病名(びょうめい)とめろんぱん

ぢろ吉郎

病名とめろんぱん その55



「何度も何度も聞かれて、うんざりしているかもしれないけれど、もう一度聞くよ?」
「はい?」
「君は、ほたるさんでいいんだよね?」
「さて・・・どうでしょうね」


 クスクスと楽しげに笑う彼女。僕の中では、彼女はすでに「蛍井火乃」であるということになってしまっているけれど、どうやら彼女にはそれを認める気はないらしい。
 二度目の夢。
 二度目の邂逅かいこう
 神秘的な森の中で、僕は再び、彼女と出会っていた。巨大な切り株を椅子代わりに、暖かな光の差し込む木々や泉を眺めながら、彼女との会話を楽しんでいた。
 楽しんでいる・・・・・のだと思う。
 誰かと話していて楽しいと感じたのは、いつぶりだろうか?少なくともこの数か月間・・・・・社会人になってからと、一般人をやめてからの期間、会話を「楽しい」と感じたことは一度もなかった。
 感じたことはなかったし。
 楽しもうと思ったことも、なかった。


「じゃあ・・・質問を変えるよ。いいかな?」
「なんなりと」
「君は、その・・・人間、なんだよね?」
「あらら・・・人間じゃない何かに見えます?夢に登場する妖怪・・・とか?」
「いや、そういうわけじゃないけれど・・・」


 別に、姿かたちが妖怪に見えているわけではないし、その他の、人間以外の何かに見えているわけでもない・・・彼女は、ただの人間に見える。百パーセント、ただの人間だろう。
 うーん・・・。
 でも、それなら・・・。


「ふふっ・・・難しい顔を、してらっしゃいますね」
「?・・・そう見えるかな?」
「ええ。眉間に、シワが寄ってしまっていますよ」
「そっか・・・」


 楽しくお喋りをしていたつもりだったが、残念ながら彼女には、そうは見えていなかったらしい。まあ、会話を楽しんでいるとはいっても、いろいろ思考しながらの会話だったので、心の底から楽しんでいたかと聞かれれば、そうではなかったかもしれない。
 楽しむって、難しい。


「もっと肩の力を抜きましょうよ、やなゆうさん。楽しいお話をしましょう」
「楽しいお話ね・・・・・難易度高いな」
「そう難しく考える必要は、ないと思いますよ?ほら・・・ハーブティーでも、いかがですか?」


 見れば彼女はどこから取り出したのか、ティーポットと、ソーサーに乗ったティーカップ二組を、膝の上に置いていた。すでに紅茶の葉とお湯が入っているのか、ティーポットからは心地よい香りが漂っている。嗅ぐだけで気持ちが緩んでしまうような、そんな甘い香りだ。


「リラックス効果のある、カモミールティーです。美味しいですよ」
「リラックス効果ね・・・そういうのって気のせいなんじゃないかと、僕は思ってしまうけれどね。気のせいっていうか、思い込みっていうか・・・」
「気のせいや思い込みでも、いいんじゃないでしょうか?」


 紅茶を注いだティーカップを僕に差し出しながら、彼女は微笑んだ。


り固まった体と心をほぐしてくれるのならば、それが気のせいや思い込みでも、問題ないんじゃないでしょうか?」
「そうかな?」
「そうですよ・・・人間なんてそれくらい、曖昧でボンヤリしたものです」
「ゆったりとした構え方だね。僕には真似できそうにない・・・」


 生きるのに必死で、生き残るのに必死で・・・・・そんなにゆったりした考え方は、これまで出来ていなかった気がする。
 ティーカップを受け取り、中身の紅茶を口に含むと、スッキリとした味わいが口の中に広がった。それから、独特の甘い風味が鼻を抜けていく。
 美味しい・・・けれど、ここは夢の中のはずだ。紅茶が美味しかったところで、彼女の淹れ方が上手いとか、高級な茶葉を使っているとか、そういうことにはならないだろう。
 これは、僕の夢なのだから。
 僕の望む味になって、当然だと言える。


「・・・・・」


 不思議だ。現実の僕であれば、素性の知れない他人から出された紅茶など、一滴さえ口に含もうとは思わなかっただろう。けれど今は、あっさりと口をつけることが出来た。
 いつから僕は、他人に対してあんなにも疑心暗鬼になっていたのだろうか。こうしてお茶をしながら、他人とのんびりとお喋りすることの充実感を忘れていた。
 ・・・いや。
 そんな充実感は忘れるどころか、今まで味わったことなんて、なかったかもしれないけれど。


