社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

4-5. True heart


 ふと旭が、涼花が想像もしていなかった切り口から別の話を始めた。

「俺の彼女の話って、したことあったっけ?」
「え? ええっと……恋人がいるというお話は」

 突然の話題の転換に、一瞬面食らう。意味がわからないまま答えると、旭は短く頷いた。それから涼花に言い聞かせるよう、ゆっくりと話し出す。

「臨床心理士なんだ。今はドイツに長期出張中で、年に数回しか会えないんだけど」

 どうやら旭は遠距離恋愛中らしい。しかも日本とドイツ。彼女がいると言う割にいつも牛丼やラーメンを一人で楽しみ、休日にデートに出掛けた話さえしない理由が、まさか海を越えた壮大な距離にあるとは思いもよらなかった。

 旭がプライベートの話をするのも珍しいので涼花は興味津々に頷いたが、彼が次に口にしたのは涼花が期待していたような恋の馴れ初めにではなかった。

「その彼女に聞いたことがあるんだ。人間にも、他の動物と同じくフェロモンってのがあるんだって」

 思わぬ話の方向性に目を見開く。急に何の話をするのかと思ったが、説明には割り込まず黙って頷くことに徹する。

「フェロモンっていうのは、自分じゃなくて相手に作用するものなんだって。さっきの話聞いてふと思ったんだ。その相手が記憶を失う原因って、もしかして涼花が無意識に出してるフェロモン? のせいなんじゃないかなーって」
「!?!?」

 旭の何気ない説明に、涼花は突然雷に打たれたような衝撃と、目から鱗が落ちたような驚きを感じた。

「……」

 しばし言葉を失い、沈黙する。まるで照明が落ちたように静まり返った思考の中で、涼花はただただ驚愕した。

 それは涼花にはなかった発想だ。今まで相手が記憶を失う事実を目の当たりにしてもその原因はわからなかったし、そもそも原因を分析しようと思ったことさえなかった。

 普通は何かに失敗したら、失敗の原因を考えて、次に同じことが起こらないよう対策を考えるものだろう。

 しかし涼花の感覚からはその普通の感覚さえ抜け落ちていた。ひどい言葉をかけられて辛い経験をしたせいで恋愛に臆病になるあまり、原因を探るという問題解決の初歩すら怠っていた。

「俺は別に専門家じゃないし、彼女も専門は発達心理学っていうの? 小さい子の相手ばっかりしてるから、それが絶対だとは言えないけど……」

 自分の説明に補足する旭だったが、衝撃を受けて意識が遠退いていた涼花から驚きの余韻は消えない。

 正直なところ『フェロモン』と聞くと、美しい顔立ちと抜群のスタイルを併せ持つ、いわゆる『絶世の美女』からのみ発せられる『男性を惹きつける特別な魅力』というイメージしか持てない。

 当然その特別な魅力を自分が持っているとは思えないが、旭が言いたいことがそういう意味ではないことも理解できる。あくまで相手の脳に影響を与えるものの代名詞として選んだ言葉が『フェロモン』なのだろう。

 仮にキスした相手が記憶を失う現象が、涼花の発する体分泌物質フェロモンに起因するのだとしたら、それはある種の病なのかもしれない。けれどこれが病なのだとしたら、治療をすれば治るのかもしれない。

「病院に行ったら治るんでしょうか?」
「うーん……薬で抑えるとか? 身体とか脳をいじるとか?」
「え? 脳をいじる!?」
「いやいや、可能性の話だよ」

 涼花は一縷の望みをかけて訊ねてみたが、返ってきた言葉は想像以上にハードな内容だった。もちろん旭の回答は正確ではないだろうが、少なくとも涼花より知識がある事は間違いない。

 笑って宥めた旭は、頬杖をつきながら涼花の顔をじっと眺めてきた。

「涼花はどう思う? 記憶喪失が涼花のフェロモンのせいだとしたら」
「……脳をいじるのは嫌ですね」
「いや、そうじゃなくてさ。そもそも、なんでそんなものが出るようになったんだろう、って思わない?」

