野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 2:野良猫は甘えた声で鳴く(2)

* * *

仕事は定時で上がったものの、鞄の中には確認しなくちゃいけない書類が山ほど入っている。そのまま残業してもよかったけれど、毎日遅くまで職場に居続けるのは心が荒むだけだと、半ば強引に帰ってきた。

適当に用意した夕食を早めに済ませ、テーブルに書類を広げてチェックしているところに、今夜も野良猫はするりと夜を縫ってやってきた。

「俺、先にシャワー浴びてくるね」

私が仕事をしていたから気を利かせたのか、里見君はうちに来るなりそう言った。食事はドラマの現場で済ませたらしい。

「ああそうだ、今日はお湯溜めて湯船に浸かっていいからね。ちゃんと浴槽の掃除もしてあるから。入浴剤使うなら、洗面所の引き出しの三段目に入ってる」

里見君は私に気を遣ってか、いつもシャワーしか使わない。それでは疲れも取れないだろうと、私は彼の後ろ姿に声をかける。
言ってから、ちょっと母親みたいな口調になってしまったなと、心の中で苦笑いした。

「あはは……わかった」

力なく笑って、里見君はふらりとバスルームに消えた。

「……大丈夫かな」

慣れない仕事で、相当疲れているのだろう。
里見君の様子も気になるものの、今は自分の仕事を先にどうにかしなくてはいけない。
私は無理やり仕事に意識を集中させ、里見君がお風呂に入っている間になんとか終わらせた。

私がテーブルの上を片づけていると、頬を紅潮させた里見君がリビングに戻ってきた。のぼせ気味だったのか、エアコンの風がよく当たるところに立って「あー涼しー」と気持ちよさそうな顔をしている。

「お言葉に甘えて、お湯張らせてもらったよ。面倒で家でもシャワーだけだったから久々に入ったけど、やっぱりお湯に浸かるとリラックスできていいね。ありがとう」

「私も入りたかったし、むしろお湯溜めてもらって助かった。こちらこそありがとう」

感謝し合ったことに照れくささとおかしさ感じていると、里見君はなぜかニヤりと妙な笑みを浮かべた。

「そっか。なっちゃんは俺の入ったお湯に浸かるんだ」

ごく当たり前のことを言われて、頭に疑問符が回る。眉間に皺を寄せながら首を捻ると、彼は少し俯き、なんとなく恥ずかしそうに言う。

「なんか……ちょっとエロいなって」

「な……なに言ってんの、変態っぽいよそれ」

恥ずかしくなって、思わずこれまで彼に対して言ったことのない言葉を発してからハッとする。
どうしよう。里見君は気を悪くしただろうか。

「俺、変態だもん。知らなかった?」

なに、その顔……かわいいんですけど。
少し口を尖らせて、ふて腐れたように言ってからニッと笑う里見君を、今すぐぎゅっと抱きしめたくなってしまった。

「そんなの、知らない……」

私はそう言いながら、逃げるように慌てて洗面所へと向かった。

「ああ……もう、無理……っ」

里見君の表情に身悶えしている私のほうが、よっぽど変態なんじゃないかと思う。
気を落ち着けるため大きく息を吐き出してから浴室の扉を開けると、ふわりと、ミルクのような甘い香りが鼻をくすぐった。

入浴剤、使ってくれたんだ。
里見君のファンからすれば、今の私の状況は夢のようだろう。SNSで里見君のことをパブサしている時、彼と一緒にお風呂に入りたい、いや、入ったあとの湯船に浸かるだけでもいい、とか、そんな願望を垂れ流している呟きを見かけたこともある。
……と言っても私はもう、彼ともっとエロいことをしてしまっているわけだけど。

体を洗い終わってから、私は心の中で誰にというわけでもなくただ「ごめんなさい」と謝りながら、湯船に浸かった。
決して、優越感に浸っているわけじゃない。本当に私なんかが、こんな夢のような状況でいていいのかという、純粋に申し訳ない気持ちからだ。

里見君が妙なことを言ったものだから、お湯に浸かっている間、まったく落ち着かなかった。でも入浴剤入りの柔らかなお湯はやっぱり心地よく、心身の疲れを癒してくれる。


充分に体を温めてからリビングに戻ると、里見君はソファーで居眠りをしていた。台詞を頭に入れていたのか、テーブルの上にはドラマの台本が伏せて置かれている。
寝室から夏用のブランケットを持ってきて里見君にかけてあげると、彼はびくりと目を覚ました。

「んんー……、俺寝てた……?」

眼鏡をはずして、子供のように目をこすっている姿がかわいい。
思わずにやけそうになって、それを強引に噛み殺す。

「寝てたよ。大口開けて」

「口は開けてなかったでしょー」

やんわり反論しながら、手に持っていた眼鏡をかけている。今日は普段あまり見かけない、べっ甲色の細いフレーム。これもまた、里見君によく似合っている。

「疲れているなら、無理してここに来なくてもよかったんじゃない?」

言ってから、しまった、と思う。
心配する気持ちが強すぎたせいか、意図せず少し、突き放したような言い方になってしまった。フォローしようか逡巡していると、里見君はふいに私の右手を掴んだ。

「……だって、会いたかったんだもん」

そんな甘えた声で言われると、どうしたらいいのかわからなくなる。
例えるなら、警戒心剥き出しだった野良猫が体を擦りつけてくるあの感じに似ている。
でもこちらが気を緩めて不用意に手を出せば、牙を剥かれてしまうかもしれないし、逃げていってしまうかもしれない。
私はこんなふうに、いつも正解を探っている。

「……ありがと。でも里見君の体が心配だから、無理はしないでね」

さらりと言えただろうか。
飲み物でも持ってこようかと自然に手を離そうとすると、里見君は握っていた私の手を強く引いて、無理やり自分の隣に座らせた。

「今日は俺がなっちゃんの髪、乾かしてもいい?」

「えっ」

「今、ドライヤー持ってくるから待ってて」

そう言うと素早く立ち上がり、里見君はあっという間に洗面所のほうへと消えていく。
私は暗闇の中の残像を、呆然と見つめていた。
髪を乾かしたいとか、今までそんなこと一度も言ったことはなかったのに。なにか心境の変化でもあったのだろうか。

「お待たせー」

ドライヤーを手にしている里見君は、なぜか嬉しそうだ。

「ねえ、急にどうしたの……?」

「なにが?」

「だって、いつもそんなことしないのに」

「俺に乾かされるの、嫌?」

「そうじゃなくて……」

困惑している私に「じゃ、いいじゃん」と言いながら、テーブルの下の棚に置いてあった延長コードをコンセントに差し込み、いそいそと乾かす準備を進めている。
なにがうちのどこに置いてあるかとか、もう随分と把握してるんだな、と思う。

里見君がここに来たのは今日で何度目だろう。私の中の均衡が崩れてしまいそうで、敢えて数えることはしていないけれど、ドライヤーをどこにしまっているかも、延長コードの置き場さえもわかるぐらいには、この家で一緒に過ごしているのだ。

そんなことをぼんやり考えているうちに、どうやら準備ができたらしい。私を座らせようとしている床には、丁寧にクッションまで置いてくれていた。

「座って」

少し緊張しながらそれに腰かけると、里見君は私のちょうど真後ろになるようソファーに腰かける。

「もっと、体こっち」

後ろから、両肩に手がかかる。引き寄せられ、背中がソファーに当たると、体が里見君の両足に挟まれた恰好になった。
……これは、余計に緊張する。

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