社長、それは忘れて下さい!?

紺乃 藍

1-2. Fun alcohol

 店長とエリカの会話を楽しんでいるところに、別の客が入店してきた。ふと入り口に視線を向けた瞬間、涼花は自分の意識とは関係なくその場に立ち上がっていた。

「社長!?」
「あれ……秋野?」
「お、お疲れ様です……!」

 入店客の正体に気付き、完全に落ちていた仕事スイッチを無理やりオンにする。龍悟は涼花の姿を見て目を丸くしていたが、言葉を発する前に店長に横やりを入れられた。

「龍、ごめん。前に借りたあの本、まだ読んでねぇわ」
「はぁ? 本一冊読むのに何年かかってるんだ」
「まだ二週間だろ。俺はお前と違って超人じゃないから、一冊五分じゃ読めねぇの」
「俺だってそんなに早くは読めねーよ。それにしても二週間はかかりすぎだろ」

 突然始まったやりとりに、涼花だけではなくエリカまでぽかんと口を開けてしまう。飲食店の店長とただの客にしてはやけに親密そうだ。

 目の前のやりとりから二人が知り合いであることはすぐに察する。しかし何年もこの店に通っていて、店自体も会社の近くにあるのに、二人の接点には全く気付かなかった。

 涼花の視線に気が付くと、店長がにこりと笑顔を浮かべる。

「すずちゃん、エリちゃん。ごめんね、コイツうるさくて」
「うるさいのはお前だ……ってか、すずちゃんって……」
「お二人はお知り合いなんですね」

 やりとりを黙って見ていたエリカにも、目の前にいる人物が涼花の上司『一ノ宮龍悟』であると理解できたらしい。もちろん酒に弱い妖怪呼ばわりしていたことなどは微塵も感じさせず、エリカは龍悟に向き直ると丁寧に腰を折った。

「初めまして、滝口エリカと申します。涼花の友人で、ネイルサロンを経営しております」
「ご丁寧にありがとうございます。グラン・ルーナ社代表取締役の一ノ宮龍悟と申します」

 プライベートの時間のはずなのに、二人はしっかりと名刺交換を済ませている。規模や部門は全く異なるが、経営者同士人脈形成には手抜かりがないようだ。

 お互いに挨拶を済ませると、今度は店長が二人の関係を説明してくれる。

 龍悟と店長は同じ大学の経営学部卒で学生時代からの友人なのだそう。エリート御曹司の龍悟と異なり、卒業後の店長は定職に就かず世界を巡る旅をしていたらしい。だが地球上のあらゆる国の料理を食べ歩き、その経験を活かして自分の店を持つまでになったのだ。店長の生き方も夢があって素敵だと思う。

「経営学がちゃんと活かされてるかは不明だがな」
「結構どんぶり勘定だからね、俺」
「そこで開き直るな」

 店長の言葉に、エリカと顔を見合わせる。そういえば彼はいつも飲食代の端数を切って、二人で割りやすい金額にサービスしてくれる。その値引き額が時には一品分になることさえある。

 今までずっと親切な店長だと思っていたが、単に金銭感覚がゆるいだけのようだ。経営者としてそれはどうかと思うが、値引いてもらっている立場なのでそっと口を噤む。

 ふと顔を上げると、涼花をじっと見下ろしていた龍悟と目が合った。涼花は自分の心臓が跳ねたことを自覚したが、それは絶対に表には出さない。

 涼花の内心に気付いていない龍悟は、自分の顎の下に触れながら感慨深そうに頷いた。

「意外と髪長いんだな。いつも後ろで結んでるから気付かなかった」
「え? あ、申し訳ありません。だらしないですよね……!」

 龍悟の言葉にはっとする。

 指摘の通り、仕事中の涼花は背中まである髪を後頭部でまとめ上げている。総務課にいた頃はヘアアレンジを楽しむ余地もあったが、彼の秘書となってからは不衛生な印象を与えないよう、後れ毛の一つもないよう常に注意を払っていた。

 髪をまとめるゴムやピンはメイクポーチの中に入っている。慌ててバッグを引き寄せると、龍悟が『いや』と声を漏らした。

「そういう意味じゃない。プライベートなんだから、そのままでいい」

 龍悟の台詞にいたたまれない気持ちを覚えながらも、涼花はそっと手を引っ込めた。本当はそれでも結び直すべきなのだろうが、龍悟はまた『気にしなくていい』と言うだろう。上司を相手に二度も同じことを言わせるほど、涼花の秘書としての経験は浅くなかった。

「邪魔して悪かったな。滝口さんも、お食事楽しんで」
「はい、ありがとうございます」

 龍悟の言葉に、エリカもにこやかに会釈する。龍悟は小さな笑顔を残すと、空いているカウンター席に腰を下ろした。どうやらまだ夕食を食べていないらしく、店長とふざけ合うようなやりとりをしながらいくつかのメニューを注文している。

「社長、イイ男だね」
「良い男も度が過ぎてるよ……」

 どちらからともなく着席すると、腹から大きく息を吐く。

 腰は落ち着けたが、気は抜けない。同じ店内に上司がいるにも関わらず緊張状態を解けるほど、涼花はオンとオフを上手に切り替えられない。社長が傍にいるのに完全にリラックスできる社員もそう多くはないと思うけれど。

「なるほどね。あんなに良い男と四六時中一緒にいたら、恋愛する気もなくなるか」
「別に四六時中じゃないけど……。それに上司は恋愛対象にならないでしょ?」
「え、そう?」

 首を傾げるエリカに、もう一度『ならないよ?』と念押しする。だがエリカは納得していない様子だ。

 考えてみれば経営者であるエリカには上司がいないので、感覚がわからないのかもしれない。独立する前は別のネイルサロンに勤めていたこともあるが、職場はすべて女性だったと聞いている。

「もう一人の秘書さんはどうなの?」
「藤川さんは仕事はできるけど……見た目は社長と正反対だよ。髪は染めてるし、ノリは軽いし、ほんとに社長秘書なのか不思議に思うぐらい。あと彼女いるって言ってた」
「なんだぁ、彼女いるのかぁ。残念だね?」
「えー、残念じゃないですー」

 涼花が頬を膨らませると、エリカが楽しそうにつついてくる。その指から逃れようと身を引くと、エリカは更に愉快そうに涼花の頬を追いかけてきた。

 エリカの意識を龍悟から逸らすことに成功し、さらに先ほどの話題もすっかり忘れてくれている。涼花は内心ほっとしたが、そのうち元の話題を思い出したらしい。エリカに来週の予定を確認され、涼花は再び答えに窮した。

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