野良猫は、溺愛する

つきおか晶

Act 1:野良猫は擦り寄る(3)


* * *

「はい……では、よろしくお願いします」

クライアントとの電話を終えたと同時に、たまたま傍らに置いていたプライベート用のスマホが短く震えた。多分、メールか チャットアプリ。でも手帳型のケースを使っているから、カバーを開けない限り画面が見えない。

社内の時計を確認すると、ちょうど午前十時を回ったところだった。
こんな時間に来るのは、多分迷惑メールのたぐいだろう。そう思ったけれど、もしかしたら仕事繋がりの誰かかもしれないと思い直して、ロックを解除する。
相手はめずらしいことに、里見君だった。

『実は昨日、ドラマの仕事が決まった』

チャットアプリのふきだしに書かれていたのは、その一行。

「ええっ」

思わず驚きが口に出てしまい、慌てて辺りを見回す。幸い、みんな忙しくしていてこちらを気にしている人はいなかった。
俳優の仕事は、彼が前々から挑戦してみたいと言っていた仕事だ。

矢も楯も堪らず、里見君に『夢が叶ったんだね、おめでとう!』というメッセージと、大喜びしているひよこのスタンプを送った。今が仕事中だということは、この際気にしない。
ドラマ出演が決まった時の、喜ぶ里見君の顔を勝手に想像しては、ひとりにやけてしまう。ひとしきり嬉しさを噛みしめてから、私はふと、違和感を覚えた。

「昨日……?」

決まったのが昨日ならば、どうしてゆうべのうちに直接話してはくれなかったのだろうか。
単に話し忘れた?
それとも、私は真っ先に話す相手じゃなかった……?

思考が良からぬ方向へと進みそうになったところに、金岡 孝太郎かなおかこうたろう編集長からお呼びがかかった。
本当のことはわからないんだから、考えても仕方がない。そう気持ちを切り替え、私は原稿を手にして金岡編集長のもとへ向かった。

それからは締め切り前ということもあって毎日仕事に追われ、終電で帰宅という日々が続いた。
気がつけば、ドラマ決定の報告メッセージをもらってから二週間ほどが過ぎていた。その間“野良猫”は一度もうちに来ることはなかったし、連絡すら来ていない。

きっとドラマの仕事が決まって、にわかに忙しくなってしまったのだろう。無理やりにでもそう考えなければ、あの報告が最後になってしまったのかもしれないと、また悪いほうへ考えそうになってしまう。
ネガティブに考えてもなにもいいことはない。わかってはいるけれど、なかなかマイナス思考というやつは手ごわく、しぶとい。

こんな時は友達とお酒でも飲みに行って、余計なことを考える暇をなくしてしまおうかと思っていると、タイミングのいいことに社内で親睦会をやろうという話が持ち上がった。
同じ出版社の雑誌編集者と、仕事関係者とのささやかなパーティー。
専属モデルの子たちも呼ぼうという話になったけれど、里見君からは欠席の連絡が来たようだった。

「では、かんぱーい!」

グラスを合わせる音が、あちらこちらで響く。
親睦会は、我が社ご用達のカフェダイニングで行われている。席は、会場に到着した順で適当に選んでいいことになっていた。両隣には私が一年前まで在籍していた女性ファッション誌編集部の先輩である志賀 和香しが わかさんと、その専属モデルの桜庭さくらばヒロコちゃんが座っている。

和香さんは私よりふたつ年上の二十八歳。ヒロコちゃんはひとつ下だけれど誕生日がまだだから、今は二十四歳だ。一緒に仕事をしているうちになんとなく気が合って、私が異動する前はなにかと理由をつけては、この三人でよく飲みに行っていた。

昔というほど前ではない昔話に花を咲かせ、お互い近況報告などをし終えたあと、「そういえば」とヒロコちゃんがなにかを思い出したように話し始めた。

「Men’s Fortの里見廉君、ドラマ決まったらしいねー」

里見君のドラマ出演の話は、彼から連絡が来た一週間後に、所属事務所から編集部のほうにも連絡がきていた。
社交的で顔が広いヒロコちゃんは、相変わらず情報を掴むのが早い。

「そう……だ、ね。深夜枠みたいだけど」

身内気分で鼻高々に話をしてしまいそうになって、私は慌てて口調を立て直す。

「へぇ、すごいねー。里見君って、モデルになって何年だっけ?」

「たしか……四年くらい、だったと思います」

本当は四年と三カ月。
里見君だから、細かいところまで覚えているわけではない。編集者として今在籍しているモデルさん達のデータはしっかりと頭に入れている。これは私に限った話ではないからちょっと警戒しすぎかとは思ったけれど、些細なところで勘づかれてしまいそうで、私は和香さんに敢えて曖昧に答えてみせた。

