野良猫は、溺愛する
Act 5: 野良猫はなにを考えている?(1)
それから数日。
今日は例の、ドラマキャストの特集ページ撮影のため、私は自社社屋にある通称『白ホリ』と呼ばれる全面白背景のスタジオルームに向かっていた。
Bijouxとの合同企画ゆえに、いつもに増して気を引き締めなくてはと、廊下を歩きながらひっそり気合を入れる。その一方で、本当はすぐにブレーキがかかりそうなほど、足取りは重かった。
里見君と池尻ありさのツーショットを、また目の前で見なければいけないのかと思うと、鉛を飲まされたように胸が重苦しくなる。里見君の心の中に今も彼女がいるのかはわからないけれど、元カノというだけで心が拒否反応を示してしまう。それにいつぞやの、私に対する池尻ありさの態度もどこかで引っかかっていた。
でもなんであれ、仕事ならきっちりこなさなくてはならない。心を奮い立たせて、私は足を前に踏み出した。
今日はドラマの初回放送日前日でもある。キャスト陣は、取材や番宣の撮影後に制作サイドの方々とスタジオに来ることになっていた。
「伊吹さん、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
Bijouxの編集やカメラマンと挨拶を交わし、軽く打ち合わせをしているうちに、スタッフを引き連れてぞろぞろとキャスト陣がスタジオに現れた。
池尻ありさは、なんとなく里見君に寄り添うような感じで横に並んでいた。
仕事だと割りきっていても、ふたりが一緒にいるところを見たら、どうしても心にさざなみぐらいは立ってしまう。私はなるべく彼らのほうを見ないようにして準備を進めた。
番宣撮影後すぐこちらに移動してきた里見君たちは、ドラマの衣裳のままだ。それを利用して、最初のカットは衣裳のまま撮る予定になっている。
「では、撮影開始します。みなさんよろしくお願いします」
すべての準備が整い、金岡編集長が声をかけるとスタジオにたくさんの人の拍手が響き渡った。
ここにはドラマ制作サイドのみならず、ドラマのスポンサーや今回タイアップするブランドのスタッフまで大勢駆けつけ、いつもとは明らかに違う雰囲気を醸し出している。
でもこの威圧感ある空気のおかげか、仕事モードへと完全に意識を切り替えることができて、私としては助かっていた。
「あの、コンテの段階で言えばよかったんですけど、ふたりの最初のカットは台本に合わせてもう少し険悪そうな感じで撮ってもらって、衣装を変えてから……」
撮影の途中で、ドラマの広報からこまごまと注文が入る。
内心、本当にもっと早く言ってくれればいいのにと思いながらも、私はすべてに「わかりました」と返答して、カメラマンとBijoux側のスタッフと急遽打ち合わせをする。
資料から、ふと目線を上げた視界の隅に、里見君と池尻ありさが親密そうに話している姿が映った。
気にしても仕方がない。
そう思えば思うほど、隅にあるふたりの存在感は私の中でどんどんと増していき、つい目線をそちらに移してしまいそうになる。
せっかく、切り替えられたと思ったのに。些細なことですぐ揺らいでしまう自分の弱さを否応なしに突きつけられる。
集中集中……。
まるで試合に臨むスポーツ選手のように、私はその言葉を心の中で何度も繰り返し呟いた。
今日はいつにも増して、失敗が許されない現場だ。もし今なにか大きなミスをしでかしたら、私だけではなく編集長の首すらもあやしくなる。余計なことにとらわれている場合じゃない。
打ち合わせを終え、ひとつ息を吐き出したところで、ちょうど後ろから来た寺ちゃんと目が合った。彼は私を真正面にとらえると、緩く口角を上げて微かに頷く。
やっぱり、寺ちゃんの様子が明らかにいつもと違う。どのへんが、と言われるとなかなか説明しづらいけれど、長年付き合っていると、ちょっとした表情の違いでなんとなくわかるものだ。声をかけようかと思ったその時、間の悪いことに撮影が再開されてしまった。
その後は撮影も順調に進み、衣装替えの前に少しだけ休憩時間を設けることとなった。
