社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

2-4. Fluffy morning


「ん……?」

 いつもの起床アラームを遠くに聞いた涼花は、重い瞼を開いてゆっくりと視線を彷徨わせた。スマートフォンは枕元に置いているので、アラームは頭上から聞こえるはず。しかしなぜか、今日は足元から音が聞こえる。

 不思議に思って起き上がろうとしたが、その瞬間全身に筋肉痛のような重い痛みが走った。

「!?」

 起き上がれない。下半身に力が入らない。特に下腹部の違和感が著しい。その感覚は生理痛にも似ているが、痛みというより足の付け根の周辺が感覚を失ったように鈍麻している気がする。

 自分の身体の状態にも戸惑ったが、首を動かして室内を見回した涼花はさらに仰天してしまう。

「え、ここ……どこ?」

 視界に映るのは全く身に覚えのない部屋だった。カーテンが閉められているので室内は薄暗いが、その上下からは朝日が漏れ出している。部屋には涼花がいるベッドの他に、クローゼットらしき格子のついた大きな扉と出入り口となるドアがあるだけで、他には一切何もない。

 自宅ではない空間で目覚めたことに動揺を隠せない。だからまずは時間と場所を確認したいと思うが、身体が動かない。

 どうしよう、と焦っていると、入口のドアがカチャリと音を立てて開いた。驚いて首を動かすと、ドアの向こうから姿を現した龍悟と目が合った。

「しゃ、社長……?」
「ああ。おはよう、秋野」
「……お、おはよう……ございます……?」

 つられて朝の挨拶をするが、状況はいまいち把握できていない。涼花の驚きと戸惑いの様子を見た龍悟は、ふっと笑うと、

「身体は平気か? 起き上がれるか?」

 と訊ねてきた。

 その質問に、涼花はどう答えたら良いものかと悩んだ。大丈夫かと問われれば、大丈夫ではないが……なぜ大丈夫ではないのか、自分でも理由はわからない。

 そうしている間もスヌーズ機能が作動した涼花のスマートフォンは、ずっと鳴り続いている。どうやら龍悟はこの音に気付いてここにやってきたらしい。

 龍悟は足元に置いてあったバッグの中からスマートフォンを取り出すと、それを涼花の手元に戻してくれた。

 スヌーズを停止させて日付を確認する。六月十二日、金曜日。時刻は涼花がいつも起床するタイミングとほぼ同じ、午前六時四分。

「社長、ここはどこですか?」
「……ここは俺の家だ」
「!?」

 思いもよらない回答に、涼花の思考と動作はピタリと停止した。ベッドの端に腰を掛けた龍悟は、未だに起き上がれない涼花の顔を覗き込んで呟く。

「昨日のことは覚えてるか?」
「え……っと、杉原社長と役員の方々との会食、でした」
「そうだ。じゃあその後のことは?」

 問われて再度考える。

 昨夜の酒席では、目の前に座った杉原の秘書との会話がほとんどだった。運ばれてきた貝の御造りが美味しいですね、と話した記憶はある。だがそこから先の記憶がごっそり抜け落ちたみたいに、いくら考えても何も思い出せない。

 断片的に龍悟の顔を見上げた覚えがある。それから、何かを話している旭の声も。

「……」

 思い出せるのはそれぐらいだ。後は今この瞬間まで記憶が一気に飛んでいる。

「あの……もしかして私、酔い潰れてしまいましたか?」

 アルコールに酔うなど今までの人生で経験したことがなかったが、もしかしてその最初が、昨日だったのかもしれない。咄嗟に大失態を犯してしまったと思ったが、龍悟はすぐに涼花の不安を否定してくれた。

