野良猫は、溺愛する
Act 6:野良猫は傷口を舐める(5)
眠りが浅かったのか、私にしてはめずらしく鳥の鳴き声で目が覚めた。
隣を見れば、里見君はまだスースーと寝息を立てている。さすがに疲れたのだろう、私が物音を立ててしまったというのに、起きる気配はない。
今日が休みだからか、ゆうべは容赦なかった。里見君はたしか仕事終わりだと言っていたはずなのに、どれだけ体力が余っているのかと、四歳差を思わぬところで実感することになった。おかげで今、少し腰がダルい。
求められることが嬉しくて、里見君に言われるまま応じていたけれど、起きて冷静に考えてみれば、やっぱりなにかおかしい気がしている。
もし、これで終わりにしようとしているのだとしたら……。
不安はすぐ、頭の中で具現化される。形になったものはどんどん大きくなって、私はいつかそれに押し潰されてしまうのかもしれない。
ネガティブな考えを払おうと大きく息を吐き出してから、私はゆっくり上体を起こした。床を見れば、いかにも情事のあとですと言わんばかりに、服が点々と落ちている。
里見君を起こさないように、体をゆっくりずらしてベッドから降りると、床に散らばっていた服を拾って、里見君の服は簡単に畳んでからベッドに置いておいた。
「あっつい……」
リビングに入った途端、湿気を含んだ蒸し風呂のような暑さが体に纏わりつく。この蒸し暑さは、ゆうべ少し降った雨のせいだろう。
壁かけの時計を確認してみると、十時を疾うに過ぎていた。窓の外の太陽は、もうだいぶ高いところまでのぼっている。
「そりゃ暑いわけだよね……」
暑さに耐え切れず、真っ先にエアコンをつける。里見君が起きてくる頃までには、いい具合に冷えているだろう。
「……さて、コーヒーの準備しようかな」
振り返ると、ソファーが視界の隅に入った。
ゆうべは、ここで……。
こうしてまた、里見君の欠片はこの家に残っていく。
「……おはよ」
朝食を兼ねた昼食が出来上がる頃、里見君は目をこすりながらリビングに現れた。下は穿いているけれど、上半身は裸のままで目のやり場に困る。
「……おはよう。まだ眠そうだね。先にシャワー浴びてくる?」
「ううん……それより、めちゃくちゃいい匂いがするんだけど」
「あー、朝昼兼用のご飯作ったから」
里見君はキッチンまで来ると、後ろから私の腰に抱きついた。布を通さない肌のぬくもりが伝わってきて、ドキドキする。
「なにを作ってくれたの? 早く食べたい」
首に、里見君の息がかかる。まだゆうべの熱が残っているのか、それだけのことで体の芯が熱を帯びてくる。
「上を着てきたほうがいいよ。エアコンつけてるから風邪引いちゃう」
里見君は「はーい」と言いながら寝室に戻り、Tシャツを着ながらすぐにリビングへと戻ってきた。
「なんかやることは?」
「じゃあ、これを持っていって」
カトラリーのセットを里見君に預ける。私がお皿をテーブルに持っていくと、里見君は「おおっ!」と感嘆の声を上げた。
「これって……カレーじゃないよね? 匂いが違ったもん」
「ハッシュドビーフだよ。でも冷凍庫にあった豚肉を使ったからハッシュドポークだし、マッシュルームじゃなくしめじだけどね」
自分で言ってから、もはやそれはハッシュドビーフじゃなくて違う食べ物だよなぁと、苦笑いしてしまう。里見君はそんなのお構いなしに、目をキラキラさせているのがわかる。
「なっちゃんって、すごいよね」
「えっ、なにが?」
「家にあるもので工夫して、こんな料理作れるんだもん」
「全然。すごくないよ。里見君のお母さんも、きっとそうやって日々作ってたと思うよ」
言ってから、里見君は私に一度も家の事情を話していないのに、こういう話はまずかったかな、と後悔する。
里見君は顔を顰めて首を横に振った。
「俺の母親は料理下手くそだからレパートリーも少なくて、スーパーの総菜を買ってきたりしてたことが多かったよ。むしろ、父親のほうが料理は得意かも。でもたまの休日にわざわざそのための材料を買ってきて作ってたから、なっちゃんみたいにあるもので工夫なんてしなかったし」
