野良猫は、溺愛する
Act 4:野良猫は住処で待つ(1)
時折吹く風はじっとりと肌に纏わりつき、日差しはじりじりと焼けるような熱を放射している。
季節はもうすっかり夏。ハンカチで汗を拭ってから、傍らに置いていたスポーツドリンクを勢いよく喉に流し入れる。
早朝から、私は海辺のハウススタジオに来ていた。今日はMen’s Fortで里見君と人気を二分している、遊上君の撮影日だ。
その里見君とはもう十日ほど会えていない。あの、合鍵を渡した朝が最後になってしまっている。どうやら以前、金岡編集長が話していたように、地方での撮影が続いているようだった。
深夜ドラマは製作費が少なく、通常なら地方ロケをしたとしても近郊止まりということが多いようだけれど、今回は人気急上昇中の女優山岸蘭と、同じくモデルで人気急上昇中の里見君や池尻ありさが出演するということで、大手企業のスポンサーもついて普段よりは予算があるらしい。
「なんだかたそがれてますねー、伊吹さん」
「えっ……あ、遊上君」
今はつかの間の、お昼休憩時間。彼はついさっきまで向こうで食事をしていたはずで、ふいに声をかけられて少しびっくりしてしまった。
耳の辺りまで伸びた遊上君の髪が、海風に吹かれてサラサラと揺れている。
「ちゃんと食べた?」
「もちろん。腹減ってたんで、あのぐらいはソッコーですよ」
今日のケータリングは、『パン工房椿』のサンドイッチBOXにした。私もさっき打ち合わせをしながらつまんだけれど、天然酵母を使っているからかパンが味わい深く、野菜もたっぷりで美味しい。ここのサンドイッチは男女問わずモデルさんたちに人気なのも頷ける。
遊上君は首の辺りを触りながら、眉を顰めた。
「海風ってベトベトするから、気持ち悪いっすよね」
「汗拭きシートならあるよ」
「さっすが、伊吹さん」
なにがさすがなのかわからなかったけれど、私はいつも撮影時に持ち歩いている絆創膏やらの小物が入ったバッグから汗拭きシートを取り出して遊上君に差し向ける。
「わ、ちゃんとメンズものだ」
「だって、男の人が女性ものを使うのは抵抗があるでしょ?」
私がそう言うと、遊上君はなぜか「ぶはっ」と噴き出した。
「なんで笑うの」
「あ……いや、すんません」
遊上君がそれを受け取ろうとした時、手のひらの真ん中あたりに傷らしきものが見えた気がした。
「そこ、どうしたの?」
反射的に、声をかけてしまう。
「……え?」
「あ……手の平。なんとなく傷があるように見えたから」
遊上君は少し驚いたような顔をしてから「やっぱ、さすがっすね」と、またさっきと同じようなことを呟いた。
遊上君はこちらに右手の平をぱっと開いて見せる。
「この間ミュージックビデオの撮影があったんですけど、演出で水使ったから床が濡れてて滑っちゃって、転んだ時にたまたま機材に触れて切っちゃったんすよ」
遊上君はバンド活動もしていて、それのミュージックビデオの撮影だったらしい。見せてもらった傷はさほど酷くはなさそうだったけれど、かさぶたが痛々しく見える。
「伊吹さんって、本当にすごいっすよね」
私の手から汗拭きシートのパックを受け取ると、遊上君はさっそく中身を取り出し、首の辺りを拭いた。
「なにがすごいの?」
「気配りが、ですよ。汗拭きシートみたいなものだって、メイクさんが持ってることはあっても、編集さんで持ってる人は見かけないっすもん。今みたいに、細かいところにもよく気がつくし」
もしかしたら使うかもしれない小物を持ち歩くようになったのは、女性誌の編集部にいた時からだ。モデルさんの要望を聞いているうちにあれもこれもと、どんどん荷物が増えていったことは確かだけれど、周りの編集者も当たり前にやっていると思っていた。
「実はこの傷も、怪我してから今まで誰にも気づかれてなかったんですよね」
「えっ……そうなの?」
「まあ、気づいても言わないだけだったのかもしれないっすけど」
むしろ見たまま指摘した私こそ、デリカシーがないということにはならないだろうか。
少々居心地の悪さを感じていると、遊上君はふ、と相好を崩した。
「伊吹さんみたいに細やかなところにまで気を配ってる編集さんって、なかなかいないもんですよ」
「そう、かな。編集者って、みんなこんなもんじゃない?」
「違いますよ。そう思ってるの、伊吹さんだけですよ」
思いがけず持ち上げられて、さっきとは違う居心地の悪さに、汗が出てきた。
今それを拭うわけにいかないのがもどかしい。
「そういや、里見も前に言ってましたよ」
「……えっ」
「『伊吹さんはとにかく気遣いがすごい、あんな編集の人見たことない』って」
トクトクと、鼓動が急に主張し始める。
「……そんなこと聞かせても、なにも出ないよ」
不覚にも、声にうっすら動揺が滲んでしまった。
「あはは。俺、どんな見返りを伊吹さんに求めるんすか」
