社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

EX_1. Cosmos Melody 前編

※ 本編完結後のお話になります。
※ 本編のネタバレを含むので閲覧の際はご注意下さいませ。


「龍悟さん」

 隣に並んだ上司であり恋人である男性の名を呼んで、涼花は頬を膨らませた。

 食べ過ぎて、と言うよりも、食べさせられ過ぎてお腹がきつい。こんなに満腹感と幸福感でいっぱいになのに、今日もまた一円も払わせないつもりなのだろう。今日こそは少しでも食事代を払わせて欲しい――そんな不満を込めて龍悟の顔を見つめるけれど。

「車出してくる。正面で待っててくれるか?」

 なんて文句さえ言わせないようににっこりと微笑まれてしまうと、いつも通り不満の言葉は形にならない。仕方がなく『はい』と呟くと、龍悟は勝ち誇った表情を浮かべて先に店を出て行った。

 食事代を払うか払わないかという無言の攻防に敗北した涼花は、大人しく化粧室に寄ってリップを塗り直す。今夜はこのまま龍悟の家へ帰るだけだが、食事の後で色が落ちた口元を放置するのはあまりに不格好だ。だが龍悟を待たせるわけにもいかないので、素早く身だしなみを整えるとすぐに店を出る。

 正面で、と言われたので、店を出てすぐの歩道で駐車場から車を出庫する龍悟を待つ。今日の料理も美味しかったなぁ、とぼんやり考える涼花は、きっと気が抜けていたのだろう。

「涼花?」

 膨満感と多幸感に満たされていた涼花に、後ろから誰かが声を掛けてきた。驚いてびくんと飛び跳ねてしまう。

 至近距離で聞こえた声に既視感を覚え、勢いよく後ろを振り返る。声を掛けられただけでなんとなく不安と不穏の気配を感じたのは、気のせいではなかった。涼花に声を掛けてきたのは、案の定知り合いだったのだ。

「やっぱり涼花だ」
「先、輩……」

 振り返った視線の先――背後に立っていたのは、涼花が大学時代に所属していたサークルの先輩だった。彼は涼花が人生で一番最初にお付き合いをした二つ年上の元恋人だ。そして涼花が心に傷を負い、長年思い悩む原因になった人物でもある。

 そういえばこの近隣に本社を構える総合商社に入社したと、はるか昔に風の噂で聞いた記憶があった。だが本人に確かめた訳ではないし、聞きたいとも思っていなかったので、すっかりと記憶の底に押し込めていた。

 おずおずと視線を上げて、気が付く。
 就活をしていた大学時代はずっとリクルートスーツだったので、ビジネススーツ姿は初めて目にする。けれどそれ以外は何も変わっていない。まるであの頃のまま時間が止まったように、先輩の印象はあの頃と何一つ変わっていなかった。

「……久しぶりだな」

 久しぶりと言われたので考えてみたら、確かにかなり久しぶりだ。けれどあれから会いたいと思ったことは一度もない。

「びっくりした。なんかすげー綺麗な子がいるなぁと思ったら」

 どく、と心臓が嫌な音を立てる。許容量を超えるほど血液が一気に流出したように、胸の苦しさと拍動の音を激しく感じる。

 会いたいと思ったことなどなかった。懐かしさを感じることもなかった。先輩と付き合っていた日々を青春の一ページだとは思えなかった。なのにこんな道端で、ばったりと遭遇してしまうなんて。

「お久しぶり、です……」
「なんだ、他人行儀だな」

 だからつい心の距離をぐんと引き離す。付き合っていた頃は今よりうんと若い頃だったし、敬語なんて一切使っていなかった。

 けれど今はお互いに社会人だし、確かに知り合いではあるが親しい間柄ではない。他人だ。だから間違った対応はしていないと思うのに。

「まぁ、付き合ってたって言っても別に深い仲だったわけじゃないしな」

 彼が何気なく口にした言葉を耳にした瞬間、何から何まで間違っている気分になってくる。あの日に意識と記憶を引き戻されるような気がして、全身がわずかに震え出す。

 じり、と一歩後退する。

「涼花、今は彼氏いるの?」
「……」
「もしいないならさ、これから飲みにでも……」

 先輩が、何かを訊ねてきている。何かの提案をしている。しかし内容が全く頭に入ってこない。

 七センチのヒールの上で、足が震える。嫌な記憶を思い出すまいと懸命に下半身に力を入れる。溢れ出しそうになっている必死に蓋を押さえつけて、ギリギリのところで冠水を免れているような焦燥感に襲われる。敵意をもって接する相手ではないと理解しているが、嫌な汗が肌とブラウスの間をじっとりと濡らす。

