社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

2-2. Trouble occurred


 会食は和やかに進んでいた。
 ように思えた。

 涼花は運ばれてきた海鮮料理と酌まれた酒を味わいながら、向かいに座る中年の社長秘書と会話をしていた。その涼花が隣にいた旭の肩にもたれかかって呻き声を零したのは、会食が開始してから二時間ほど経過した頃だった。

「え……秋野? どうした?」

 驚いた旭が会話を中断して隣を見ると、涼花が口元を押さえて荒い呼吸を繰り返していた。その顔は血の気が引いて青白く、今にも吐き出しそうに歪んでいた。

「藤川さん……ごめ、なさい……何か、気持ち悪くて……」

 途切れ途切れに答えると、すぐに大きく息を吐く。普段酒に酔わないはずの涼花が、こんなにも簡単に体調不良になるなんておかしい。そのただならぬ様子に気付いた全員が、食事や会話を止めて涼花に注目した。

 龍悟が旭の背後から涼花の姿を覗き込む。しかし口を開こうとした瞬間、涼花から一番遠いはずの杉原が、最も事態を把握しているように大きな声を上げた。

「大変じゃないか! 気持ち悪いなら、横になった方がいいんじゃないか!?」
「しゃ、社長……」

 演技がかった台詞を聞いた杉原の秘書が、彼を止めようとする気配を見せた。しかし杉原は自分の秘書の言葉などまるで聞こえていないように、

「横になるなら、上階に休める部屋があるぞ。一ノ宮君、そこを使ったらどうかね?」

 とストレートな提案をしてきた。
 その台詞を聞いた龍悟は、すぐに白々とした気分になる。

(盛ったな……)

 心の声は、旭の考えと全く同じだったのだろう。龍悟の隣で、旭が明らかに引いたように眉間に皺を寄せている。

「今夜私が使う予定だった部屋だが、君の秘書に貸してあげてはどうだ?」
「……いえ。具合が悪いようなので、病院に連れて行きます。杉原社長、申し訳ありませんが、本日はこれで……」
「何を言ってるんだ! 具合が悪いなら無理に動かさずべきじゃない! 落ち着くまで休めばいいだろう!」
「しかし……」

 龍悟は杉原の頭を空いた刺身皿に押し付けて、そのまま黙らせてやりたい気分になった。

 事前に確認した通り、席を外すタイミングには十分注意していた。しかしどういう訳か、涼花にだけ平素では起こらないような異変が起きた。彼か彼の部下が、隙をついて涼花の酒か料理に何かを入れたのは明白だった。

 興奮気味にまくし立てる杉原をどう言いくるめれば良いかと考えていると、見ていた旭が横やりを入れてきた。

「僭越ながら、申し上げます。杉原社長、秋野はアレルギーがあるんです」
「ア、アレルギー?」
「そうです。きっと気付かずに苦手な食材を口にしたのでしょう。ですから、病院で処方された薬を飲むか点滴をしなければ症状は治まりません。いくら横になっていても辛くなるばかりでしょう」

 旭が中年親父の淡い可能性を握りつぶすよう懇切丁寧に説明すると、さすがの杉原も押し黙った。根拠のある説明をされれば反論も出来ないのだろう。

「ですよね、一ノ宮社長?」
「あ、ああ、そうだ! なんだ、秋野! 薬持ってきてないのか? じゃあ病院に行くしかないな!」

 龍悟が半分意識のない涼花に棒読みで話しかけると、聞いてた旭が横を向いて咳払いをした。その顔を見ると、前歯と唇の間に空気をためて震えているので、必死に笑いを堪えているとわかる。龍悟は旭の態度に腹立たしさを覚えたが、彼への仕置きはとりあえず後回しにする。

「申し訳ありません、杉原社長。この埋め合わせは致しますので」
「あ、いや……」
「行くぞ。歩けるか、秋野」

 手早くタクシーの手配を済ませていた旭に代わり、龍悟が涼花の肩を抱いて引っ張り上げる。しかし涼花は足にも力が入らず、歩くどころか立ち上がることすら出来なかった。

 小さく謝罪を入れてから、身体を横向きに抱き上げる。その振動で涼花が再び、ウッと呻き声を上げる。しかし吐きたくても吐けないのか、その口からは苦悶の声以外何も出てこなかった。

 店の入り口に到着していたタクシーの後部ドアが開くと、涼花を抱いたままそこに腰掛ける。

「すごいストレートなやり口ですね。正直ドン引きしました」
「お前、顔に出すぎだぞ」
「いやー、だって向こうの演技も相当やばかったですけど、社長の演技も中々でしたよ?」

 肩を竦めた旭からジャケットと涼花のバッグを受け取ると、座席の空いているスペースに放り投げる。旭も乗り込んでくるかと思ったが、彼は

「調べておきますよ。盛られた薬と入手先。知らなきゃ今後、対策出来ませんからね」

 とにっこりと微笑んだ。

 旭はこの後、解散した宴会場から空の薬包や飲食物の残りを回収して、食品研究部に成分の分析調査を依頼する。そして製薬会社のデータベースと杉原の交友関係を照らし合わせて、薬物の入手ルートを探るのだろう。

 感心して小さく息を吐く。この緊急時によく頭が回ることだ。

「病院に連れて行くんですよね?」
「……当り前だろ。俺は医者じゃない」

 龍悟の考えを読んだのか、旭が意地の悪い確認をしてきた。

 当然、旭は涼花の身体に起こっている変化に気が付いているだろう。なんせあのエロ社長が考えることだ。

 龍悟の不機嫌そうな声を聞くと、旭はタクシーからそっと離れた。扉が閉まった先で、ひらひらと手を振られる。

(わかっている、が)

 旭の言葉を脳内で反復しながら、会社から一番近い病院名を運転手に告げる。ここからだとかなり遠いが、社員の健康診断も一括で依頼している大きな病院なので、夜間の緊急外来だとしても龍悟の顔がきくだろう。

「ん、うう……」
「秋野? 気が付いたか?」
「……」
「……まだダメか」

 腕の中で苦しそうに呻く涼花の様子に、龍悟はひとり苦悩した。

 こんな事になるなら、最初から涼花を連れてこなければよかった。確かに龍悟が交友のある人物ならば、秘書も顔馴染みになったほうが今後の業務を円滑に運べるのは事実だ。

 しかし相手は選ぶべきだった。前回はインフルエンザだったのだから、今回も病欠だと適当な理由をつければよかったのに、迂闊だった。

「ふぁ、……ん」
「まだどころか、これからか……」

 だんだんと呼吸が荒くなってきた涼花の様子に、龍悟は再び頭を抱えた。

 この状態の涼花を病院に連れて行って、医者になんと説明すればいいのだろう。顔見知りの病院のカルテに、この状態が記載されて残ることを、涼花は許容できるのだろうか? いやそもそも、病院に連れて行ったところで症状は治まるのだろうか? 点滴をして薬の濃度を下げれば効果は薄まるだろうが、辛い身体の疼きは確実に残るだろう。

「悪いな、秋野」

 身体を抱く腕に力を込めると、運転手に行き先の変更を告げる。ここからだと病院よりは早く到着できるだろう。

 タクシーが車線を変更すると、車体の動きに揺られて涼花が龍悟の胸に寄りかかってきた。まるで龍悟に助けを求めて縋るような挙動だが、実際は涼花の意思とは関係がない。

 その事実に気付くと、龍悟の眉間の皺は更に深くなった。

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