「秋野、落ち着いて聞いてくれ」
「……はい」
「お前は昨日、薬を盛られたんだ」

 龍悟の説明を聞いた涼花の思考が徐々に減速する。『くすり?』と頭の中で反復する。不安げな龍悟に対して何か反応しなければと思ったが、何も思い浮かばなかった。

「旭に調べてもらってるが、中身は性的精神興奮剤の一種じゃないかと予想している」
「えっと……それは……?」
「端的に言うと媚薬だな」

 あっさりと言い放った龍悟の言葉に、驚きを隠せない。今度こそ本当に言葉を失った涼花に、龍悟は目線を合わせるのも忍びないといった様子で、何もない空間を見つめて説明を続けた。

「医者に連れて行くことも考えたが、あの姿のお前を他人に晒すのもどうかと思って……結局俺の部屋に……」
「!!」

 龍悟の萎縮した態度を見て、それ以上は言葉にしなくても理解できた。

 身体が動かない理由も合点がいく。冷たさを感じていた全身の温度が一瞬で熱さに変わる。顔から火が出そうなほど恥ずかしい心地を覚えたのは、先週末の龍悟との行為の一部始終を思い出してしまったからだ。

 涼花の恥じ入った様子を見て、龍悟も涼花が前回の出来事を思い出していることに気付いたようだった。

「悪かった。……これは、俺の責任だ」

 龍悟が謝罪の言葉に、涼花は驚いて顔を上げた。

 事前に忠告されていたにも拘わらず、警戒心もなく出された料理や酒に口をつけたのは涼花が悪い。しかしそれらは見た目も味も至って普通だった。変な薬が入っている可能性など、説明されるまで考えもしなかった。

 だが出された料理や酒に一切口をつけず断ることは、ただの秘書でしかない涼花には出来ない。そんな無礼は許されない。ゆえに自分が悪いと思っても、知ったところで回避することはできない。今また同じ場面に戻ったとしても、同じ状況にならないとは涼花にも断言できないのだ。

 けれど龍悟が謝る必要はない。不測の事態が起こった時に判断を誤って事故が起きれば、上司が責任を取るのは世の常だろう。龍悟の言う通り、確かに責任は彼に生じる。

 でも、そうだとしても。

「コンプライアンスにも訴えていい。ハラスメント相談室の番号は知ってるだろ?」
「え、ちょっ……しゃ、社長は悪くないですから! あああ頭下げないでくださいいぃ……!」

 社長のつむじなど見たことがなかった涼花は、頭を下げた龍悟の態度に慌てふためいた。

 確かに龍悟には責任があるかもしれない。だが過失はない。だから涼花に頭を下げる必要などない。元より涼花は龍悟の駒であり、道具の一つでしかないのだから。

 涼花が必死に説得し続けると、龍悟はようやく顔を上げてくれた。普段は他を魅了するほどの人の良い笑顔で、時に野心を覗かせる端正な顔立ちが、今は焦りと自分への失望が入り交じった苦悶の表情を浮かべている。

「大丈夫ですから……本当に」

 龍悟のそんな表情など見ていられない。涼花が謝罪を止めるよう求めると、龍悟は少し困ったように笑ったが、もう頭は下げなかった。過度な謝罪は引っ込めてくれたようだ。

「秋野。これは俺の責任だ。いくら責めてくれても構わない……だが」

 ふと伸びてきた龍悟の手が、涼花の長い髪をするりと捉える。龍悟の指の間から黒い髪がさらさらと流れていく。まるで二人の間に流れる一瞬の時間を表す、砂時計のように。

「辞めるなんて、言うなよ」

 切ない龍悟の声に、涼花は心臓を掴まれたように感じた。珍しく弱々しい態度とは裏腹に、まるで獣のような瞳で涼花を見据え、獲物の動きを封じるように低い囁きを零す。

 涼花はふと、龍悟の黒い瞳の中に自分の姿が映っていることに気が付いた。鏡のような黒い湖面には、じっと獣の爪先を待ち望む自分が佇んでいる気がする。

「だいじょうぶ、です。言いませんよ」

 震える声で否定すると、龍悟の目から獣の輝きは消えていなくなった。そのままいつもの優しい笑顔で『そうか』と呟くと、涼花の髪からゆっくりと手を離した。

 龍悟に支えてもらってどうにか起き上がる。身体は動きにくいが、強い痛みはない。頭痛や吐き気を問われるが、それもない。筋肉痛のような重だるさを除けば、他の体調不良は感じなかった。

