のみであり、鬼は誰にも知られぬまま朽ちるはずであった。
だが、にわかに遥か上空が騒ぎ出した。耳を澄ませば、それはすっかり思い出となってしまった戦の音。鬼たちが争っていた時よりはよほど静かだが、新たな月の覇者たちにとっては精一杯戦っている結果なのだろう。
何の気もなしにふと視線を上げる。そして鬼は、落ちてくるものに気が付いた。鬼の小指ほどもない小さな小さな影は2つ重なっている。ひとりは気を失っているのかぴくりとも動かず、もうひとりは動かぬ相手を守るようにその頭を抱えていた。
不思議な光景だ、と鬼は思う。気を失っているのは大きな方のヒトであり、守ろうとしているのは小さな方のヒトだ。新たな月の覇者たちは親が子を守るのではなく子が親を守るのだろうか。
そのまま放っておいてもよかった。鬼にしてみれば労なく食事が手に入るという、それだけの話だった。
だが鬼は手を伸ばす。そして手の平で、落ちてきていたヒトふたりをまとめて受け止めた。大人と子供が横たわってもまだ余りあるその手を、鬼は顔に近付ける。
『子よ、天人の子よ。正気はあるか?』
完全に気を失っている大きなヒト――恐らく子供の父親――ではなく子供に声をかけると、子供は少し震えながら顔を上げた。怯えているのが見ただけで伝わってくるが、子供は気丈に前を向き鬼を見据える。鬼は一族の中でも大柄な方であるが、それを前にしても正気を失わずに正面を向くとはたいしたものだ。感心して鬼は笑った。そうすると牙が覗きいっそう恐ろしい形相になるのだが、子供は震えを大きくするものの泣きも叫びもしない。
『見込みのある童だ。それは主の父親か?』
顎をしゃくって示し尋ねると、子供は膝で移動し男の前まで来ると両手を広げる。
『そうだ。私の父上だ。手を出すことは許さんぞ、鬼。父上は、この月を統一するお方なのだ』
父を信じきっているのかその言葉には微塵の揺らぎもなかった。しかし、子よりも先に気を失うような男に天下が取れるのか。浮かんだ疑問を心にしまい込み、鬼は空いた手で顎をさする。
『なれどここより上がれねばどの道死ぬだけだ。お前にこの崖が登れるか?
鬼であれど登れぬ者がいるほどのこの絶壁を』
鬼は子達を乗せている方の手を上げ、子供の目に絶壁が映るように位置を変えてやった。そして素直に頭を大きく逸らし上を振り仰いだ子供は、光すら微かに見える程度の崖の深さに愕然とした様子を見せる。落ちてくる最中は父を助けることしか考えていなかったのか、現実を目の前にその顔は青ざめたようであった。
だが、小さな手で自身の両頬を叩くと、強い眼差しを鬼へと落としてくる。
『登る! 父上を上に返すのだ。たとえ爪が剥がれても足が折れても必ずだ』
しっかりと言い切ると、子供は父を担いで立ち上がろうとした。だが、まだ10にも満たぬであろう子供に大の男が持ち上げられようはずもなく、その行動はもはや滑稽にすら見える。
鬼も笑った。だが、それは嘲りではない。鬼はもう一度手を自身の顔に近付ける。
『子よ。なれば我の力を主にくれてやろうか?』
「歴史」の人気作品
書籍化作品
-
-
4
-
-
516
-
-
4112
-
-
52
-
-
1978
-
-
768
-
-
107
-
-
59
-
-
26950
コメント