社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

3-4. Secret plot


 GLSステラの新店舗オープン記念パーティーの日が近付いてきた。パーティーにはルーナ・グループ各社の役員を筆頭に、取引先の重役やその家族、個人的に親交のある者、他店舗の店長やメディア関連などから総勢二百余りを招く予定だ。当日は新しい店舗を開放し、目玉商品であるスイーツやドリンクが立食式で振舞われる。

 準備はおおよそ終えているが、旭が企画部と協力して何かの催しを考えているらしく、このところ不在が多い。当然龍悟もそれは把握しているが、詳細を訊ねても二人は『そのうちわかる』と涼花を諭すだけだ。

 涼花は気が抜けない日々が続いていた。旭の不在は龍悟の指示だが、それに伴い移動時や執務室内で龍悟と二人きりになることが増えた。

 元々書類関係は案件ごとに分担していたが、スケジュールに関しては三人で共有した上で旭が龍悟に付き従い、涼花が来客対応や他部署との連絡を行う場合が多かった。

 旭はパーティーの準備中も自分が担当した書類処理は通常通り行っていたが、龍悟に追従して立ち回る役割が涼花に大幅に移行したため、現在もこうして執務室で二人きりになっている。

「雨だと気が重いな」

 取引先との電話を切った龍悟が溜息交じりに漏らした。聞いていた会話の内容から気が重いのは天気のせいだけではないことはわかっていたが、龍悟が愚痴を言わないので涼花もさらりと受け流した。

「そうですね。パーティの日は晴れると良いのですが……」

 ただでさえ初夏の湿気は肌にまとわりつくような鬱陶しさがあるのに、ここに雨季の重たい雨が混ざると不快指数は底が知れない。梅雨が明けると今度はうだるような暑さが続くのかと思えば、もはや不快感は表現も出来ないほどだ。

「秋野。そう言えば、合コンには行ったのか?」

 何を思ったのか、龍悟が突然とんでもないことを聞いてきた。口に含んでいた冷めかけのコーヒーをディスプレイに噴き出しそうになって、慌てて桜色のマグカップから口を離す。だが間に合わず喉へ逆流した。

 当然思い切りむせてしまったが吐き出すわけにもいかず、涼花は繰り返される咳の波が過ぎ去るのを待つしかない。咳き込んだ所為で涙も出てきてしまう。

「そんなに動揺することか?」
「不意打ちだったので驚いただけです……申し訳ありません」

 咳が落ち着いた頃に龍悟に笑われて、涼花は頬を膨らませながら小さく言い訳をした。冷静を装った涼花がコーヒーを飲む様子を待つと、龍悟は『それで?』と再度回答を促してきた。

「社長、業務時間中です」
「そう堅いこと言うなよ」
「……そんなに気になりますか?」
「まあ、そうだな」

 龍悟に出口を塞がれ、涼花には合コンの報告義務が発生する。義務ではなく命令に近いかもしれない。

 もちろん本来なら答える必要はないが、涼花には恋人を作るための第一歩として龍悟に抱かれた事実がある。冷静に考えたらおかしな状況だとは思うが、あの時は冷静じゃなかったし、過去は覆らない。

 ちらりと龍悟の姿を盗み見ると、彼はまっすぐに涼花を見つめ、人の良い笑顔をにこにこと浮かべている。重厚感がある大きなプレジデントチェアにゆったりと腰を落ち着け、肘掛けに頬杖をして悠然と涼花を見据える龍悟は、獅子か虎か、あるいは名前の通り龍のような佇まいだ。

 だが神々しい聖獣を前にしても、雨で重たい涼花の気持ちはさらにどんより沈んでいく。

 想い人に恋人を作れと促され、さらにその進捗状況を確認される。一度嫉妬するような素振りを見せたと思えば、翌日にはそれをまるで無かったことのように振舞われる。ところが忘れた頃になってそういえばどうだった? と確認される。涼花の感情は振り幅の限界まで揺さぶられているような心地だ。

 『まるで無かったことのように振舞われる』――?