「……そうなんだ」
抵抗なくするりと返ってきたことに、ほっとした。
好きな人の口から家族のことが聞けるというのは、特別な場所に踏み込ませてもらえたようで嬉しくなる。
よく見れば、里見君の髪には寝癖がついていた。頭のてっぺんの髪がぴょんと飛び出て、かわいいことになっている。
直されないように黙っていようと思った刹那、思わず直してしまった金岡編集長との痛恨の出来事も記憶から引き出されて、苦い気持ちになってしまった。
「ね、食べてもいい?」
「……あっ、どうぞ。冷めないうちに召し上がれ」
「やった。いただきます」
カトラリーケースの中からスプーンを取り出し、里見君は「それひと口分?」と疑いたくなるような分量を掬って、口に入れた。
「……なにこれ。こんなの、家で作れんの?」
里見君がものすごく驚いたような顔をしているから、笑ってしまった。
「大げさだよ。ルウがあればもっと簡単だったんだけどね。今日は前に買っておいたデミグラスソースの缶詰があったから」
「めちゃくちゃうますぎてびっくりした……」
里見君はそう言って、黙々と食べ進めている。
「里見君は本当に褒め上手だよね。作り甲斐がある」
「本気でうまいから、そういう感想になるだけだよ」
私が数口しか食べていない間に、気づけば里見君はもう完食しそうだ。
「本当は赤ワインを入れるともっと美味しかったんだけど、今ちょうど切らしてたから」
あとひと口、というところで、なぜか里見君の手がぴたりと止まった。
彼はこちらに視線を向けたものの、なぜかすぐに視線を彷徨わせている。
一瞬で、緩やかだった空気が張り詰めていくのを感じる。なにを言われるのかと身構えていると、里見君がおもむろにこちらを見た。
「……あのさ」
「……うん」
「この前一緒に飲んだワインって、寺嶌さんからもらったものだったんだね」
里見君の口から『寺嶌』という名前が出て、ドキリとした。
あの時、やっぱり里見君は、私たちの会話を聞いていたんだ。
隣を見れば、里見君はまだスースーと寝息を立てている。さすがに疲れたのだろう、私が物音を立ててしまったというのに、起きる気配はない。
今日が休みだからか、ゆうべは容赦なかった。里見君はたしか仕事終わりだと言っていたはずなのに、どれだけ体力が余っているのかと、四歳差を思わぬところで実感することになった。おかげで今、少し腰がダルい。
求められることが嬉しくて、里見君に言われるまま応じていたけれど、起きて冷静に考えてみれば、やっぱりなにかおかしい気がしている。
もし、これで終わりにしようとしているのだとしたら……。
不安はすぐ、頭の中で具現化される。形になったものはどんどん大きくなって、私はいつかそれに押し潰されてしまうのかもしれない。
ネガティブな考えを払おうと大きく息を吐き出してから、私はゆっくり上体を起こした。床を見れば、いかにも情事のあとですと言わんばかりに、服が点々と落ちている。
里見君を起こさないように、体をゆっくりずらしてベッドから降りると、床に散らばっていた服を拾って、里見君の服は簡単に畳んでからベッドに置いておいた。
「あっつい……」
リビングに入った途端、湿気を含んだ蒸し風呂のような暑さが体に纏わりつく。この蒸し暑さは、ゆうべ少し降った雨のせいだろう。
壁かけの時計を確認してみると、十時を疾うに過ぎていた。窓の外の太陽は、もうだいぶ高いところまでのぼっている。
「そりゃ暑いわけだよね……」
暑さに耐え切れず、真っ先にエアコンをつける。里見君が起きてくる頃までには、いい具合に冷えているだろう。
「……さて、コーヒーの準備しようかな」
振り返ると、ソファーが視界の隅に入った。
ゆうべは、ここで……。
こうしてまた、里見君の欠片はこの家に残っていく。
「……おはよ」
朝食を兼ねた昼食が出来上がる頃、里見君は目をこすりながらリビングに現れた。下は穿いているけれど、上半身は裸のままで目のやり場に困る。
「……おはよう。まだ眠そうだね。先にシャワー浴びてくる?」