 旭の言葉に再び動きを止める。涼花の反応ににこりと笑う旭は、普段は飄々としていて軽い印象さえ受けるが、本当は後輩思いの優しい人だ。

「あくまで俺の仮説というか、妄想だけど」

 旭はビールグラスの縁についた結露を指で拭いながら、そっと呟いた。

「本当は、怖かったんじゃない?」

 旭の言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。まるで過去の涼花の様子を全て見てきたかのように語る旭の言葉が、涼花の胸に音もなく突き刺さった。

 主語がないので一見何の話をしているのかわかりにくい。だが心当たりがある涼花にはその言葉が示す意味をすぐに理解した。

「サークルの先輩のときも、OBの先輩のときも、たぶん社長のときも。きっと涼花に受け入れる準備が出来てないうちに色々進んじゃって、脳が混乱したんじゃない?」
「……」
「だから無意識に、自己防衛のために相手の記憶に作用するフェロモンが出るようになったのかも。リセットしたい気持ちがすごく強く出た結果とか」

 そうかもしれない。

 いや、かもしれないではなく、そうだった。

 涼花は、怖かった。初めてのとき、まだ怖くて受け入れられない気持ちを伝えて、先輩にシラけられてしまうのが怖かった。最初は痛いと聞いていたから、その痛みを知るのも怖かった。実際本当に痛かったし、二回目も三回目も慣れない痛みを身体に刻まれる事が怖かった。

 OBの先輩のときも同じだ。話してみると性格的にはすぐに意気投合したが、付き合い始めてまだ日が浅いうちに身体の関係を求められた事に戸惑った。嫌われないよう応じたが、本当はもっと相手の事を知りたい気持ちが強かった。

 龍悟の時は少し事情が違った。涼花は龍悟を心から好いていたし、彼の人柄も熟知していたので、龍悟を受け入れる事そのものを怖いとは思わなかった。

 ただ、自分の本当の気持ちを知られるのが怖かった。甘い関係に慣れてしまって、仕事でボロが出るのが怖かった。会社の人に知られて、不適切な関係だと詰られて、龍悟と引き離されるかもしれない事が怖かった。

「社長の事は、怖い?」
「……いいえ」

 旭に尋ねられ、涼花はゆっくりと首を振った。その言葉に嘘はなく、龍悟自身を怖いと思った事はない。即答した涼花の顔を見た旭が、満足そうに笑う。

「でしょ。だからさ、折角両想いなんだし、少しずつ受け入れていけばいいんじゃない?」

 旭の言葉に涼花は胸を締め付けられた。

 龍悟はいつも涼花の事情を一番に気にかけてくれた。本当は自分の思い通りにしたいはずなのに、涼花の気持ちを優先して、龍悟の名前さえ素直に呼べない事も会社で知られたくない不安も酌んでくれた。

 記憶がなくなってしまったのは涼花のせいなのに、涼花を責めなかった。それどころかこんな面倒くさい体質を知っても、まだ好きでいてくれる。

「けど涼花は辛いよね。忘れられちゃうんだから」

 旭の言う通りだ。この体質を理解できても、龍悟の優しさを再認識しても、事実は何も変わらない。

 解決方法など、わからない。

「記憶が無くなっちゃう事実は変えられないので……。でも好きな気持ちは、諦められるし、変えることができます」

 だからやっぱり、もう龍悟の傍にはいられない。傍にいるなら徹底的に気持ちを押し殺すしかない。結ばれない想いに淡い期待を寄せて生き続けられるほど、涼花の心は頑丈ではないから。

 だが涼花の言葉を聞いた旭は、驚いたような呆れたような微妙な表情を浮かべた。

「えーと、逆じゃなくて?」
「……逆?」

 旭の言葉を反復すると、怪訝な表情をした旭が涼花の言葉をそっくりそのままひっくり返した。

「涼花が社長を好きなことも、社長が涼花を好きなことも、止められないし変わらないでしょ。でもさ、記憶がなくなっちゃうのは確かに困るけど、そっちはもしかしたら、この先どうにかなるかもしれないじゃん」
「……」

