社長、それは忘れて下さい!?
3-11. Closed feel
龍悟をホテルに残し自宅へ戻ると、慣れた部屋着に着替えてベッドに身体を沈める。緊張の糸が切れると、また涙が溢れて零れそうになった。
本当はもっと龍悟と一緒にいたかった。彼の香りを感じながら、大きな腕に抱かれて眠っていたかった。
だがそれは涼花の過ぎた願望だ。高望みが過ぎるから罰が下ったというのに、未練がましくまだぬくもりを求めるなんて、自分はなんて浅ましいんだろうと自嘲する。
「社長……」
困らせてしまった。
失望させてしまった。
秘書として、良きビジネスパートナーとして、彼の傍にいたいと思った。隣で仕事が出来るだけで幸せだったし、いつか離れる時が来るまで、この想いを秘めてでも龍悟の役に立ちたいと思った。
龍悟が直々に下した社長命令は、涼花には重すぎる役目だったのかもしれない。自分の身の丈に合った願望に留めておけば良かったのに『俺のために笑えるようになれ』と言われ、その気になって彼の誘いに乗り、踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまった。
涼花は龍悟の肌の温かさを知ってしまった。香りを、視線を、指遣いを覚えてしまった。
そして同時に、彼の想いも知ってしまった。それがいつからなのかはわからないが、龍悟は涼花の事を特別な意味で好いていた。
本気ではない相手にあんな風に怒ったり悲しんだりはしないだろう。三年以上の月日を龍悟の傍で過ごしてきた涼花は、彼が人間関係を尊重することも、人を傷付ける嘘をつかないこともよく知っている。
だから余計に辛い。お互いに惹かれ合っていて両想いだと分かっていても、唇を重ねると龍悟はその前後の記憶を失ってしまうのだから。
涼花だけが覚えていて、龍悟は何一つ覚えていない。その状況を延々と繰り返す関係にはなりたくない。けれど一度もキスをせず、ただ身体を繋げるだけの関係でいることも出来そうにない。
「ううん……大丈夫」
――大丈夫。辛いのは同じだが、龍悟が『忘れた事を知っている』のは、涼花にとって大きな救いだった。
今までの恋人は『忘れた事自体を忘れている』状態だった。だから涼花を『重い女』『ストーカー』と心ない言葉で罵った。
けれど龍悟は、涼花を傷つけたりしない。この重苦しくて辛い気持ちを、ちゃんと知ってくれている。それだけで、もう十分だ。
本気で『好きだ』と言ってくれた龍悟は、まだ少しの間は涼花の事を想ってくれるだろう。けれど龍悟は涼花と口付けて肌を重ねる度に、記憶が真っ新な状態に戻ってしまうのだ。
そんな不確実な関係に龍悟が固着する必要はない。涼花への気持ちなど早く忘れた方が、彼の為になるのだ。
龍悟は時間が経てばいつかまた誰かと恋愛ができる。全ての思い出や感情を共有できる人と、新しい恋に落ちることが出来るはずだ。
「大丈夫。……うん、大丈夫」
自己暗示のように、同じ言葉を繰り返す。出来ることならこのまま秘書の仕事を辞めてしまいたい気持ちでいっぱいだった。自分が傷付かず、龍悟を傷付けないために、このまま逃げ出してしまえたらどんなに楽だろうと思う。
だがそんな事をすれば龍悟や旭だけではなく、会社全体に迷惑をかけてしまう。明確な理由を告げずに『退職します』がまかり通るほど、社会は甘くない。何より多忙な業務をこなす龍悟のサポート役に突然穴をあけ、これ以上彼に迷惑をかけるようなことはしたくない。
もし龍悟が涼花の顔を見るのも嫌だと言うのなら、その時は潔く異動願いを出すか退職しようと思う。けれどまだ秘書として涼花を必要としてくれるなら、まだ頑張れるから。
恋を忘れる決意を誓う。優しい龍悟の瞳を、声を、指を、温度を。早く忘れられるように、自分の心に強くて深い自己暗示をかける。
「大丈夫! よし!」
意気込んでベッドの上に身体を起こすと、窓の外を眺める。晴れ渡った綺麗な青空を見ていると、ふと自分の詰めが甘かったことに気が付いた。
今朝、ホテルの部屋を出る前に龍悟にキスをすればよかった。あの時口付けておけば、きっと龍悟は今朝のやりとりを忘れてくれただろう。
そうすれば明日もいつもの月曜日と同じく、彼は何も気に病むことなく、何も心配することもなく、普段通りに出社できただろう。涼花との夜も、涼花とのやりとりも覚えていないのなら。
何故一人で会社近くのホテルに泊まっているのかと疑問に思うかもしれない。だが共に過ごした相手の記憶を失っているのなら、龍悟が涼花相手に必要以上に気遣う必要はなかったはずだ。
もちろん涼花はかなり勇気を出して出社しなければならないが、龍悟に余計な負担をかけずに済むならそれでも構わなかったのに。
「私のバカ……」
冷静に考えたら自分から龍悟に口付けるなんて恥ずかしくて出来そうにないが、あの時もし気付いていたなら、キスでも何でも出来た気がする。なんでもっと早く気付かなかったのかと、自分の甘さに落胆する。
けれど冷静になった今だからこそそんな事実に気付いたのであって、やっぱり今朝あの場では、龍悟の記憶を奪う発想には辿り着けなかった気がする。
とことん詰めの甘い自分には心底失望したが、ぼんやりと青空を眺めているうちに、全てはなるようにしかならない、と思えてきた。
龍悟の人生の邪魔にだけはならないように。――ただそれだけを願い、涼花はそっと溜息を零した。
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