「ねえ、柳瀬さん」


 彼女もまた、紅茶を啜りながら、口を開いた。


「生きるのってやっぱり・・・・・大変ですか?」
「・・・・・ああ。大変だよ」


 命を狙われたり、知らなくてもいい世界を知ってしまったり。嫌われたり脅されたり・・・・・かと思えば、訳も分からず優しくされたり。
 これは僕だけに限った話ではないだろう。『やまい』の業界に入ってからというもの、それ以前に比べて大変な目に遭うことは増えたけれど、それまでの生活が楽勝だったのかと聞かれれば、もちろんそうではない。
 社会人になってからの二カ月間は、学生の頃に比べれば地獄みたいなものだったし。大学時代は高校時代よりも大変で、高校時代は中学時代よりも大変で・・・小学生の頃の記憶は、もう何も残っていない。
 長く生きれば生きるほど、苦しいことが多くなる。辛い経験ばかりが積み重なっていって、楽しい経験は少なくなり、忘れていく・・・それは多かれ少なかれ、誰の人生にも当てはまるものではないのか?
 それとも、僕が楽しむ努力を怠っているだけなのだろうか?
 だといいけれど。


「君はどうなんだい?蛍井さん」


 と、僕は聞き返す。


「君の人生は、大変かい?というか・・・そもそも君は、生きているのかい?」
「御覧の通り、生きていますよ。現実の世界の私も、夢の世界の私も、未だ健在です」


 ニコリと笑いながら、彼女は楽しそうに語った。
 本当に、楽しそうに。


「ただ・・・それが大変かと聞かれれば、少し返答にきゅうしてしまいます。現実世界で意識があった頃は、それはまあ、いろいろあったんですけれど」


 宙を見つめながら、遠い記憶を手繰り寄せるように、彼女は語った。


「こうして夢の世界に落ちたあとも、全部が全部望み通りになるようになったわけじゃありませんし、毎日毎日楽しく過ごせるようになったわけでもありません」
「そうなのかい?夢の世界なんだから、自分の理想通りの生活が出来そうな気がするけれど」


 自分の頭の中で起こることさえ望みどおりにいかなくなってしまったら、さすがに救いようがなさすぎる。眠っているときくらい、幸せな夢の世界で暮らしたいものだ・・・・・いや、まあ、そんなことを言い出したら、「夢の世界ってなんだ?」という話にもなってしまうけれど。


「そう都合良くもいかないみたいなんです。せいぜい、好きなお茶を好きな時間に飲めるようになったくらいですよ」


 ティーポットを少し持ち上げながら、彼女は微笑んだ。さっきまではカモミールティーが注いであったはずだが、今は何故か、ポットからはジャスミンティーの香りが漂っている・・・いつの間に淹れ直したのだろう?それともこれが、「好きなお茶を好きな時間に飲めるようになった」ということなのか?


「こうして誰かとお喋りするのも、実は久し振りなんですよ」
「そういえば・・・ここは人気がないね」


 僕と彼女以外には、人っ子一人見かけていない。二人だけの世界、と言ってしまえばロマンチック過ぎるかもしれないが、実際、この夢の中には僕らだけしかいないように感じてしまう。まあ、誰にも邪魔されることのない環境というのも、これはこれで理想的な夢である。


「僕は・・・話す必要がないなら、無理に誰かと話したいとは思わないけど」
「ええ。私も、同じように思っています。でも・・・あなたと話すのは、なんだか楽しいんですよ、柳瀬さん」
「そりゃあ・・・・・恐れ入ります、って感じだね」
「・・・照れてらっしゃいます?」
「まさか。僕は生まれてこの方、顔が赤くなったことはないね」
「なら、風をひいたときは?熱が出たときは、どうしても顔が赤くなってしまうでしょう?」
「馬鹿は風邪ひかない」
「あら、まあ・・・」


 クスクスと彼女は笑い、僕は特に笑わなかった。こんなどうでもいいやり取りを楽しいと思ってもらえたならば、夢の世界に来た甲斐もあるというものだ。


「やっぱり、夢の世界はいいですね。こんな風に、面白い方とお話が出来て」


 ジャスミンティーをティーカップに注ぎながら、彼女は満足気に言った。僕のティーカップ、そして彼女のティーカップが、段々と満たされていく。


「幸せです」


 やはり静かに、彼女は微笑んだ。


「この夢は本当に・・・・・幸せです」





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