野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 3:野良猫は鈴をつける(2)

翌日の夜、里見君はうちにやってきた。
今回はちゃんと『撮影が早く終わったらそっちに行こうと思うんだけど、大丈夫?』と、私の都合を聞くメッセージが送られてきていた。
毎日会社と家との往復で、はなから予定なんてものはないので『大丈夫』と送ろうとして、私は少しだけ勿体ぶってそれに『多分』を付け加えて送っていた。

「なんか飲む?」

「うん」

「冷たいのでいい?」

「むしろ、冷たいのがいい。あっつい」

晩ご飯はテレビ局で出されたお弁当を食べたとのことで、お腹いっぱいのところにペリエもどうかと思い、作り置きしていたお茶をコップに注ぐ。

「水出しのブレンドティーにしたけど、よかった?」

お茶をテーブルに乗せると、里見君はグラスをまじまじと見つめた。

「酸味が強いのじゃなければ」

「酸っぱいのは苦手だもんね。これは酸味もないし、飲みやすいと思うよ」

以前、私が飲んでいたローズヒップティーを里見君がひと口飲んで顔を顰めたことがあった。あれから自分用にもローズヒップティーは買わなくなってしまっている。

「なっちゃんは俺の好みをよく覚えててくれるよね」

「それは……まあ」

里見君はにっこりと微笑んで、グラスに口をつけた。「あ、うま」と言って、ふた口目をこくりと飲み込んでいる。その様子にほっとして、私もグラスに口をつけた。
シャワーを浴び終わったところだったから、リビングのテレビは消えたままだ。なんとなく落ち着かなくてリモコンを手にすると、なぜか里見君にその手をとめられた。

「……あのさ。今日は台本の読み合わせに付き合ってくれないかな、と思って」

「えっ、私が?」

あらかじめ私の都合を聞いたのは、もしかしたらそういう理由からだったのだろうか。
なんにせよ、私が演技などできるはずがない。困っていると、里見君が笑い出した。

「大丈夫、なっちゃんに演技力は求めてないから」

里見君はそう言って、私に台本を手渡す。
表紙には『そんな恋などどこにも転がってない』というタイトル文字と、少女漫画的なイラストが書かれている。

ドラマのタイトルは当然知っていたものの、この文字を見て改めて、これは恋愛ものなんだなと、はっきり認識させられた。
見れば、台本の端にはたくさんの付箋が貼られている。

「その、黄色い大きな付箋が貼ってあるページからお願いします」

里見君は私に向かって丁寧に頭を下げた。
ページをめくると、冒頭には“シーン10 アパート前”と書かれている。

「なっちゃんには山岸蘭ちゃんの役をやってもらいたいんだ」

「ええと……この“ひより”って書いてあるところだよね?」

「そう」

里見君は“ミツジ”という役名だ。ぎこちないながらも、私は“ひより”の台詞を読んでいく。
感情を込めて読んだほうが里見君にとってはいいのだろうけれど、恥ずかしさが先に立ってどうしても棒読みになってしまう。彼はそんな私を笑ったりせず、真面目に演技を続けている。台本はもうすっかり頭に入っているようだった。

「“こんな時間からお出かけですか”」

「“そういうあんたも、今日もコンビニ飯ですか”」

どうやら、このひよりと里見君扮するミツジは同じアパートで、しかも隣同士という設定らしい。おそらく最初はいがみ合っていて、あとから恋愛関係に発展するパターンなのだろう。

「“独り暮らしでひとりぶんのご飯を作るのは不経済だからそうしているんです。ほっといてください”」

「“じゃ、俺のぶんも作れば?”」

「“はあ?”」

あまりのミツジの不遜な台詞に、思わず「はあ?」という台詞に感情がこもってしまった。
里見君は私が本気で返したからか、少々驚いた様子でこちらを見た。でもすぐに“ミツジ”の顔へと戻る。

「“カレーとか、唐揚げもいい”」

一瞬、台本から目を離してしまったからか、行を見失ってしまった。その台詞がどこに書かれているのかわからなくて、必死で探す。

「“唐揚げはニンニクが入っていないほうが助かる”」

「ごめん、ちょっと行を見失っちゃって……それってどこに書いて――」

「“カレーはひき肉と薄切り肉が入ってるやつね”」

「――えっ?」

驚いて台本から顔を上げると、里見君はいたずらっこのような笑みを浮かべていた。

「でも俺、なっちゃんの作るものはみんな好き」

そう言って里見君はこちらに両手を伸ばし、私を引き寄せる。

――“好き”

里見君の口から、初めて聞いた気がする。
インパクトの強いその言葉は、あっという間に心の水面をゆらゆらと揺らしていく。
ふわりと抱きしめられながら、私は彼の言った『好き』だけが、心の中でひとり歩きしないようにと何度も戒めていた。


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