社長、それは忘れて下さい!?
4-1. Want you
大丈夫! 笑顔! 頑張れ涼花!
家から会社までの通勤中、心の中で同じ言葉を何度も何度も反復する。
週明けの秘書にはやることが多く月曜はいつも早めに出勤するので、会社の付近にもエントランスにもまだ人はまばらだ。だから多少心の声が外に漏れても、不審な目を向ける人はいない。
パネルに社員証を翳してエレベーターに乗り込むと、誰も居ない箱の中でも同じ言葉を繰り返す。
泣きすぎて浮腫んだ目の腫れは引いた。心配したエリカから来たメッセージにも『今度ゆっくり飲みに行こう』と返信した。龍悟に会った時の脳内シミュレーションも何度も繰り返した。だから大丈夫……大丈夫だ。
最上階に到着したエレベーターを降りて執務室まで歩き出す。誰も居ないフロアにヒールの音がコツコツと響く。涼花の心音と同じ速さで響く靴の音に、大丈夫のリズムを乗せる。
あっという間に辿り着いた執務室の電子ロックに社員証を翳すと、短い電子音が聞こえる。深呼吸をする。そしてもう一度『大丈夫』と呟くと、意を決してドアを開けた。
一瞬、視界が奪われる。毎朝涼花が開けるはずのブラインドは何故かすでに開かれ、執務室は明るい光で満たされていた。
「え……社長!?」
その明るい朝日を背に、龍悟が自分のデスクに座ってすでに仕事を始めていた。彼は涼花の声に反応して顔を上げると、少し疲れたような声でゆっくりと頷いた。
「おはよう、秋野」
龍悟に挨拶をされてどう返答しようかと思ったが、挨拶には挨拶を返すのが社会の基本だ。返答の仕方など考えるまでもないだろう。
「おはようございます、社長」
いつまでも入り口に突っ立っているわけにもいかない。恐る恐る自分のデスクに近付きつつ、いつものルーティンを必死に思い出して最も自然らしい会話を模索する。
「……今日は随分とお早いですね……」
そうだ。いつもの月曜日なら涼花がこの時間に到着して、あと十五分程で旭が出社して来て、その十分後に龍悟が出社してくる。今日の龍悟が何時から出社していたのか正確には分からないが、少なくともいつもより三十分は早く出社していることになる。だからこの問いかけは不自然ではないはずだ。
「あぁ……お前に話があって」
ワークチェアに腰掛けながら龍悟の真剣な返答を聞くと、そのまま腰が抜けそうになった。丁度座るタイミングで良かった。
(全然、大丈夫じゃなかった……)
当り障りのない言葉を選んだつもりだったが、会話の流れが自然とか不自然とかいう以前の問題だ。まるで自分で地雷の上までのこのこ歩いてきたように錯覚する。呪文のように繰り返し唱えていた自己暗示のワードも、全く意味を成していなかったと気付く。
腰を落ち着けたのに、気持ちは全く休まらない。心音の間隔が異常に短いと気付いて言葉を詰まらせたが、立ち上がった龍悟が涼花の傍に近寄ると言葉どころか呼吸さえ止まりそうになった。
「秋野……」
デスクに手を付いて涼花の逃げ道を塞ぐと、間近で龍悟に見下ろされる。涼花は何も言えずただその顔を見上げたが、そこでようやく彼が悲し気な表情をしていることに気が付いた。逆光と後ろめたさでまともに見れなかった龍悟の切ない表情に、涼花はそっと胸を痛めた。
「昨日は悪かった。お前を……傷付けてしまったな」
「……」
龍悟の言葉を聞いても、涼花には返答の言葉さえ出てこない。昨日家に帰ってから考えたあれこれも何一つとして思い出せない。
涼花は昨日、秘書として龍悟の傍にいるために色んな事を考えた。今までの龍悟との出来事は全て胸の奥に仕舞い込み、仕事に誠心誠意打ち込もうと決めた。龍悟に問われたら当り障りがなく切り抜けられる返答も、全部シミュレーションしたというのに。
まさか出社直後にいつものルーティンや脳内シミュレーションを崩されるとは想像しておらず、完全に出鼻を挫かれてしまった。
「俺は忘れないと約束したのに……」
龍悟の顔を見つめると、彼は苦虫を噛み潰したような表情で後悔の言葉を呟いた。