 不意に思考に翳が差す。
 どこかで似たような体験をしている気がする。――いいや、確実にした。

 極力思い出さないように、五年の歳月をかけて心の奥底に封印していた苦い記憶。つい最近、不覚にも記憶の蓋を開いてしまった記憶。だが熱夜の蜜戯が再び蓋をした、はずの。

「秋野?」

 問われてハッと顔を上げる。
 最近考え事が多いが、その度に動きがピタリと停止してしまう。

 龍悟や旭は思考や感情と身体の動作を分離できるタイプのようだが、涼花はそうはいかないので考え事をするとすぐに動きが鈍り、結果体調不良を疑われてしまう。涼花は直前までしていた話題の内容を引っ張り戻すと、少し気まずい心地を隠すように呟いた。

「……行きましたよ」
「へえ。……どうだった?」
「……どう、と言われましても」

 掘り下げてくる龍悟に、涼花はまた何と答えればいいのか迷ってしまう。

 合コンと言っても、エリカの知人から紹介されたという商社勤めの男性二人とエリカの四人で食事をしただけだ。場所はグラン・ルーナ社の最寄りから二つ先の駅近くにあるダイニングレストランで、残念ながらグラン・ルーナ社の経営店ではない。内容が聞きたいというのなら、これまた残念ながら、上の空だったのであまり覚えていない。

「特に何もありませんでしたよ。お食事して終わっただけです」
「……は? それだけか?」
「それだけですよ」

 申し訳ありません、と付け足した方が良いのかも、迷うところだ。

 龍悟の望みには一歩も進展していないのだから謝罪の一つでも添えた方がいいのかもしれない。けれど涼花に恋人を作れと促したはずの龍悟は、胸を撫で下ろしたように

「なんだ……そうか」

 と息を吐いた。

 安心とも、残念ともとれるような口振りに、涼花はまた悩んでしまう。頬杖をついた龍悟が、口元を押さえて何かを考え込む仕草をする。口元が隠されて龍悟の感情が読み取れなくなったので、涼花は彼の腹の内を探るのを諦め、素直に謝罪の言葉を口にした。

「大変申し訳ありませんが、社長の望む状態に到達するまでには、まだ相当な時間がかかると思いますよ」
「ん? そうか?」

 ところが涼花の宣言を聞いた龍悟は、意外そうな声で顔を上げた。

 首を傾げた龍悟と同じく、涼花の首も斜めに傾く。そうか? の意味を考えていると、龍悟が口元を緩めて、涼花を褒め出した。

「少し雰囲気がやわらかくなったというか……女性らしくなったと思うぞ」

 だが褒められたと感じたのは最初だけで、後半は褒められているのかどうかわからない台詞だ。女性らしく『なった』ということは、元々はそうじゃなかったということだろうか。

 胸の奥に湧き上がった反抗の声が外に出ないよう注意し、努めて冷静に問いかける。

「今までは女性らしくなかったですか?」
「いや、そうじゃなくて……こう、隙があるというか」

 龍悟が自分の台詞をフィードバックしながら呟く。涼花を傷つけないよう言葉を選んでいるのだろうが、回答に悩む姿は珍しい。

 龍悟は巧みな話術と気さくな性格で、いつも相手の心をすぐに掴まえる。あまり言葉選びに苦悩する様子は見かけないが、どうやらビジネス以外で女性を褒めるのはあまり得意ではないようだ。

「堅苦しさが薄れた、も、違うな?」

 龍悟の女性関係の乱れた噂はあまり聞かないが、これだけ完璧で男前なのだ。周りは放って置かないだろうし、見合いを断った話なら何度か聞いたことがある。きっと自ら女性を口説かずとも相手の方が龍悟に興味を示すから、手ずから女性を褒める必要はないのかもしれない。