 ふと先輩が、身を屈めて涼花の顔を覗き込んできた。普段は少し怒ったような印象を受けるのに、にこりと笑った顔と雰囲気はやはり少しだけ龍悟に似ている。

 けれど顔の造形は全然似ていないことに気付く。むしろ、知り合いであるはずなのに、怖いとさえ思う。その眼がどう眇められ、その表情がどう歪み、その口がどんな冷たい言葉を吐き捨てるのかを、知っているから。

 胸の奥に鈍痛を感じ始め、いよいよその場に頽れてしまうのではないかと思い始めた頃になって、ようやく龍悟の愛車が涼花の前に到着した。見知った車体とナンバープレートの組み合わせに、思わずほっと息を吐く。

「!?」

 突然目の前にやってきて停車した車に、先輩が驚いた顔のまま硬直してしまった。

 それはそうだろう。国産車だが間違いなくハイクラスの部類に入るエンブレムと、磨き上げられた黒くて艶やかなボディが光る高級車。そこから颯爽と降りてきた人物が身に纏っているのは、ビジネスマンなら誰もが憧れる老舗ブランドの高級スーツ。品のある光沢で踵を鳴らす上質な革靴。袖から見える腕時計は、涼花が着けている腕時計とは桁が二つ違う。

 その全てを纏ってなお、負けるどころか本人を引き立てる装飾品でしかないとさえ思わせる程の優雅な佇まい。精悍な顔立ちと、高身長でいてもほどよく筋肉がついて引き締まった体躯。

「涼花? ……知り合いか?」

 その絵に描いたように完璧な人物が隣にいる女性の名前を親しげに呼ぼうものなら、それは驚くに決まっている。その女性が自分の昔の恋人だったなら、余計に。

「だ、大丈夫です。行きましょう」
「あ、あぁ……。?」

 そのパーフェクトヒューマンともいうべき男性が、助手席の扉を開けて丁寧に涼花をエスコートしてくれる。その時点で先輩は驚きが二倍に膨れ上がったような表情をしていたが、オーラが強い大男とも表現できる龍悟に怪訝な視線を向けられたので、驚きを通り越して恐怖すら感じたのかもしれない。先輩からはもう涼花に話しかけてくる気配は感じられなかった。

 シートベルトをかけて背もたれに身体を預けると、先輩から無事に離れられたことにそっと安堵する。運転席に戻ってきた龍悟が同じようにシートベルトを嵌める動作を眺めると、思わず大きめの溜息が出た。

 龍悟と関係を深めるようになり、彼が涼花と過ごした時間を忘れないと証明し続けてくれているおかげで忘れがちだが、自分は相手に影響を及ぼす特殊な体質を持っている。そのせいで過去に悲しい思いや苦しい思いをしたし、辛い言葉を浴びせられて蔑ろにされた。

 その苦い出来事を、なぜか突然掘り起こしてしまった。
 そんなつもりはなかったのに。偶然だとしても、会いたいなんて思っていなかったのに。

 走り出した車の窓にこてんと頭を預け、ぼんやりと外を見る。このまま首都高に乗ってしまえば、龍悟の家までは寄り道もせずほぼ一直線だろう。だが楽しいはずの気持ちがどんよりと曇っている。先ほどの満腹感と幸福感が霞んでいるように感じられる。

「涼花? 大丈夫か?」
「……え?」

 駐車場から車を出してくるまでのわずか数分の間にあからさまに元気がなくなってしまった涼花の様子を見て、龍悟がそっと首を傾げた。

 顔を上げると、ちらりと横目で様子を確認される。それなりのスピードが出ているので視線は前に向いたままだが、意識がこちらに向けられていることは涼花にも分かる。

「顔色悪いぞ。食い過ぎたか?」
「あ、いえ! ……大丈夫です」

 心配そうに訊ねられてしまう。だから慌てて否定はする。
 だが勘のいい龍悟ならばきっと涼花の変化に気が付いているだろう。けれど説明する気にはなれない。

 お互いに黙ってしまうと、また沼の中に足を引きずり込まれる心地がした。

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