病夢(びょうむ)とあんぱん
病夢とあんぱん その50
銃弾を撃ち込まれたとき、さすがの柳瀬も死を覚悟した。
・・・というのはもちろん嘘で、柳瀬は死を受け入れたりはしなかった。
そんなもの、彼は覚悟していない。
感じたことのない痛み。味わったことのない絶望。目眩と、命が消えていく感覚。しかしそれでも、彼は諦めていなかった。自分の命を犠牲に誰かを幸せにするなんて愚行は、彼は行わない。
祭壇から落ちた瞬間は、何も打開策を思いつかなかった。体はほとんど動かせない。逃げることもできない。武器も持っていない。機桐父に抵抗する手段もない。
血にまみれながら、痛みに押し潰されそうになりながら、彼はとにかく、がむしゃらに手探りをした。
(何かないか?)
必死に、思考を巡らす。
(何か・・・助かる方法はないか?何でもいい。逃げ出す手段でも、彼を倒す手段でも何でもいい。少しでも、僕が生き残れる道はないか?)
・・・ない。
ほとんど、意味のない行為だっただろう。彼の生き残れる可能性は、限りなく低かった。手探りをしたところで、逃げるのに役に立つものなんて、この教会にはない。ましてや彼の命を救うものなんて、ありはしなかった。
自分が生き残ること以外、何も考えていない青年は。
自分の命のために、他の全てを投げ捨てることができる青年は。
娘を想う父親の優しさの前に、死ぬはずだった。
しかし・・・見つけた。見つけてしまった。生き残るための、微かな可能性を。
コツンと、何かが指に触れる。
(なんだ・・・?)
手に取ってみると、それは、先ほどまで機桐父が使っていた湯呑みと急須だった。とても高級そうで、趣があり、重みのある湯呑みと急須。祭壇の上から落ちても割れなかったその重厚感は、このときの柳瀬にとっては好都合だった。
湯呑みを持ち上げ、フラフラと膝立ちになる。トドメを刺されていなかったのは、不幸中の幸いだった。柳瀬が完全に死ぬまで銃弾を撃ち込まれていたのならば、こんな些細な抵抗すら出来なかっただろう。
機桐父は、柳瀬に目を向けてはいなかった。
自分の犯した罪に背を向けるように、視線を逸らしていた。
(よかった)
と、柳瀬は思った。
生き汚く、狡猾に。
(この人が純粋でまっすぐな人間で、本当に良かった・・・)
湯呑みを、思い切り投げつける。全力投球だ。この場合、コントロールはほとんど必要ない。機桐父との距離は、極めて短い。多少の高低差があるだけだ。
だが、狙いは少しずれ、機桐父の右手に当たった。
機桐父は拳銃を取り落とし、こちらに驚愕の視線を向ける。
(次はない)
二投目(急須)を構えながら、柳瀬は考える。
これを躱されれば、もうチャンスはない。今度こそ、トドメを刺されてしまうだろう。
全身全霊を込めて、残る余力の全てを振り絞って、急須を投げつける。急須を武器にするなんて、傍から見ればかなり滑稽に映るだろうが、そんなことも言ってられない。
命懸けの投球は、命中した。投げ方が良かったのか、運が良かったのか・・・ともかく、鈍い音を響かせて、急須は機桐父の頭部に命中した。
意識を失い、受け身も取れずに、彼は床に倒れる。
(とりあえずこれで、トドメを刺される心配はなくなった・・・)
が、柳瀬の方も限界を迎えていた。出血多量に激痛、目眩。こんな状態で、よく動けたものだ。
(火事場の馬鹿力ってことかな)
柳瀬もまた、機桐父と同様に、床に突っ伏す。
血の海に溺れそうになりながら、彼は考える。
このままでは、確実に死んでしまうだろう。助かる方法はただ一つ。莉々ちゃんが『治癒過剰の病』で治してくれることだ。
・・・どうだろう。治してくれるだろうか?
もし、彼女が家族の元へと帰りたいと望んでいるならば、その希望は薄い。むしろ、父親を攻撃した敵として、彼女の手でトドメを刺されてしまうかもしれない。
(そんなのは、御免だな・・・)
折角、助けに来たというのに、殺されてしまっては元も子もない。彼女が、父親側に心変わりしていないことを願うばかりだ。
やがて、バタバタと何人かの人間が教会へと入って来た。誰かが走る音。誰かが叫ぶ声。そんな雑音をはっきりと聞き取れないまま、柳瀬の意識は暗闇へと沈んでいった。
柳瀬優。
機桐孜々。
二人の「お喋り」は、静かに幕を閉じた。
一人は、少女に対して、なんの思いも持っていなかった。強いて言うならば、その『病』を利用しようと考えていた。
一人は、父親であり続けるために、少女を攫った。
どうしようもなく自分勝手であり、突き詰めれば、自分の都合しか考えていなかった二人だった。話し合ったところで、分かり合うことなんてできない二人だった。向き合っていたようで、背を向け合っていた二人だった。
二人はこれからも、願い続けるだろう。
柳瀬は「生き続けること」を。
孜々は「父親であろうとすること」を。
しつこく、願い続けるのだろう。その結果、どうなるのかも知らずに。
そして、機桐莉々。彼女が何を望むのか、何を願うのか。
それは誰にも、彼女自身にさえ、分からないことだった。
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