一枚では足りなかったのか、遊上君はもう一枚汗拭きシートを手にすると、今度は腕の辺りを拭き始めた。
「伊吹さんってもしかして、恋愛面でも人に尽くすタイプですか?」
「え?」
「相手のことばっか考えて自分は二の次、とか」
言われてみれば昔、ひとつの恋が終わった時に友人からそんなようなことを言われたことはあった。
自分では必要以上に尽くしているつもりはなかったけれど、傍から見ればそう見えたのかもしれない。
「結構、痛い目見てそう」
遊上君の笑い声を遠くで聞きながら、ぼんやり考える。私は本当に、相手のことばかり考えているのだろうか、と。
少なくとも今は、自分のことしか考えていない気がする。里見君が私の傍にいてくれるためにはどうすればいいのだろうとか、思いきり“ジコチュー”だ。
「男は気のない女性からでも甲斐甲斐しくされると、すぐ勘違いしますからね。尽くし過ぎると、それに甘えて相手はどんどんダメ男になりがちだし」
遊上君は諭すように言う。
「……ねえ。遊上君っていくつだっけ?」
「もう少しで二十三です」
「私より三つも下なのに、よくわかってるね……」
「いろんな人間が周りにいますからね。勉強させてもらってます」
そう言って、遊上君はまたクスクスと笑っている。
「まあ、逆のパターンもあるけど」
「逆?」
「男のほうが、相手のためになんでもやっちゃうの。たとえば里見なんて、その傾向が強いと思う」
思いがけず里見君の名前が出て、ドキリとする。動揺しないようにと、心の中で一呼吸置いてから遊上君に「里見君が?」と訊いた。
「だってあいつ、基本みんなに優しいでしょ。俺はあんなふうに誰にでも優しくはできないから」
“誰にでも”
「……そうなの?」
「俺は大事にしている人以外には、わりと冷淡っすよ」
遊上君はそう言って爽やかに微笑む。
里見君から優しくされているのは、私だけじゃない。
そんなわかりきったことを聞いてショックを受けるなんて、どこまでずうずうしい人間になってしまっていたのだろう。
優しくされて、甘えられて、合鍵まで受け取ってもらえたから、どこかのぼせ上がっていたのかもしれない。
里見君の心の中には、別の人間がいる――。
その可能性を、忘れたわけではなかったのに。
「とにかく、尽くし過ぎないほうが身のためですよ。甘えられるだけならまだいいけど、優しさを利用するやつもいますからね。恋愛は対等な関係が一番」
私に汗拭きシートの袋を返しながら、遊上君はにっこりと笑う。
私は年下からの助言に「肝に銘じておきます」と返すので精いっぱいだった。
季節はもうすっかり夏。ハンカチで汗を拭ってから、傍らに置いていたスポーツドリンクを勢いよく喉に流し入れる。
早朝から、私は海辺のハウススタジオに来ていた。今日はMen’s Fortで里見君と人気を二分している、遊上君の撮影日だ。
その里見君とはもう十日ほど会えていない。あの、合鍵を渡した朝が最後になってしまっている。どうやら以前、金岡編集長が話していたように、地方での撮影が続いているようだった。
深夜ドラマは製作費が少なく、通常なら地方ロケをしたとしても近郊止まりということが多いようだけれど、今回は人気急上昇中の女優山岸蘭と、同じくモデルで人気急上昇中の里見君や池尻ありさが出演するということで、大手企業のスポンサーもついて普段よりは予算があるらしい。
「なんだかたそがれてますねー、伊吹さん」
「えっ……あ、遊上君」
今はつかの間の、お昼休憩時間。彼はついさっきまで向こうで食事をしていたはずで、ふいに声をかけられて少しびっくりしてしまった。
耳の辺りまで伸びた遊上君の髪が、海風に吹かれてサラサラと揺れている。
「ちゃんと食べた?」
「もちろん。腹減ってたんで、あのぐらいはソッコーですよ」
今日のケータリングは、『パン工房椿』のサンドイッチBOXにした。私もさっき打ち合わせをしながらつまんだけれど、天然酵母を使っているからかパンが味わい深く、野菜もたっぷりで美味しい。ここのサンドイッチは男女問わずモデルさんたちに人気なのも頷ける。
遊上君は首の辺りを触りながら、眉を顰めた。
「海風ってベトベトするから、気持ち悪いっすよね」
「汗拭きシートならあるよ」
「さっすが、伊吹さん」
なにがさすがなのかわからなかったけれど、私はいつも撮影時に持ち歩いている絆創膏やらの小物が入ったバッグから汗拭きシートを取り出して遊上君に差し向ける。
「わ、ちゃんとメンズものだ」
「だって、男の人が女性ものを使うのは抵抗があるでしょ?」
私がそう言うと、遊上君はなぜか「ぶはっ」と噴き出した。
「なんで笑うの」
「あ……いや、すんません」
遊上君がそれを受け取ろうとした時、手のひらの真ん中あたりに傷らしきものが見えた気がした。
「そこ、どうしたの?」