「共演者が誰かとか、もう聞いた?」

ヒロコちゃんに訊かれて、私は首を横に振る。
私が編集部経由で知った情報は、ドラマは午後十一時からの放送で、里見君は初めてのドラマにもかかわらず二番手、主役の相手役だということだけだった。

「たしか、ヒロインがこの間まで戦隊ものに出ていた山岸 蘭やまぎしらんで、『Bijouxビジュー』のモデルの池尻いけじりありさちゃんも出るって話だったかなー」

『Bijoux』というのは、我が銀漢社の女性誌の中で一番の売り上げを誇るファッション誌で、池尻ありさはそこの人気モデルのひとり。なんとなく見回してみたけれど、どうやら彼女も今日はここに来ていないようだ。

ヒロコちゃんは本当によく知ってるな、と感心しながら何気なく和香さんを見ると、彼女はなぜか妙な顔をしていた。

「……どうかしたんですか?」

和香さんは若干、口を開くのをためらっているようにも見える。ややあって、手にしていたグラスをテーブルに置いてから「余計な心配なんだけど……大丈夫なのかな、と思っちゃって」とこぼした。
なにがですか、と言いかけて、私は直感的に言葉を呑みこむ。
……嫌な予感がした。

「いや、勝手にあのふたりは共演NGかと思ってたから」

和香さんの言葉にヒロコちゃんはなにかを思い出したのか、「あっ、そうだった」と声を上げた。
和香さんが私を見る。

「そっか、伊吹は知らなかったか」

周りを一度見回してから、和香さんは自分のほうへ顔を寄せるようにと手招きした。

「どうやらつき合ってたらしいの、里見君とありさちゃん」

お腹の辺りが、ひゅっと冷たくなった。どんどん血の気が引いていくのがわかる。
だめだ……なにか、リアクションしなきゃ。そう頭ではわかっているのに、私は驚きの声さえ出すことができずにいた。

今、二人の前でちゃんと取り繕えているのかもわからない。冷静さを取り戻そうと、もう一度和香さんの言葉を心の中に引きずり出してみる。
『つき合ってたらしい』とは、過去形……?

「伝え聞いた噂話だけど、目撃者も結構いたみたいで」

「そうそう。腕を組んで仲良さそうに歩いてるところを見たって、私も前にモデル仲間数人から聞いたし、夜中ありさちゃんのスマホに電話をかけたらなぜか里見君が出たって話もあったし、単なる噂じゃなく信憑性はあると思う」

ヒロコちゃんと和香さんの会話がただ、目の前を通り過ぎていく。
いつかは里見君のそういう話を聞く日が来るだろうと、覚悟はしていた。
していたけれど……だめだ。思った以上に痛い。胸が。心が。

「別れたらしいとも聞いたけど、結局、実際のところはわからないままだったなぁ、そう言えば」

ヒロコちゃんは嘆息しながら、近くにあったフルーツ盛りのパイナップルにフォークを突き刺した。果汁が、パイナップルから滴り落ちる。

「やっぱり別れたんだ?」 

つられたのか、和香さんもフォークをパイナップルに刺している。

「んー、多分。たしかその時聞いたのは、ありさちゃんが二股してたのがバレたから別れたとかなんとか」

ふたりともパイナップルを頬張りつつ、真剣な顔で話をしている。私はただそれをぼんやり見つめているだけだ。

「えー、二股?! ありさちゃん、すごいね……それで? その二股していたもうひとりの人物も、噂で聞こえてきてたりする?」

「それが、そのもうひとりの男っていうのは――」

ちょうどその時、遠くから「伊吹ー!」と私を呼ぶ声がした。
声の方向を見れば、金岡編集長が私を手招きしている。

「ごめんなさい。なんだかわからないけど、編集長に呼ばれちゃいました」

私は金岡編集長に返事をしたあと、ふたりに手を合わせながらそう言った。

「この集まりはそもそも仕事の延長なんだし、謝らなくていいって。そうだ、今度久々に三人で飲みに行こうよ。その時にでもまたゆっくり」

「あ、いいねー。行きたい!」

和香さんの言葉にヒロコちゃんも同調する。私はふたりにもう一度謝り、半分はほっとしながら、もう半分は後ろ髪を引かれながら、席を立った。
ヒロコちゃんは、あのあといったい誰の名前を言おうとしていたのだろう。


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