野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 2:野良猫は甘えた声で鳴く(3)

「じゃ、乾かすよ」

ごぅ、と音がしたと同時に、風で髪が踊った。サラサラと頭を撫でる里見君の手が、思いのほか気持ちがいい。普段、自分が人から乾かされ慣れているせいなのか、里見君は意外にも乾かすのがうまい。

……誰かにも、そういうことをしているからだったりして。
首をもたげたネガティブの影が、スッとあの彼女の顔に変わる。

「なっちゃん、ちょっと頭下げて」

「あ……はい、すみません」

「ははっ、なんで謝るの」

背中越しに、楽しそうにしている空気が伝わってくる。人の髪を乾かすことのなにがそんなに楽しいのかわからないけれど、里見君が楽しんでいるのならそれでいい。

「……ねえ。頭、まだ戻しちゃだめ?」

下を向いているのがそろそろ窮屈に感じて、少しだけ左後ろを向いて訊いてみるも、「まだだめ」と、すぐ両手で頭を戻されてしまった。
首筋に当てられた冷風が、火照った体に気持ちいい。私の後頭部の髪を真上に掻き上げるようにすると、里見君はなにを思ったのか、いきなりうなじにつぅ、と指を這わせた。

「ひゃ……っ」

「感じた?」

距離が近いからか、クスクスと小さく笑った声までドライヤーの音で掻き消されることなくはっきり耳に届いた。

「だ、だっていきなりそんなとこ触るから……」

頭にふわりと、風とは別の感触がしたかと思えば、明らかにさっきと違う柔らかなものが首に当たった。
吸われたのか、ちりっと、微かな痛みを覚える。

「……こんな間近でうなじなんか見せられたら、触りたくなるに決まってるでしょ」

囁かれた声は、耳のすぐそばで聞こえた。
風が止まり、ことりと床に置かれたドライヤーを視界の隅にとらえたのも束の間、後ろから伸びてきた手が私の顔の向きを変える。

「……っ」

大分窮屈な体勢だろうに、里見君は初めから深く口づけてくる。
口内には、私のとは違う、ミントの味。少し、甘い。

「……ね……っ」

「……ん?」

「台本……覚えようと、してたんじゃないの……?」

このままキスだけでは終わらない気配がして、止められなくなる前に里見君に問いかける。

「もう、大体覚えた」

「大体って……ンっ……ぅ」

「大丈夫だよ」

本当だろうか。
彼の、仕事の邪魔にだけは、なりたくない。

「髪も乾いたし……ベッド、行く?」

彼のことを思うなら、断ればいい。
そう思いながらも、拒んだらもうここに来てくれなくなりそうで、頷いてしまった。
それに――。

「素直……かわいい」

そう言って破顔すると、里見君は私の頭をぐしゃぐしゃとする。
こんな顔を見せられてしまったら、どっちにしても拒めるわけがない。


その晩、里見君はうちに泊まった。
彼は来れば必ず泊まるというわけではなく、仕事が朝早かったり、マネージャーが家まで迎えに来たりする時は、たとえ深夜であっても自宅に帰っていく。

私は里見君の寝顔を横目に上半身を起こし、足をベッドから床におろした。どうやらその振動で里見君を起こしてしまったようで、うーん、と言いながら彼は隣で伸びをしている。

「……おはよ」

かなり眠いのか、目が半分しか開いていない。

「おはよう。まだ六時だから寝てて大丈夫だよ」

立ち上がろうとすると、後ろから腰の辺りに抱きつかれた。

「わっ」

「なっちゃんも、まだいいでしょ」

私の出勤時間は午前九時半で、里見君は撮影の現場には十時までに入ればいいらしい。確かに少しぐらいなら大丈夫だけれど、このパターンはいつも結局、あとで時間に追われることになってしまう。

「私は朝ご飯作るから、起きるよ」

それでも里見君の手は私の体から離れてはくれず、私は仕方なく腰に巻きついている腕を強引に引き剥がした。
寝室を出る前に振り返れば、ベッドの上の里見君は口をへの字に曲げて不満そうな顔をしている。その様子がなんだか子供染みていて笑ってしまった。

朝食を作り終え、里見君を呼ぼうかと思っていると、匂いに釣られたのかちょうどいいタイミングで彼はリビングに姿を現した。
ふたりで食事を済ませ、各々出かける準備をする。

先に洗面所を使っていた里見君から声をかけられて、入れ違いで私は洗面所へと向かった。コップに水を溜めながら、目の前を見る。洗面所の棚はいつものように、隙間が空いていた。今朝もなにひとつ、表情を変えてはいない。

里見君は、泊まるために必要なものを毎回すべて持ってきている。その都度持ってくるのも持って帰るのも大変だろうと思うのに、綺麗さっぱり、使ったものはここから持ち帰ってしまう。

いつ来なくなってもいいように、かな……。
置いていってほしいなら、それを伝えればいいだけのことだとわかっている。
些細なことだ。
でもその一言が口から吐き出せないまま、ここまできてしまっている。

「撮影スタジオまでは少し距離があるから、今日は俺が先に出るよ」

ふたりとも準備を終えてリビングに腰を落ち着けたところで、里見君はそう言った。
万が一のことを考えて、部屋を出る時はこのところ時間差で出ることにしている。里見君も売れてきているし、週刊誌の記者が張っていないとも限らないと私が言い出したことだ。

「気をつけてね。撮影、頑張って」

「うん、ありがとう」

里見君は玄関で伊達眼鏡をかけ、帽子を被った。

「じゃ」

扉がパタリと閉じられる。
次はいつ、里見君に会えるだろうか。
きっと、次に会うのは仕事の現場だろうなと思いながら鍵をかけようとすると、がちゃりと扉が開いて心臓が飛び出そうになった。

「び、びっくりした……忘れ物?」

里見君はするりと家の中に体を滑らせる。

「うん。大事なもの忘れた」

そう言って、いきなり私の頭を引き寄せ、キスをした。

「な……」

「大事、でしょ?」

不意打ちを食らって、顔が熱くなってくる。里見君は、してやったり、と言わんばかりの笑顔を見せてから、深く口づけた。
……落ちにくい口紅を塗っていてよかった。

「じゃ、今度こそ」

こんなことをされたら、余計に離れがたくなってしまう。私は胸が詰まって声が出せず、ただ里見君の言葉に、急ごしらえの笑顔で頷いてみせた。

「行ってくるね」

気がつけば閉まった扉を見つめながら、私はしばらく玄関に立ちつくしていた。

“行ってくるね”

里見君の声が、頭の中にこだましている。
これを約束の言葉ととらえるのは、かなり虫が良すぎる話かもしれない。
でも。

「……行ってらっしゃい」

もう誰もいない玄関に向かって、私は小さくその言葉を呟いた。


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