真夏生まれの召使い少年

ぢろ吉郎

兄と僕と妹⑤



「午前七時です」
「うわっ!」


 ビビった。
 超ビビった・・・。
 八月三日の朝は、静かだった。昨日あれだけ泣き尽くしたのが嘘だったかのように、穏やかな心持ちで、僕は起床できた。起きたばかりで頭は正常に働いていなかったものの、それでも今日という日は、ゆったりと始まるはずだったのだ。
 そこへ、時刻を告げる囁き声だ。
 そりゃ、驚きもする。
 「うわっ!」とか、言っちゃったりもする。


「・・・・・」


 僕の耳元で「午前七時」を囁いたのはもちろん、あの子である。この家には今、僕とあの子しかいないのだから、僕の幻聴でもない限り、その囁き声があの子以外のものであるはずがない。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


 昨日と同じく、気まずい沈黙が生まれてしまう・・・・・この場合、「気まずい」と思っているのは僕だけであって、そんな感情は、おそらく彼女には、頭の片隅にだってありはしないだろうけど。
 とはいってもこの沈黙は、それほど長続きするものではなかった。一分と経たないうちに静寂が破られたというその点においては、昨日と比べて、僕らの会話は進歩していると言えるだろう。
 ・・・進歩なのか退歩なのか、判断しかねる状況ではあるけど。


「挨拶」
「え・・・?あ、あいさ」
「主人が起きてきたというのに、『おはようございます』の一言もなしですか、召使い。それともあなたには、挨拶の教養がないのですか?」
「・・・・・」


 いやいや。
 そっちだって、赤信号のときに横断歩道を渡ろうとしていたじゃないか。教養がないのはどっちだよ。
 と、言いたかったけど、もちろんそんなことは言わない。こんな些細な話題で彼女を怒らせたところで、なんの得にもならないだろう。


「し、失礼しました」


 と、僕は、うやうやしく頭を下げる。不自然ではない程度に深く、頭を下げる。
 ・・・ところで「恭しく」って、正確にはどういう意味だったっけ?
 もう少し、国語の授業を真面目に受けておけばよかった・・・・・丁寧語とか謙譲語とか、しっかり勉強しておけばよかった。目上の人との話し方なんて、僕の言語能力には備わってないぞ・・・。
 いや・・・まあ、この子は別に目上の人ではないし、主人とか召使いとかも、この子が勝手に言っているだけなんだけど・・・しかし、彼女がそう思い込んでいる以上、言葉遣いには、なるべく気を付けた方が良いのだろう。


「おはようございます・・・えっと、シ、シイ様?」
「よろしい」


 かなりたどたどしい挨拶だったが、どうやら彼女は満足したようだ。ダイニングテーブルの椅子の一脚に、ストンと腰を下ろす。
 ・・・腰を下ろされても。
 なんだ?今度は一体、何をお望みだっていうんだ?


「もしかして・・・・・お腹が空いているんですか?」
「察しがいいですね、召使い」


 きちんとした姿勢で椅子に座り直しながら、彼女は言った。


「私は空腹です。朝ごはんを所望します」
「は、はあ・・・」


 言われてみれば僕たちは昨夜、晩御飯を抜いているのだ。食事どころの状況ではなかったので、これは当然といえば当然なのだが、それならばもちろん、朝ごはんが恋しくなるのも当然というものだろう。
 僕は全然、空腹なんて感じちゃいないが。
 正常にお腹を空かせることが出来るほど、僕の気持ちは落ち着いてはない。・・・いや、実を言うと少しだけ小腹が空いてはいるのだが、今はそれを満たしている場合ではないんだ。


「じゃあ・・・何か、食べ物を準備します」
「ええ、お願いします。栄養のあるものを」
「それじゃ、あの・・・これ、外してもらえませんか?」


 僕は彼女の目の前に、ベルトで縛られた両手を突き出す。
 これは良い機会だ。
 というか、チャンスだ。
 いつまでもベルトで縛られていては、この状況をどうにかしようにも、出来ないのが現状だ。なんとか理由をつけて両手を自由にしてもらわなければ・・・と思っていたところに、「朝ごはんを用意しろ」という命令。まさかこの子の方から、両手を自由にするチャンスを与えてくれるとは思ってもみなかったが、これを活かさない手はない。
 よしよし。
 冴えてるぞ、僕。少しずつ、冷静さを取り戻せてきているのかもしれない。
 しかし・・・期待に反して彼女は、「ん?」と、不思議そうに首を傾げるだけだった。
 ・・・あれ。
 ちょっと待て。
 もしかしてこの子は、手が縛られたままでも、僕が朝ごはんを準備できるとでも思っているのだろうか?それとも、この子の言うところの「召使い」には、三本目や四本目の腕があるとでも、思い込んでいるのか?


「ほら、その・・・手を縛られたままじゃ、朝ごはんの準備は出来ないじゃないですか?だから、解いてほしいなー・・・・・なんて」
「自力で解ける程度の拘束にしたつもりでしたが、外せませんか?」
「え・・・?」


 今度は、僕がキョトンとする番だった。
 いや・・・「今度は」、じゃないか。
 彼女は一度だって、「キョトン」とした表情なんて、見せてはいないのだから。
 ともかく・・・「自力で解ける程度の拘束」だって?確かに僕は昨夜、ベルトの拘束を緩めるという行動は起こした。この行動にしたって、後で彼女に気付かれて、怒らせてしまうという危険性ははらんでいたのだ。だけど、さすがに両手の痛みを堪えるのは限界だった。冷静さを失っていたのもあるけれど・・・・・やはり、縛られ続けるのが限界で、僕は危険を冒して、拘束を緩めた。
 だからこそ自力での脱出は、「可能だった」けど、やめておいた。
 そんなことをしてしまえば、彼女を怒らせるのは確実だと思ったからだ。
 それなのに・・・どういうことだ?どうしてこの子は、僕を縛ることに対して、手を抜いたのだ?何故、僕が自力で解くことが出来ると分かった上で、こんな拘束を施した?
 直接聞いてみればいいんだろうけど・・・そこに何らかの、得体の知れない意図があるのかもしれないと思うと、聞くのが怖くなった。なんだか・・・聞くのが憚られた。
 僕を信用していた・・・からでは、もちろんないだろう。
 僕なんて、いつでも殺せると思っていたのだろうか?逃げられたところで、殺すのは容易いと?
 それとも・・・僕は「召使い」だから、主人に命令されるまでは、勝手に外すことはないと思っていた・・・?いや、それだって、「召使い」としての僕を信用していなければ、出来ない判断だろう。
 ホントに、何度でも考える・・・。
 一体この子は、何をしようとしているんだ・・・?


「まあ・・・いいでしょう。そんなにも非力では、少し心配にもなりますが・・・外してあげましょう」


 と、彼女はベルトの留め具を一つ一つ外し、僕の拘束を解いてくれた。


「あ・・・ありがとうございます」


 一応、お礼を言っておく。
 縛っていた本人にその拘束を解いてもらって、それに対して「ありがとう」を言うのも、なんだか変な話だ。


「じゃあ、朝ごはんを作ってくるので」


 僕は立ち上がる。
 縛られていた両手がかなり痛いが、とりあえず自由にはなれた。後はきちんと、やるべきことをやるだけだ。


「ちょっとだけ、ここで待っててください」


 それだけを言い残して。
 僕は、居間を後にした。





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