また気を遣わせている。
悲しませている。
龍悟の辛さと不安が、涼花には手に取るようによくわかる。忘れた事そのものを忘れた人は、こんな表情などしない。忘れた事を覚えているからこそ、こんなに辛くて、不安で、苦しい気持ちになるのだ。
龍悟にこんな顔をさせているのは、紛れもなく涼花だ。記憶が無くなる方が気楽だなんて、今の涼花には思えない。忘れた方も辛い事は、涼花もよく知っている。
「昨日色々調べたんだが、なんで記憶が無くなるのかまでは分からなかった。だから……」
「社長、お止め下さい」
龍悟はもう、この苦しい感情に囚われる必要はない。好きだと言ってくれただけで十分だった。それだけでこの先の未来、恋愛をしなくても、結婚をしなくても、ずっと孤独でも生きて行けるほどに、涼花には幸福だった。
愛しい人が自分を好きになってくれた。それだけで満足だから、もう忘れた記憶を取り戻す方法も、忘れないように留めておく方法も探さなくていい。
「気にしていません。忘れたままで問題ない、とお伝えしたはずです」
しっかりと、龍悟の目を見て伝える。余計なしがらみで、これ以上龍悟を縛りたくはない。だからちゃんと断ち切る。
今まで共に過ごした夜を全て忘れてちゃんと洗い流せば、時間と共に消えてなくなるはずだ。大丈夫。何度も呟いた言葉をもう一度胸に刻み込む。
「社長は何も悪くありません。だからもう、謝らないでください」
謝らなくていい。申し訳ないなんて思わなくていい。そう願いを込めて、じっと龍悟の顔を見つめる。
「この話は、もう終わりにして頂けませんか?」
でもこれ以上は、無理だった。龍悟の黒い瞳に射止められたら、また想いが溢れて止められなくなりそうな気がして、涼花はそっと視線を下げた。
スカートの上に置いた自分の手が微かに震えているのがわかる。この震えが恐怖なのかショックなのか、自分では判断ができない。
けれど龍悟は、話を終わりにはしてくれなかった。
「待て、秋野。俺は……昨日の返事を聞いていない」
デスクについていた手を離した龍悟は、涼花の目の前にしゃがみ込んで強引に視界に入ってきた。社長に膝を突かせるなんて、と涼花は慌てたが、龍悟は気に留めた様子もなく涼花の手の上に自らの手を重ねてきた。
「お前は、俺の気持ちを知っているんだろう?」
龍悟は少し怒ったような焦ったような声で、昨日と同じ問いかけをした。その目を見つめた涼花は、また泣きそうになってしまう。
(なんで……)
折角無かったことにしようとしているのに、思い出そうとするのだろう。思い出させようとするのだろう。それを知ってどうするのだろう。
龍悟の問いに答えられず黙ってしまった涼花の様子を見て、龍悟はふと質問を変えた。
「お前は?」
意味を理解しかねる短い問いかけに、思わず顔を上げてしまう。龍悟は涼花と視線が合うと、逃さないとでもいうように重ねた指先に力を込めた。
「お前は、俺の事をどう思っている?」
上から手を掴まれ、涼花は最後の逃げ場も失う。龍悟の手は温かく、涼花の心の震えさえ取り払うようなぬくもりがあったが、その優しさに甘えることはできない。けれど見つめられた視線は熱く、逃れることもできない。
「……っ」
愛しい人に見つめられ、涼花はまた胸の奥に熱が灯る気配を感じる。どろどろに溶けた感情が周囲の全てを巻き込みながら燃焼する。痛い想いが、涼花の決心を焼こうとしている。
その熱さに負けないよう、涼花は必死に頭を動かして何とか言葉を絞り出した。
「仕事が出来なかった私を、見捨てず傍に置いてくれて……。いつも優しく指導して下さる、良き上司であると……思っています」
「……それだけか?」
さらに優しく問われたが、そのままこくん、と顎を引く。今の涼花にはそれ以上何も言えない。
貴方が好きです、と正直に伝えたい衝動が胸の奥から湧いてくる。その一方で現実を見て冷静になれ、と真っ当な意見が脳から鋭利に落ちてくる。相反する二つの感情がぶつかり、その衝突の勢いで胸が張り裂けそうだった。