 雲のようにやわらかいベッドに身体を起こすと、ふと自分が身に覚えのないシャツを着ていることに気が付いた。

「ああ、申し訳ないとは思ったが、風呂にも入れさせてもらった」
「!?」
「髪を留めてたゴムとピンは、外して洗面所に置いてある」

 涼花の困惑に気付いた龍悟が、すぐに説明してくれる。涼花の身体より随分と大きい白いシャツは、やはり龍悟のものらしい。

 着替えどころか風呂の世話までさせてしまった、という重すぎる現実を受け止められず、両手で顔を覆い隠す。穴があったら入りたい。

 と思うも束の間、自分の顔に触れたことで、もう一つ重大な事実に気が付いてしまった。

「お、お見苦しいところを、申し訳ありません」
「ん? ああ、化粧のことか?」

 両手で顔を覆う涼花の姿を見て、涼花の内心を察したようだ。龍悟は優しい笑顔を浮かべて

「お前、化粧しなくても可愛いよ」

 と耳元で囁く。
 その言葉に、思わず照れてしまう。

 きっとその台詞は、この部屋に来たことがあるすべての女性に言っているに違いない。頭ではそうだとわかっているのに、こっそりと嬉しくなってしまう。

「何か食べれそうか? 軽食なら用意してあるが」
「あ、あの……じゃあ飲み物だけ……」

 乾燥している訳ではないのに、圧倒的に水分が足りない。先ほどから口の中がからからと乾いていたので水分が欲しかったが、とても固形物が喉を通るような気分ではない。

 頷いた龍悟に支えられて立ち上がると、意外と足には力が入ることがわかる。重力と床の感覚があれば、違和感はあっても普通に立って歩けるようだ。

 相変わらず下腹部の感覚は戻っていないが、洗濯と乾燥を終えた服と下着を手渡されると、恥ずかしさのあまり下腹部の違和感など一瞬でどうでも良くなった。

「今日は仕事は休め。出勤前に家まで送ってやるから」
「でも……」
「その身体で出社しても、仕事にならないだろ」

 龍悟に優しく諭され、涼花は渋々従うことにした。龍悟の言う通り、出社したところで席から一歩も動けないのでは使い物にならないだろう。

 本当は涼花の身体を心配しているのだろうが、そう言っても涼花が大丈夫と言い張るのを見越しているに違いない。だからあえて仕事に対するパフォーマンスの質をちらつかせる。涼花の性格まで見抜いて先手を打つところはさすがだった。





   *****





 龍悟の部屋を揃って出ると、駐車場にあった彼の愛車の助手席に乗り込む。車が発進してしばらく経った頃、龍悟が思い出したように『あぁ』と呟いた。

 涼花が龍悟の顔を見上げると、少し不機嫌そうに

「今日の合コン、行くなよ」

 と言い含められた。
 そんな馬鹿な、と思いながらも、ちゃんと言葉で否定する。

「行きませんよ」

 会社を休む分際でその日のうちに合コンなど行くはずがない。それに身体が思うように動かないのだから、行けるはずもない。そもそも合コンではないと言っているのに。

 エリカに謝罪と連絡をしなきゃ、と思い、バッグからスマートフォンを取り出す。ふと真っ暗になったスマホの画面に龍悟の横顔が映ったので、涼花は何となく龍悟の横顔を盗み見た。

 合コンに行くな、と窘める声が鋭かったので、てっきり怒っているのかと思っていた。だが見上げた龍悟の横顔が想像よりもずっと上機嫌だったのが、なんだか少しだけ不思議に思えた。

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