「色っぽくなった……は、ハラスメントか?」

 聞き返された涼花は、とうとう堪えられなくなった。慌てて手で口元を覆うが、唇の端から漏れ出る声は止められない。

「ふ、ふふっ」
「……秋野?」
「ハラスメントかどうかは、合コンに行ったのかと聞く時点でアウトだと思います」

 そう言い終わるや否や、また笑いが込み上げてくる。

 あの一ノ宮龍悟が、女性の変化を褒め損なって四回も言い直し、しかもその上でやっぱり間違えるとは想像もしていなかった。きっと『綺麗だ』とストレートな表現ならば、澄ました顔で言うのだろう。もしくはいつも淀みなく答えられるところを、今日だけしくじったというのならば、それもそれでまた珍しいものを見た気がする。

「……お前、本当に恋人が出来たわけじゃないんだよな?」

 くすくすと笑っていると、龍悟が少し困ったように問いかけてきた。

 念を押すような疑問と声が、龍悟から見て涼花に変化が訪れたことの何よりの証拠に思える。もしも龍悟が気付くほどの変化が涼花に現れたのなら、それは涼花が『恋心』を認めたからだ。

 もちろん本人に伝えたわけではない。だが異動で秘書の任を解かれ物理的に距離を置くか、龍悟が結婚して諦めがつくまで心の中に仕舞っておこうと思った気持ちを、エリカに聞いてもらった。それで随分楽になった気がする。

 もしくは龍悟の言うように『ファンタジー』から解放されたからかもしれない。少なくとも涼花を抱いても記憶を失わない人間が存在することだけは証明された。

 だから自信がついて、恋愛に対して少しだけ前向きになれたのか。そのお陰でやわらかな感情表現ができるようになったのか。

 答えはわからないが、それならやはり龍悟のおかげだと思う。遠回りだったが、涼花は龍悟に褒められたことで、重たい気持ちが少しだけ軽くなった気がした。

「違いますよ。どうしてですか?」
「なんでって、そりゃ……」

 龍悟が何かを言いかけたところで、ドアロックが解除される電子音が室内に響いた。ほどなくして旭が入室してくる。

「長らく不在にして申し訳ございません。ただいま戻りました」

 旭が扉を閉めると、再びドアにロックがかかった。

 雨と湿気から来る蒸し暑さには旭も困り果てているようで、額にはわずかに汗が浮かんでいる。

 旭は部屋に入るなり首元に指をかけてネクタイを少しだけゆるめた。重役とその秘書達は真夏もネクタイを外すことが出来なかったが、龍悟が咎めないなら少しぐらい許してもらおう、といった様子だ。

「社長。企画部からの企画書と報告書が上がって来たので、お目通し頂けますか?」

 旭は龍悟のデスクの傍まで来ると、数枚の書類を差し出してわざとらしいほど丁寧に頭を下げた。

 旭の横顔からは疲労感が窺える。目の下にはうっすら隈が浮かんでいるのがわかるが、かすかに笑みを浮かべた表情からは楽しげな印象さえ受けた。

 龍悟は受け取った書類の一枚目を上から下まで五秒で読み流し、さらに二枚目、三枚目……と同じ速さで目を通していく。涼花も緊張感をもってその様子を見守っていたが、龍悟は一枚目に視線を戻すと口の端を上げてにやりと笑い、瞳の奥に怪しい光を宿した。それは一緒に仕事をしているとたまに見ることがある、野心を孕んだ狩人の目だ。

「よし、これで行くか。ご苦労だったな」
「恐れ入ります」

 龍悟が労うと、旭も安堵したように息をつく。龍悟は旭から視線を外して涼花に向き直ると、たった今受け取ったばかりの書類を涼花の目の前に差し出してきた。

「秋野、この内容を頭に叩き込め。パーティーは来週だから時間がないぞ」
「どういうことですか?」

 話が見えず聞き返すも、龍悟は笑みを浮かべるだけだ。

 説明を諦めて、差し出された書類を受け取る。そこには目前に迫ったレセプションパーティーの当日のスケジュールが書かれていたが、よく読み込むと涼花が知らないプログラムが入っている。

 聞いていないと思いつつ次のページをめくる。するとそこには、やけにキュートでファンシーなネーミングが冠された新たな企画の内容が記されていた。

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