病名(びょうめい)とめろんぱん

ぢろ吉郎

機桐孜々のバタークッキー その3



 彼ほど――草羽くさばねあきらという初老の男ほど長い期間、『シンデレラ協会』に貢献している者はいない。同時に、彼ほど、機桐はたぎりを長く見てきた人間はいないのだ――何故なら、機桐孜々の父親の世代から、彼は機桐家に仕えてきたのだから。若くして命を落とした彼に息子の孜々を託され、それからというもの、ずっと――揺るぎなく、孜々を守り、孜々を支えてきたのだ。『シンデレラ協会』の用心棒としては、『しんちょうやまい』を持つやくただしが目立っているが、機桐孜々本人のボディガードとして優秀なのは、間違いなく草羽了その人だろう。機桐孜々という男の思考を、行動を、感情をきちんと理解し、その上で彼を守りきるだけの実力を持つ者は、草羽了を除いて他にはいない。
 機桐孜々がこの世に生を受けた、その瞬間から、ずっと。
 草羽了は、彼の執事だったのだから。


「昔……『お菓子作り』をしたことがありましたね」


 唐突に、草羽はそんな話題を口にする。
 孜々に向けて、その顔色をうかがいながら話しているという風ではない。彼の頭部よりも少し上――何もない空間に視線を泳がせながら、ポツリポツリ、と独り言のように言葉を紡ぎながら、彼は話し続ける。


様と、そのお兄さんである喜治きじ様、そして奥様がまだお屋敷にいらした頃――全員でキッチンに集まり、お菓子作りをしたことを、覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ。覚えているよ」


 謝罪の言葉を口にしたあと、ずっと沈黙を守っていた孜々が、重い口を開いた。
 孜々もまた、草羽の目を見て話をしようとはしない。草羽と同じように、その言葉を誰かに伝える気なんてこれっぽっちもないかのように、言葉を呟く。


「あの頃はまだ、『シンデレラ協会』という組織は存在していなかった――私が、何も失っていなかった頃だからね。お菓子作りは、何度かした覚えがあるが……作るお菓子は毎回、同じだったね」
「ええ、その通りです。毎回同じ――バタークッキー。莉々様の好物の一つであるバタークッキーが唯一、お菓子作りで挑戦したスイーツでした。なんの飾り気もなく、材料も、小麦粉と砂糖とバターだけ……本当にシンプルな、普通のクッキー」
「……」
「三時のおやつには、もう少しお洒落な――フロランタンやフィナンシェといった、それなりに本格的なスイーツを私が作っていたにも関わらず、莉々様は、『クッキーが作りたい』とおっしゃいました――そう。莉々様が、最初に。最初に『お菓子作りをしよう』と言ったのは、ご当主様でもなく、奥様でもなく、喜治様でもなく、もちろん私でもなく――莉々様、だったのです」
「それは――まあ、確かに、そうだったね」


 忘れていた、というわけではなかったものの、改めてしっかりと思い出したという意味を込めて、孜々は小さく頷いた。


「私と妻には、お菓子作りの趣味はなかったし、喜治も、そういう女の子っぽい趣味には、抵抗があったみたいだ――年頃の男の子らしく、ね。莉々が最初に言い出したというのは、間違いではないだろう」
「はい。ですが、クッキーを上手く作り上げるまでの道のりは、なかなか厳しいものでした。あれくらいの年頃の子どもは、なんでも自分でやりたがる傾向にありますからね。喜治様は、そもそも最初からほとんど興味がなかったから良かったものの、莉々様は相当ムキになっていらっしゃいました……。ご当主様や私が手出しをしようとすると、『自分で出来るから!』と、怒ったりして……」
「あぁ……そうだった、そうだった。懐かしいね。いや、懐かしむほど昔のことではないけれど――しかし、莉々が怒ったり、ムキになったりするのは、珍しいことだったからね。印象に残っているよ」
「本当に――私も、あの時は驚いたものです。材料を量り間違えたり、生地をねるのに時間がかかったり、焼き時間を間違えたり……それでも最後には、莉々様は、クッキーを作り上げました。形は少々いびつだったものの、味や固さはちょうど良く、子どもが作ったということを考えれば、非常に良い出来だったと記憶しています」
「そう――だったね。そうだった。莉々の作ってくれたクッキーは、問題なく美味しかったんだ。初めてにしては上手くできたね――と、そんな感想を言った気がするよ」
「――では、その後は?」
「うん?」
「クッキーを作り上げ、私とご当主様で味見をし、その後は?覚えていらっしゃいますか?」
「ええと……すまないね。そこまで細かいことは、残念ながら覚えていないな……。教えてくれるかな、草羽さん」
「もちろんです。その後、喜治様と奥様も一緒に、本格的なお茶会をすることになったのです。莉々様の作ってくださったクッキーをお茶請けに――しかし、そこで少々問題が発生しました」
「問題――問題?」