反射的に、声をかけてしまう。
「……え?」
「あ……手の平。なんとなく傷があるように見えたから」
遊上君は少し驚いたような顔をしてから「やっぱ、さすがっすね」と、またさっきと同じようなことを呟いた。
遊上君はこちらに右手の平をぱっと開いて見せる。
「この間ミュージックビデオの撮影があったんですけど、演出で水使ったから床が濡れてて滑っちゃって、転んだ時にたまたま機材に触れて切っちゃったんすよ」
遊上君はバンド活動もしていて、それのミュージックビデオの撮影だったらしい。見せてもらった傷はさほど酷くはなさそうだったけれど、かさぶたが痛々しく見える。
「伊吹さんって、本当にすごいっすよね」
私の手から汗拭きシートのパックを受け取ると、遊上君はさっそく中身を取り出し、首の辺りを拭いた。
「なにがすごいの?」
「気配りが、ですよ。汗拭きシートみたいなものだって、メイクさんが持ってることはあっても、編集さんで持ってる人は見かけないっすもん。今みたいに、細かいところにもよく気がつくし」
もしかしたら使うかもしれない小物を持ち歩くようになったのは、女性誌の編集部にいた時からだ。モデルさんの要望を聞いているうちにあれもこれもと、どんどん荷物が増えていったことは確かだけれど、周りの編集者も当たり前にやっていると思っていた。
「実はこの傷も、怪我してから今まで誰にも気づかれてなかったんですよね」
「えっ……そうなの?」
「まあ、気づいても言わないだけだったのかもしれないっすけど」
むしろ見たまま指摘した私こそ、デリカシーがないということにはならないだろうか。
少々居心地の悪さを感じていると、遊上君はふ、と相好を崩した。
「伊吹さんみたいに細やかなところにまで気を配ってる編集さんって、なかなかいないもんですよ」
「そう、かな。編集者って、みんなこんなもんじゃない?」
「違いますよ。そう思ってるの、伊吹さんだけですよ」
思いがけず持ち上げられて、さっきとは違う居心地の悪さに、汗が出てきた。
今それを拭うわけにいかないのがもどかしい。
「そういや、里見も前に言ってましたよ」
「……えっ」
「『伊吹さんはとにかく気遣いがすごい、あんな編集の人見たことない』って」
トクトクと、鼓動が急に主張し始める。
「……そんなこと聞かせても、なにも出ないよ」
不覚にも、声にうっすら動揺が滲んでしまった。
「あはは。俺、どんな見返りを伊吹さんに求めるんすか」
一枚では足りなかったのか、遊上君はもう一枚汗拭きシートを手にすると、今度は腕の辺りを拭き始めた。
「伊吹さんってもしかして、恋愛面でも人に尽くすタイプですか?」
「え?」
「相手のことばっか考えて自分は二の次、とか」
言われてみれば昔、ひとつの恋が終わった時に友人からそんなようなことを言われたことはあった。
自分では必要以上に尽くしているつもりはなかったけれど、傍から見ればそう見えたのかもしれない。
「結構、痛い目見てそう」
遊上君の笑い声を遠くで聞きながら、ぼんやり考える。私は本当に、相手のことばかり考えているのだろうか、と。
少なくとも今は、自分のことしか考えていない気がする。里見君が私の傍にいてくれるためにはどうすればいいのだろうとか、思いきり“ジコチュー”だ。
「男は気のない女性からでも甲斐甲斐しくされると、すぐ勘違いしますからね。尽くし過ぎると、それに甘えて相手はどんどんダメ男になりがちだし」
遊上君は諭すように言う。
「……ねえ。遊上君っていくつだっけ?」
「もう少しで二十三です」
「私より三つも下なのに、よくわかってるね……」
「いろんな人間が周りにいますからね。勉強させてもらってます」
そう言って、遊上君はまたクスクスと笑っている。
「まあ、逆のパターンもあるけど」
「逆?」
「男のほうが、相手のためになんでもやっちゃうの。たとえば里見なんて、その傾向が強いと思う」
思いがけず里見君の名前が出て、ドキリとする。動揺しないようにと、心の中で一呼吸置いてから遊上君に「里見君が?」と訊いた。
「だってあいつ、基本みんなに優しいでしょ。俺はあんなふうに誰にでも優しくはできないから」
“誰にでも”
「……そうなの?」
「俺は大事にしている人以外には、わりと冷淡っすよ」
遊上君はそう言って爽やかに微笑む。
里見君から優しくされているのは、私だけじゃない。
そんなわかりきったことを聞いてショックを受けるなんて、どこまでずうずうしい人間になってしまっていたのだろう。
優しくされて、甘えられて、合鍵まで受け取ってもらえたから、どこかのぼせ上がっていたのかもしれない。
里見君の心の中には、別の人間がいる――。
その可能性を、忘れたわけではなかったのに。
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