真夏生まれの召使い少年
登校日②
「・・・・・おや?」
おや?なんて声は、実際、そうそう出るものじゃない。「あれ?」とか、「え?」とかと比べると、圧倒的に使用頻度が少ないように、僕は思う。僕もこれまでの人生で、ほんの数回くらいしか言ったことがないだろう。よっぽどのことがない限り、「おや?」なんて言わない。
しかし僕はこのとき、「おや?」と言ってしまったのだ。つまり、よっぽどのことが起こってしまったということになる。
赤信号。
道路交通法によれば、交通信号が赤になっているときは、その道路を渡ってはいけないということになっている・・・はずだ。いや、道路交通法で定まっているのかどうかは、中学二年生の僕は知らないけれど、少なくとも、赤信号が光っているときは足を止めなければならない。僕の知らないうちに常識が変わっていないのならば、そのはずだ。
じゃあ、なんで。
なんであの女の子は、赤信号の横断歩道を渡ろうとしているんだ?
小学校低学年くらいの女の子。つまり、「赤信号の横断歩道を渡ってはいけない」という常識は、大人から教わっているはずなのだ。どころか、「横断歩道を渡るときは手を上げよう」というちょっと恥ずかしい横断方法を、律儀に実行していてもいい年齢だ。
ちなみに僕は、実行していた。小学四年生まで実行していた。ついでに明らかにしておけば、サンタクロースは六年生まで信じていた。ほんの最近まで、プレゼントをくれる赤いおじさんの存在を信じていた。
いや、いい。そんなこと、今はどうでもいい。僕の恥ずかしい話は、またの機会にしよう。
青信号は進め。
赤信号は止まれ。
残念ながらその常識は、今日も変わっていなかったようだ。
その証拠に。
トラックはスピードを落とさずに、横断歩道へと向かって来ていた。
「おい!危ないよ!」
僕は駆け出していた。
それほど広い横断歩道ではない。少女も横断歩道に一歩を踏み出したばかりだから、なんとか間に合うはずだ。トラックが横断歩道に差し掛かる前に、少女をこちらに引き戻すことが出来るはずだ。
僕は、そこまで足が速い方じゃないし、大した体力もない。普通だ。その辺の普通の男子中学生と同じ、平均的な運動能力だ。それは今年度最初に行われたスポーツテストが、充分すぎるくらいに示してくれている。だから、彼女の元へと駆けつけるのが間に合うのかどうかは、正直微妙なところなのだ。
でも、声なら。声なら、届くはずだ。僕の、叫びにも似た声掛けが彼女に届いていたのならば、彼女は足を止め、引き返せたはずなのだ。
けれど。
彼女は止まらなかった。
足を止めることなく、横断歩道内に侵入していってしまう。
おいおい。聞こえないのか?こんなに叫んでいるのに、僕の声は届いていないのか?
どういうことだ?
このままでは。
このままでは。
あの子は・・・・・。
「危ないって!」
あ。
と、僕は思った。
横断歩道まで到達した僕は、その中にまで侵入し、彼女の手をとった。続いて、横断歩道の外まで引っ張り出そうとしたのだ。
僕は、運動能力が平均的な男子中学生だ。平均的。可もなく不可もなく、得意でも不得意でもない。それはそう簡単には変わらないのだから、この一瞬で、その運動能力が飛躍的に高くなったりするわけがない。
つまり。
間に合わない。
彼女の元まで辿り着くところまでは良かったのだが、彼女を安全地帯まで引っ張り出すことまでは、敵わなかった。
目の前まで迫ったトラックから身を躱すなんて。
普通の男子中学生には、不可能だった。
「・・・・・・・・・・ん?」
気が付くと目の前には、またしても横断歩道があった。
「気が付くと」なんて、まるで僕が今まで気を失っていたかのような物言いになってしまったけれど、僕は意識を消失していたわけではない。はっきりと、意識は保っていたのだ。
だけど。
何が起こったのか、さっぱりだった。
えっと、待てよ・・・目の前までトラックが迫っていたところまでは、はっきりと思考が追いついていたはずだ。横断歩道に侵入する女の子を見つけて、声を掛けて、飛び出して・・・・・。
で?