 「問題とは、なんだったかな?」と、孜々は頭をひねる。
 とっくの昔に二人は、きちんと向き合って話をすることが出来るようになっていた。声を発することさえも憚られるような――張り詰めたような空気は、雲散うんさんしょうしている。


「ええ。問題――私としたことが、紅茶を切らしてしまっていたのです」
「紅茶――ああ、そうか。クッキーには、やはり紅茶が合うだろうからね。確か紅茶の代わりに、緑茶を準備したのだったかな」
「そうです。紅茶の葉の仕入れを忘れていた私が言うと、完全に言い訳になってしまいますが――たまにはクッキーに緑茶も良いだろうと思い、急須にお茶を淹れ、持って行ったのです。ですが、莉々様は仰いました――『紅茶じゃなきゃ、ヤダ。紅茶じゃなきゃ、お茶会はしない』、と」
「そんな我儘わがままを、言っていたかな?いや――言っていた気がするね。一度だけ、そんなことを。何故、そんなにも紅茶にこだわるのか、そのときは理解できなかったけれど……」
「私も、何故、莉々様がそんなにも紅茶にこだわるのかは分かりませんでした。そして同時に、『どこでそんなことを覚えたのだろう?』という疑問も持ちました。クッキーには紅茶が合う――そんなこだわりをどこで覚えたのか、と」
「こだわりをどこで覚えたか……それは多分、私の影響だろうね。それほど強いこだわりを持っているわけではないけれど、『クッキーには紅茶が合う』というのは、私が口癖のように言っていた言葉でもあるから……」


 少しだけ恥ずかしそうな表情を浮かべる孜々に対し――草羽は微笑んだ。


「私は、莉々様がまったく同じセリフを自慢げに仰っているのを、聞いたことがありますよ。こんなに小さな子どもでありながら――成長しようと頑張っていらっしゃるのだ、と、私は感動したものです」
「成長――と言ってしまってもいいのかな、それは」
「親を見て、それを真似し、自らのものにする――それは間違いなく、成長と呼ぶに相応しいでしょう。成長――しているのだと思いますよ、莉々様は。『紅茶じゃなきゃ、お茶会はしない』、という言い振りから察するに、おそらく莉々様が本当にやりたかったのは、『クッキーを作ること』ではなく、『お茶会を開催すること』だったのでしょう――毎日午後三時に行っているお茶会を、自分で開いてみたくなった、といったところでしょうか。専ら、私の推測ではありますが」
「なるほど……『自分でお茶会を開きたい』、か。確かにそれならば、あのこだわり方も納得できるね。もしもその推測通りではなかったとしても、まったくの的外れではなさそうだ。だが、しかし、草羽さん――」


 と、ここで孜々は、珍しく苦笑いを浮かべる。裏表のない微笑みでも、真顔でもない――中途半端な苦笑というのは、孜々にとっては稀な表情なのである。
 のどはまだ、戻ってこない。


「草羽さん。面白い話ではあったし、懐かしい話でもあったけれど――結論は一体、何を言いたいのかな?『莉々は成長している』というのが結論であるならば――まあ、私も、話に興味をそそられてしまったし、ケチをつけるつもりもないのだけれど……もしも、私が理解できていない結論があるのならば、教えてもらってもいいかな?」
「これは――長々と、失礼いたしました」


 草羽は即座に、深々と頭を下げる。


「いや――そんな。怒っているわけではないんだ。私はこの通り――言うまでもなく――察しが良い方ではないからね。すまない……草羽さんほどの人に、頭を下げさせてしまって――」


 「滅相めっそうもございません」と、草羽はゆっくりと頭を上げる。


「ただ、私が申しあげたかったのは、『子どもは、親を見ている』、という、ただそれだけのことなのです」
「親を見て……」
「ええ。恥ずかしながら、子どもの一人もいない私ではありますが――しかし、子どもの頃から私には、『理想の父親像』というものがあるのです」
「理想の父親像――もしかすると、草羽さんのお父様かな?」
「いいえ」


 と、草羽は頭を小さく横に振り、昔を懐かしむような笑顔を浮かべた。


「あなたのお父様――機桐様です」





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