涼花の答えを聞いた龍悟は落胆したように息を吐いた。重ねた指先に一瞬強く力が込められて、わずかに痛みを覚える。だがその力もすぐに抜け、涼花の手の上からそっと離れる。
「……そうか。――わかった」
膝をついて涼花を見つめていた龍悟は、その場で立ち上がると話の終わりを告げる台詞を呟いた。
涼花は俯いたまま唇を噛み締めた。すぐに訂正したい気持ちが沸き上がるのを何とか押さえ込んで口を噤む。
これで涼花の恋は終わりだ。
龍悟との思い出も、龍悟に対する気持ちも、いずれ胸の奥で鎮静化するだろう。あとは時間が解決してくれるのを待つしかない。その間、涼花はせめて龍悟に不便をかけさせないよう、仕事に打ち込むだけになった。
――――はずだった。
「それなら俺は、お前に上司としてじゃなく、男として振り向いてもらえるよう努力するしかないな」
「……。……え?」
頭上から落ちてきた言葉は、涼花の予測をあまりに盛大に裏切っていた。思わず唖然と龍悟を見上げてしまう。
立ち上がってた龍悟は、笑っていた。その表情は大企業のトップに悠然と座する野心の笑みではなく、愛しい人への恋心を募らせた切ない微笑みだった。
(今……なんて?)
予想外の台詞と笑顔に呆気に取られていると、入り口の電子ロックが解除される音が聞こえた。その音を聞くと、龍悟はごく自然な足取りで自分のデスクに戻っていく。
龍悟が自分の椅子に腰かけるのとほぼ同時に、扉の向こうから旭が姿を現した。
「おはよう、涼花。……って、社長? 今日は早いですね。おはようございます」
すぐに龍悟の存在に気付いた旭が、珍しいものを見たように目を見開く。驚きを隠そうともせず朝の挨拶をした旭に、
「あぁ、おはよう」
「……おはようございます」
と龍悟と涼花も挨拶を続けた。
旭は自分のデスクに近付くと、二人の気まずい空気を察したらしい。
「朝から秘密のお話ですか?」
からかうように声を掛けられ、涼花は思わずその場に立ち上がった。デスクにぶつかった所為でガタッと大袈裟な音が鳴り、おまけに椅子のキャスターも奇妙な音を立てたが、構ってなどいられない。
「申し訳ありません。お手洗いに行ってきます」
早口で告げると、二人の返答もろくに聞かないうちに速足で入り口へ近付き、勢いよく扉を開け、そのまま外に飛び出す。扉が閉まる直前に
「もしかしてホントに秘密の話してたんですか?」
と旭の声が聞こえたが、龍悟がどんな返答をしたのかまでは聞こえなかった。
涼花は小走りで化粧室に向かう。龍悟の秘書になってからはあまりだらしない印象や落ち着きのない印象を与えないよう所作にも注意してきたつもりだったが、今はそんな事を気にする余裕さえなかった。
(どうしよう……社長は、何もわかっていない)
男として振り向いてもらえるよう、どころじゃない。龍悟の存在は、もう涼花の心の奥深いところに根付いている。今も一秒ごとに龍悟の事を好きになっている。
でもそうじゃない。どんなに想い合ったところで、どんな努力をしたところで、龍悟が涼花との思い出を忘れてしまうのは変えられない事実だ。
けれどそんな事実を気にした様子もなく、龍悟は涼花との距離を詰めようとしている。それがお互いにとってどんなに苦しくて辛い選択なのか、龍悟なら絶対に分かっているはずなのに。どうして。
涼花はトイレの個室に駆け込むと、そのまま洋式便座の上にずるずると崩れ落ちた。あんなに考えたはずなのに、出社する前よりむしろ悩みが大きくなってしまった。
胸が苦しい。心臓が痛い。
どう説得したらいい? どうやって説明したら、この現実と涼花の覚悟を理解してもらえるのだろう。
けれどどれだけ時間をかけても、いくら深く考えても、龍悟の考えを読み取ることは出来ない。
気付けば涼花の視界はまた涙でぼやけて霞んでいた。
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