 旭の言葉に、涼花はまたも面食らってしまう。

 ――そうかもしれない。

 記憶がなくなる事実が変えられない、というのは涼花の憶測でしかない。少なくとも今までは同じ結果だったが、今後も絶対に相手の記憶がなくなるかどうかは誰にもわからない。もしかしたらこの先に違う結果が待っている可能性もゼロではない。

 好きな気持ちは諦められるし変えることができる、というのも涼花の願望でしかない。しかもそれは心の底からの願いではなく、そうなれば自分も相手も傷付かなくて済むという現実からの逃亡だ。

 だが旭の考えは違う。お互いを想い合う気持ちは確かな事実で変えられない。記憶がなくなってしまう事は困るが、今後その現象や体質が改善される可能性が絶対にないとは言い切れない。

 涼花は自分の考えが、自分で決めた苦しいルールに縛られていることに気付く。それに比べて旭の発想は自由で素直な考え方だ。

「違った?」
「……いえ。そうですよね」

 不思議そうに訊かれて、涼花はふるふると首を振った。涼花の憑き物が落ちたような表情に、ようやく旭も安堵の笑みを零す。

「私は……コントロール出来るようになるんでしょうか?」
「さあ、どうかな。 そもそも今フェロモン説で話進めてるけど、俺べつに専門家じゃないからね」
「……」

 散々盛り上げておいて落とす。

 そう言えばこの人はそういう人だったな、と気付くと、涼花は何だか心が軽くなる気がした。

 解決策はやっぱりわからない。けれど旭のお陰で少し素直になってみてもいいのかもしれない、と思えた。

 龍悟に向けられる感情を、少し受け入れてみたらどうか? と自分で自分に問いかける。たったそれだけで、今までの重くて苦しい感情が嘘のように引いていく心地を覚えた。

「ま、社長は涼花の心が追い付くまで待ってくれるだろうし、考えたところでどうせ解決策なんてないんだしさ。あんまり難しいこと考えないで、デートぐらい行ってみたらいいじゃん」

 他人事だと思って気楽な調子で言う旭に苦笑する。そう簡単な話でもないと思うのだが、旭にとっては簡単な話らしかった。

「あとさ、涼花はもっと笑うといいよ」

 ビールを飲み干しながら旭が呟く。また突拍子もない事を言い出した旭だったが、これについては龍悟から似たような事を言われていたので、そこまで驚きはしなかった。

 旭は龍悟の要望よりも軽い口調だったが、どちらにせよもっと感情を表現しろという事なのだろう。

「私の思う秘書って、あんまりへらへら笑ったりしないし、ビシッと格好よくスーツを着こなして、社長の傍で凛としてるイメージなんですが。私はまだ全然、上手に振舞えなくて……」
「えぇ? それでずっと気張ってるの?」

 涼花が自分の考えを話すと、旭が心底呆れたように溜息を洩らした。涼花は恥ずかしくなって、つい俯いてしまう。

「他人の前で気を付ければいいだけじゃん。社長や俺には普通に接したらいいのに」
「そうかもしれませんけど、上手く使い分けられなくてボロが出ちゃう気がして。藤川さんは上手ですよね、使い分けるの」
「そんなの慣れだよ、慣れ」

 執務室の中と外で態度が全然違う旭は、いつも物事を楽観視しているような気がする。そもそもの性格が違うので、旭のように振舞おうと思っても涼花にはかなりの難題なのだが、

「勿体ないよ。涼花、笑うと可愛いんだから」

 と言われると、涼花も少しは頑張ってみようと思う。

 少し時間が経ってから『可愛い』と言われた事を意識すると、急に嬉しいような恥ずかしいような気分になってしまう。火照った頬を誤魔化すために視線を逸らした涼花の様子をみて、旭が困ったように呟いた。

「うーん、照れても可愛いのか。確かにこれはずるいな」

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