なんでまた、横断歩道?
意識はハッキリしてるのに、眠いわけでも疲れたわけでもないのに・・・・・なんだ?この、ボヤっとした感じ。ぼんやりとした、幻を見たような感じ・・・。
・・・・・そうだ。
あの子は、どうなった?
「あの・・・・大丈夫ですか?」
勢いよく後ろを振り返ると、先ほどの少女が、僕の顔を覗き込んでいた。
幼い顔立ちに、肩にかかるくらいの黒髪。青黒い色合い(群青色って感じか?)の小さなリボンに、夏にぴったりの真っ白なワンピース。
やっぱり、小学生くらいの小さな女の子だ。
慌てふためくでもなく、不安げな表情を浮かべるでもなく、ただただ無表情に、彼女はこちらを見つめていた。
「ああ・・・うん、大丈夫だよ。そっちは?怪我とかない?」
「ええ」
短く、彼女は答えた。
怪我とか・・・ないのか。あんな状況で怪我をしなかったのも、ちょっと不思議な気がするけれど・・・。まあ、二人とも無事だったならば、それに越したことはないか。
「・・・ありがとう、ございました」
「・・・え?」
「助けてくださって、ありがとうございました」
「えっと、いや・・・僕は、何もしてない気がするんだけど・・・」
「ありがとうございました」
「あ、うん・・・どういたしまして」
彼女が何度も頭を下げるので、うっかり「どういたしまして」と言ってしまった。
本当に、僕は何もしてないんだけどな・・・。
いや、でも・・・だとしたら、僕たちはどうやって助かったのだろう?急に、僕の隠された力でも目覚めたのだろうか?・・・なんて、思春期にありがちな妄想をしてしまったけれど、そんなことは、まずあり得ないだろう。
だとすれば、彼女が僕を助けてくれた・・・・・?
いや、それもないか。
彼女の細腕じゃ、僕を引っ張り出すどころか、その場から動かすことも難しいだろうに。
「では・・・・・失礼します。急いでいますので」
「う、うん。何か、用事があるんだね」
「はい。大切な用事が」
「そっか。でも、急いでいたとしても、赤信号は渡っちゃ駄目だよ。危ないから」
「赤信号?」
と、彼女は、信号の方に顔を向けた。横断歩道の信号は再び赤に変わっており、歩行者の横断を止めようと試みている。
・・・もしかしてこの子、本当に交通ルールを知らなかったのか?
マジで?
そんなの危険すぎる・・・・・最近の小学生は、そういうルールを習わないのだろうか?・・・・・いや、まあ、僕も一年とちょっと前までは、その小学生だったんだけれど。
だとすれば、ほんの少しだけ年上のお兄さんとして、教えておかなければならないだろう。
ここはほんの少しだけ、年上面させてもらおう。ほんの少しだけ、ね。
「君、信号を知らなかったの?ほら・・・」
と、信号機を指差す。
「赤信号は、止まらなきゃいけないんだ。それで、青信号は・・・」
「いいえ」
彼女は片手を上げて、僕の言葉を遮った。
「知ってます」
「え?そうなの・・・?なら、いいんだけど」
だとすれば、知っていて交通ルールを破ったことになるから、余計に心配なんだけれど・・・。
「それでは。本当に急いでいますので。さようなら」
「うん・・・さよなら」
彼女はもう一度ペコリと頭を下げると、スタスタと歩いて行ってしまった。
さっきとは逆方向に。
信号とは逆方向に。
僕の進行方向とは、逆方向に。
歩いて行ってしまった。
(・・・・なんか、変な子だったな)
終始敬語だったし、表情が固かったし・・・・・なんというか、子どもっぽくなかった。僕があの子くらいの頃は、もっと表情豊かだった気がするけれど。
まあ。
いっか。
僕は、青信号を渡る。彼女のことは一旦頭の片隅に置き、学校に向かう。
これが、彼女との出会いであり。
日常との、別れだった。
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