野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 8: 野良猫なんかじゃない(5)


* * *

向かう先はひとつ、なんて、心の中だけではあったものの恰好をつけて居酒屋を出ておきながら、私は街の片隅で途方に暮れていた。
いくら里見君が事務所に否定しているからと言って、山岸蘭と本当につき合っていないのかはわからない。しかも里見君からの連絡に未読無視を続けてしまった状態で、今さらどう連絡したらいいのだろうかと、チャットアプリを開くことさえ二の足を踏んでしまっていた。

スマホのロック画面には、何度も見た里見君からのメッセージ……かと思えば、文章が違っていることに気づく。

『連絡もらえませんか』

よく見ると、通知は数枚重なっていた。

『忙しい?』

『ネットニュース、見たよね?』

一番最初のメッセージは、時間的に私が編集部を出る直前ぐらいに送られてきたようだ。その次はそこから三十分後、最後はついさっき。スマホはマナーモードにして鞄の底のほうに入れていたから、バイブ音じゃ騒がしい居酒屋では聞こえなかったのだろう。

『連絡もらえませんか』

連絡した先に待っていることを考えて、怖くなる。
もう逃げないと決めたばかりなのに。さっそく揺らいでしまう自分が情けない。
マナーモードをオフにした瞬間、軽快な音とともに新たな通知が現れてドキリとする。

「『恋コロ』のインスタ……」

逡巡しながらも開いてみると、画面には山岸蘭ともうひとり女性キャストの楽しそうなツーショットが映し出された。

「あっ」

外で、なおかつ片手での操作だったせいか、スマホが落ちそうになって画面をダブルタップしてしまう。その時どうもリンクを踏んだらしく、不本意にも山岸蘭のインスタグラムに飛んでしまった。

『恋コロ』のキャストとのオフショットや、インタビュー記事の宣伝など、たくさん表示された写真の中の、とある一枚に目が留まる。

「これ、って……」

『今、ちょうどいい感じの持ってたなと思って』

そう言ってあの日、里見君がうちの合鍵につけた紫色の根付。

「山岸蘭の、オフィシャルグッズ……」

おそらく、単に彼女がキャスト全員に配っただけだろう、と想像はできる。
想像はできるけれど、でも……。
些細なことが私の中にじっとりとした粘度をもって沈み、幾重にも積み重なって、重苦しくなっていく。
気がつけば私は、いつもの家への道を淡々となぞっていた。

自宅のドアを開けてもすぐに電気をつける気にはなれず、暗闇に向かって入ろうとした時、そこにあるはずのない、なにかに躓いた。

「……え」

確かめるために、電気をつけようとすると――

「なっちゃん……」

――か細い声が、影とともに現れた。

「…………里見君」

「ごめん……勝手に」

「今、こんなところに不用意に来たらだめじゃない……もし、マスコミに尾行されてたら」

里見君と思いがけない形で会ってしまった事実よりも、私は真っ先にそのことが気になった。

「大丈夫。それらしい車も人もいなかったし、念のため複雑な経路を辿ってここまで来たから」

黒い影はどんどん大きくなり、電気のスイッチに手を伸ばす。
突然明るくなった廊下の眩しさに、私は思わず目を眇めた。が、それもすぐに落ち着いて目の前を見ると、なぜか里見君は驚いたような顔をしていた。

「……なっちゃん。なんで、泣いてるの」

「え……」

泣いている、と言われて自分の状況に初めて気づくなんて、そんなドラマみたいなこと、自分には絶対に起きないと思っていたのに。

目元に手をやると、確かに濡れていた。
ここまでぼんやりと歩いてきたから、自分がどういう感情で、どんなことを考えていたのかよくわからない。
ただ、さっき見た紫の根付のことだけは、何度も頭に浮かんでいた。

「……もしかして、俺の、せい?」

「……え」

里見君の、思いがけない問いかけに、私はどう答えればいいんだろう。
そうだよ、でいいんだろうか。
……違う。なにかが、違う気がする。

「そうだったら……この状況でおかしい話だけど、ちょっと嬉しい」

「どうして……?」

なぜかその言葉は、すぐに口から吐き出された。

「どうして、って……」

里見君は困った顔で微笑んでいる。
私は小さく息を吐き出した。

「……ごめん、先に着替えさせて。ちょっと飲んでるから、口もゆすぎたいし」

「飲んでるって……誰と飲んできたの」

私が黙っていると、里見君からすぅっと表情が消えていく。
次の瞬間、私は里見君に抱きしめられていた。

「……お酒くさい」

私はゆっくりと、里見君の胸を押す。

「……リビングで、待ってて」

もう今までのようにはいかなくなったのだと、私は里見君に抱きしめられて悟った。
いろいろなものを見ないふりして、この関係を続けることはできない。

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