帰らずのかぐや姫

若槻 風亜

はじまり 3



 申し出に、子供は目を丸くする。鬼は唇を持ち上げ、楽しそうに、傍から見れば凶悪そうに笑った。


『鬼の血肉を食らえば鬼の力が手に入ると聞いたことはないか? それは事実だ。我の血肉を骨も皮も残さず食らえば主でも父を背負ってこの程度の絶壁登りきることが出来る』


 鬼が数を減らした理由のひとつはこれでもあった。鬼を食らえば力が増すと、どこから漏れ出たのか知らないが月中に知れ渡ったがゆえにヒトに乱獲されるようになったのだ。単純な力ならば鬼がヒトに負ける謂れなどないが、ヒト――天人には不思議な力があり、また技術もあったため鬼を従わせる術や音などを作り上げた。さらに鬼族よりも団結を知るがゆえにその力も計り知れなかった。


 だが、結果として言うならば鬼の力を手に入れた天人は鬼の知る限りひとりとしていない。


『だが覚悟せよ。鬼の血肉は雫一粒、欠片ひとつをとってもヒトには強すぎる猛毒だ。過去に鬼を食わんとした天人たちは残らず死に至った』


 鋭い牙で小指の先に噛み付くと、硬い皮膚が少し裂かれじわりと血がにじむ。鬼はそれを子供に近付けた。鬼にとっては僅かの血液だが子供の両手を埋めるほどの量はある。それだけの血が間近に迫れば外とはいえ鉄の匂いも周囲に充満した。


 子供は顔をしかめる。そして、父に目を向けた。鬼はそれ以上何も言わないつもりだ。勧めもしないし、やめろとも言わない。これはあくまでこの子供の選択だ。ここで何もせずに死ぬか、鬼の血に侵され死ぬか、それとも乗り越え生き残るか。


 しばしの沈黙が場に下りる。にじんだ血が指を伝い落ちていいき、指の付け根まで来た。それが地面へと落ちる準備を始める。子供は父を見つめたまま動かない。


 これまでか。と判断しかけたその時、子供が再度鬼に向き直り、両手を水を掬うような形にして差し出した。覚悟が決まったらしく、その目は真っ直ぐに前を向いている。




 鬼は楽しげに笑った。




『強き童よ。その心忘れるでないぞ。この試練を超えるに必要となるはただ折れず狂わぬ心だけだ』


 鬼の血肉はヒトには猛毒であるが、それ自体が毒なのではない。ヒトでは許容出来ぬほど強く濃い〝力〟が籠もったものであるために並みのヒトは心と体の激痛に耐え切れず死んでしまう。その違いは発狂してか物理的な痛みでかというだけのものだ。


 子供が頷くと、鬼は伝っていた血を子供の手に落とす。ヒトと変わらぬ赤い血を顔の近くまで寄せると、子供は僅かな躊躇もなくそれを煽った。




『――――――――――――っっっっ!!!!』




 その直後、この世の終わりではないかと思えるほどの絶叫が子供から搾り出される。この小さな体のどこからそんな声が出ているのかと思ってしまうほど、それは大きく、高く、苦しげで、死なないのが不思議なほどであった。


 鬼は転げまわる子供を見てから、視線だけをちらりと動かす。そうすると、子供の悲鳴に目を覚ましたのか青ざめた顔で我が子を見ている男の姿が視界に映った。


 鬼は子供を哀れに思う。


 子供は父のためにこれほどの辛苦を選んだというのに、男は呻吟しんぎんする子供をまるでおぞましいものを見るような目で見、手を伸ばすどころか徐々に尻で後ずさっていく。


 男は鬼の指まで下がるとようやく鬼に気付いたのか、上を向き、鬼と目が合うと情けない悲鳴を上げて気絶してしまった。その瞬間につまみ上げ地面に降ろす。失禁されてはたまらない、と思ってのことだったが、正解だった。男を地面に置いた瞬間股間がじわりと濡れ地面が濡れ始める。


 そこまで見てから、鬼は男から視線を逸らし子供に意識を向けた。年寄りの感傷が、子供に生き延びて欲しいとさらに思わせる。


 それから鬼は少しずつ子供に血を与え、肉を与えた。血を吐けばそれをすすらせた。胃の中を戻せばそれもまた食わせた。何ひとつとして無駄にすることを鬼は許さなかった。それは決して憎しみではなく、生き延びて欲しいがゆえの行動であった。


 最初の血を子供は耐えた。そして次の血も耐えた。耐えた血はすぐとは言わないが早々に子供の体を変質させる。変質した体は肉にも耐えられるようになる。肉に耐えた体は骨も食べられるようになる。悲鳴を上げながら、時に気を失い、時に痙攣し、それでも子供は少しずつ鬼を食い始めた。








 それから二晩が経ち、三度目の日が中天に座す頃、絶壁の底にある姿はふたつだとなる。ひとつは飢餓の状態が出始めたひとりの男。もうひとりは、血にまみれ、土にまみれ、汚れきった小さな小さな〝鬼〟。






 これより数日後、敵に襲われ消息を絶っていた小国の王が無事に国許に帰還した。そして、それから1年もしないうちに、小国の主は従えた〝鬼〟の力を持って月の主となった。





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