とは言っても休憩するのは当然キャスト陣だけで、私たちスタッフは次の撮影のための準備や打ち合わせに入る。
洋服に合わせてメイクや髪型なども変えるため、寺ちゃんとも最終的な打ち合わせをする。終わると寺ちゃんは「ちょっと」と言って、スタジオの隅に目配せをした。
仕事中、表立って私をこんなふうに呼ぶのは珍しい。
やはり、あのこと、だろうか。
「どうかしたの?」
「いや……俺が土産に買ってきた岩手のワイン、飲んだかな、と思って」
なんだそのことか、と拍子抜けする。でもよく考えれば、寺ちゃんが恋愛的な話を私にするわけがなかった。これまで寺ちゃんのそういう話は、兄を通してしか聞いたことがない。
「うん、ご馳走になったよ。飲みやすくて美味しかった」
「そうか。ワイナリーおすすめのものは、やっぱり間違いないな」
そういえば、寺ちゃんから預かっている兄の分のワインがキッチンに転がったままだったな、と思い出す。
「でも、なにもそれ、今訊かなくても……」
「あ……いや、それで、さ……」
言いかけて、寺ちゃんはふと、なにかに気づいたように横を向いた。つられて私もそちらを向くと、着替えを終えた里見君が近くに立っていて驚いた。
いったい、いつからそこにいたのだろう。まったく気配を感じなかった。
「……お話の邪魔をして、すみません」
浮かない表情をしているように見えるのは、気のせいだろうか。さっきまでは、特に変わった様子はなかったと思うのに。
「着替え終わったんですけど、メイクルームに入っていればいいですか?」
抑揚のない事務的な言い方が気にかかったけれど、私は努めて、いつもの仕事の時と同じように答える。
「まず女性陣からメイクルームに入るから、その間里見君たちにはインタビューさせてもらうことになってたよ」
見れば、遠くのほうで里見君のマネージャーが手招きをしていた。
「……わかりました。すみません」
寺ちゃんも里見君の様子に違和感を感じたのか、なにか言いたげに私と目を合わせる。
気にはかかるものの、とりあえずさっきの話を再開させようと口を開きかけたところで、Bijoux側の担当者が慌てた様子で駆け込んできた。
今日は例の、ドラマキャストの特集ページ撮影のため、私は自社社屋にある通称『白ホリ』と呼ばれる全面白背景のスタジオルームに向かっていた。
Bijouxとの合同企画ゆえに、いつもに増して気を引き締めなくてはと、廊下を歩きながらひっそり気合を入れる。その一方で、本当はすぐにブレーキがかかりそうなほど、足取りは重かった。
里見君と池尻ありさのツーショットを、また目の前で見なければいけないのかと思うと、鉛を飲まされたように胸が重苦しくなる。里見君の心の中に今も彼女がいるのかはわからないけれど、元カノというだけで心が拒否反応を示してしまう。それにいつぞやの、私に対する池尻ありさの態度もどこかで引っかかっていた。
でもなんであれ、仕事ならきっちりこなさなくてはならない。心を奮い立たせて、私は足を前に踏み出した。
今日はドラマの初回放送日前日でもある。キャスト陣は、取材や番宣の撮影後に制作サイドの方々とスタジオに来ることになっていた。
「伊吹さん、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
Bijouxの編集やカメラマンと挨拶を交わし、軽く打ち合わせをしているうちに、スタッフを引き連れてぞろぞろとキャスト陣がスタジオに現れた。
池尻ありさは、なんとなく里見君に寄り添うような感じで横に並んでいた。
仕事だと割りきっていても、ふたりが一緒にいるところを見たら、どうしても心にさざなみぐらいは立ってしまう。私はなるべく彼らのほうを見ないようにして準備を進めた。
番宣撮影後すぐこちらに移動してきた里見君たちは、ドラマの衣裳のままだ。それを利用して、最初のカットは衣裳のまま撮る予定になっている。
「では、撮影開始します。みなさんよろしくお願いします」