「ううん……それより、めちゃくちゃいい匂いがするんだけど」
「あー、朝昼兼用のご飯作ったから」
里見君はキッチンまで来ると、後ろから私の腰に抱きついた。布を通さない肌のぬくもりが伝わってきて、ドキドキする。
「なにを作ってくれたの? 早く食べたい」
首に、里見君の息がかかる。まだゆうべの熱が残っているのか、それだけのことで体の芯が熱を帯びてくる。
「上を着てきたほうがいいよ。エアコンつけてるから風邪引いちゃう」
里見君は「はーい」と言いながら寝室に戻り、Tシャツを着ながらすぐにリビングへと戻ってきた。
「なんかやることは?」
「じゃあ、これを持っていって」
カトラリーのセットを里見君に預ける。私がお皿をテーブルに持っていくと、里見君は「おおっ!」と感嘆の声を上げた。
「これって……カレーじゃないよね? 匂いが違ったもん」
「ハッシュドビーフだよ。でも冷凍庫にあった豚肉を使ったからハッシュドポークだし、マッシュルームじゃなくしめじだけどね」
自分で言ってから、もはやそれはハッシュドビーフじゃなくて違う食べ物だよなぁと、苦笑いしてしまう。里見君はそんなのお構いなしに、目をキラキラさせているのがわかる。
「なっちゃんって、すごいよね」
「えっ、なにが?」
「家にあるもので工夫して、こんな料理作れるんだもん」
「全然。すごくないよ。里見君のお母さんも、きっとそうやって日々作ってたと思うよ」
言ってから、里見君は私に一度も家の事情を話していないのに、こういう話はまずかったかな、と後悔する。
里見君は顔を顰めて首を横に振った。
「俺の母親は料理下手くそだからレパートリーも少なくて、スーパーの総菜を買ってきたりしてたことが多かったよ。むしろ、父親のほうが料理は得意かも。でもたまの休日にわざわざそのための材料を買ってきて作ってたから、なっちゃんみたいにあるもので工夫なんてしなかったし」
「……そうなんだ」
抵抗なくするりと返ってきたことに、ほっとした。
好きな人の口から家族のことが聞けるというのは、特別な場所に踏み込ませてもらえたようで嬉しくなる。
よく見れば、里見君の髪には寝癖がついていた。頭のてっぺんの髪がぴょんと飛び出て、かわいいことになっている。
直されないように黙っていようと思った刹那、思わず直してしまった金岡編集長との痛恨の出来事も記憶から引き出されて、苦い気持ちになってしまった。
「ね、食べてもいい?」
「……あっ、どうぞ。冷めないうちに召し上がれ」
「やった。いただきます」
カトラリーケースの中からスプーンを取り出し、里見君は「それひと口分?」と疑いたくなるような分量を掬って、口に入れた。
「……なにこれ。こんなの、家で作れんの?」
里見君がものすごく驚いたような顔をしているから、笑ってしまった。
「大げさだよ。ルウがあればもっと簡単だったんだけどね。今日は前に買っておいたデミグラスソースの缶詰があったから」
「めちゃくちゃうますぎてびっくりした……」
里見君はそう言って、黙々と食べ進めている。
「里見君は本当に褒め上手だよね。作り甲斐がある」
「本気でうまいから、そういう感想になるだけだよ」
私が数口しか食べていない間に、気づけば里見君はもう完食しそうだ。
「本当は赤ワインを入れるともっと美味しかったんだけど、今ちょうど切らしてたから」
あとひと口、というところで、なぜか里見君の手がぴたりと止まった。
彼はこちらに視線を向けたものの、なぜかすぐに視線を彷徨わせている。
一瞬で、緩やかだった空気が張り詰めていくのを感じる。なにを言われるのかと身構えていると、里見君がおもむろにこちらを見た。
「……あのさ」
「……うん」
「この前一緒に飲んだワインって、寺嶌さんからもらったものだったんだね」
里見君の口から『寺嶌』という名前が出て、ドキリとした。
あの時、やっぱり里見君は、私たちの会話を聞いていたんだ。
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