すべての準備が整い、金岡編集長が声をかけるとスタジオにたくさんの人の拍手が響き渡った。
ここにはドラマ制作サイドのみならず、ドラマのスポンサーや今回タイアップするブランドのスタッフまで大勢駆けつけ、いつもとは明らかに違う雰囲気を醸し出している。
でもこの威圧感ある空気のおかげか、仕事モードへと完全に意識を切り替えることができて、私としては助かっていた。
「あの、コンテの段階で言えばよかったんですけど、ふたりの最初のカットは台本に合わせてもう少し険悪そうな感じで撮ってもらって、衣装を変えてから……」
撮影の途中で、ドラマの広報からこまごまと注文が入る。
内心、本当にもっと早く言ってくれればいいのにと思いながらも、私はすべてに「わかりました」と返答して、カメラマンとBijoux側のスタッフと急遽打ち合わせをする。
資料から、ふと目線を上げた視界の隅に、里見君と池尻ありさが親密そうに話している姿が映った。
気にしても仕方がない。
そう思えば思うほど、隅にあるふたりの存在感は私の中でどんどんと増していき、つい目線をそちらに移してしまいそうになる。
せっかく、切り替えられたと思ったのに。些細なことですぐ揺らいでしまう自分の弱さを否応なしに突きつけられる。
集中集中……。
まるで試合に臨むスポーツ選手のように、私はその言葉を心の中で何度も繰り返し呟いた。
今日はいつにも増して、失敗が許されない現場だ。もし今なにか大きなミスをしでかしたら、私だけではなく編集長の首すらもあやしくなる。余計なことにとらわれている場合じゃない。
打ち合わせを終え、ひとつ息を吐き出したところで、ちょうど後ろから来た寺ちゃんと目が合った。彼は私を真正面にとらえると、緩く口角を上げて微かに頷く。
やっぱり、寺ちゃんの様子が明らかにいつもと違う。どのへんが、と言われるとなかなか説明しづらいけれど、長年付き合っていると、ちょっとした表情の違いでなんとなくわかるものだ。声をかけようかと思ったその時、間の悪いことに撮影が再開されてしまった。
その後は撮影も順調に進み、衣装替えの前に少しだけ休憩時間を設けることとなった。
とは言っても休憩するのは当然キャスト陣だけで、私たちスタッフは次の撮影のための準備や打ち合わせに入る。
洋服に合わせてメイクや髪型なども変えるため、寺ちゃんとも最終的な打ち合わせをする。終わると寺ちゃんは「ちょっと」と言って、スタジオの隅に目配せをした。
仕事中、表立って私をこんなふうに呼ぶのは珍しい。
やはり、あのこと、だろうか。
「どうかしたの?」
「いや……俺が土産に買ってきた岩手のワイン、飲んだかな、と思って」
なんだそのことか、と拍子抜けする。でもよく考えれば、寺ちゃんが恋愛的な話を私にするわけがなかった。これまで寺ちゃんのそういう話は、兄を通してしか聞いたことがない。
「うん、ご馳走になったよ。飲みやすくて美味しかった」
「そうか。ワイナリーおすすめのものは、やっぱり間違いないな」
そういえば、寺ちゃんから預かっている兄の分のワインがキッチンに転がったままだったな、と思い出す。
「でも、なにもそれ、今訊かなくても……」
「あ……いや、それで、さ……」
言いかけて、寺ちゃんはふと、なにかに気づいたように横を向いた。つられて私もそちらを向くと、着替えを終えた里見君が近くに立っていて驚いた。
いったい、いつからそこにいたのだろう。まったく気配を感じなかった。
「……お話の邪魔をして、すみません」
浮かない表情をしているように見えるのは、気のせいだろうか。さっきまでは、特に変わった様子はなかったと思うのに。
「着替え終わったんですけど、メイクルームに入っていればいいですか?」
抑揚のない事務的な言い方が気にかかったけれど、私は努めて、いつもの仕事の時と同じように答える。
「まず女性陣からメイクルームに入るから、その間里見君たちにはインタビューさせてもらうことになってたよ」
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