病名(びょうめい)とめろんぱん
病名とめろんぱん その50
『白羽病院』の職員になったとはいっても、もちろん、いきなり仕事が割り当てられたわけではなかった。
次の日から始まったのは、研修だった。
研修。
少し前まで一般企業の新入社員だった僕からすれば、それほど懐かしい響きではない。その研修内容だって、そこまで特別なものではなかった。
午前中にはまず、講義を受ける。講義の内容は、『病』に関する話題だったり、『白羽病院』の経営方針だったり、『病持ち』の患者との接し方だったりと、様々だった・・・・・まあ正直、あんまり理解できなかったけれど。
専門知識すぎる。
一周回って、常識を聞かされただけとも言えるかもしれないけれど。
ちなみに講師はと言えば、歯原室長と粒槍だった。
歯原室長は分かるとして、なぜ粒槍が?この人、講師が出来るほどにここに馴染んでいるのか?
とは思ったが、どうやら粒槍は、『第二究明室』の中では古株らしいのだ。同年齢くらいだから、新顔の職員なのかと思っていたが、そういうわけでもないようだ。
「『白羽病院』自体、そんなに古い病院ではないからな」
と、これは歯原室長の話だ。
「『白縫グループ』の中じゃ、二番目に新しい病院だよ。つまりその職員だって、古株とは言っても、経験豊富なプロフェッショナルばかりだとは言い難いんだよな、残念ながら・・・。あー、いたた・・・座って講義してもいいか?」
らしい。
要するに粒槍は、古株ではあっても、そこまでの経験値を持ってるわけではないということか。もちろんそれは、『白羽病院』のスタッフが全員、新人であるということではないのだろうが。
歯原室長は、見るからにプロっぽい雰囲気だ。
足腰は弱そうだが。
午後は、歯原室長の回診に付いて回ったり、粒槍の仕事を軽く手伝ったりした。
細かい仕事内容は省略するけれど、これはつまり、「院内での仕事」と「院外での仕事」とにわけられる。
歯原室長の仕事を手伝っているときは、患者との会話やらデータの管理やら、院内での仕事が多かったが、粒槍の仕事を手伝うときは主に、『病持ち』だと思われる人間の観察なので、院外での仕事が多いのだ。
「俺の仕事は基本的にこうやって・・・人間観察だからさ」
と、これは粒槍との会話。
「潜在的な『病持ち』と思しき人間が、事件を起こしたりしないかを観察している。あとは、『病』に関する情報漏えいを、未然に防いだりね」
「・・・僕の殺害も、その仕事の一環だったってことですか?」
「そういうことだよ。君の住んでいたマンションの住民の一人を殺したのも、もちろん、仕事の一環だ」
「そうですか」
ポツリと、僕は呟く。
今度は僕も、そっち側になるということか。
殺される側から。
殺す側に。
他にも『第二究明室』には何人かメンバーがいるらしいのだが、顔合わせをするのは、研修後ということになった。
研修終了後。
つまり、正式に『白羽病院』の職員として認められた後、ということだ。
さすがに上の人たちは、僕のことを理解しているらしい。「研修中に柳瀬優が逃げ出すかもしれない」という可能性を、きちんと考慮しているようだ。
賢明な判断だ、と僕は苦々しく考える。
正式な職員と認めるまでは、なるべく情報を僕に渡さないようにしているのだろう。その証拠に、組織の構成員のデータや、患者の病歴などは、僕はほとんど見ていないのだ。
本当に、徹底している。
『病』に関するデータを守るためならば、職員を疑うことすら辞さないということなのだろう。
・・・とまあ、そんな風に。
研修だらけの一週間が、経過した。
(ふう・・・疲れた)
粒槍と共に院外での仕事から戻り、休憩室へと向かう。
この一週間、研修自体はそんなに大変ではなかったのだけれど、日中ずっと監視されているようで、気を緩められなかったのだ。歯原室長に報告に行くとかで、今この瞬間、粒槍が離れているときは、わずかながら気を緩めることが出来る。
(この監視下じゃ、逃亡は不可能だよな、やっぱり・・・)
逃亡を企てたところで、計画を看破され、捕まって殺されるのが関の山だろう。たとえ逃亡が上手くいったところで、『海沿保育園』が再び僕を保護してくれるとも限らないし・・・。
見極めなくてはならない。
最も安全に、最低限の危険性で脱出するタイミングを、見極めなくてはならない。
『忘れる』か。
『忘れられる』か。
濱江院長は、それしかこの業界を抜ける方法はないと言っていたけれど・・・ほかにも方法はあるはずだ。
そのためにはまず、この『白羽病院』ことをもっと知らなければ・・・・・。
『・・・・、き・・』
(・・・・・ん?)
今、何か聞こえたような・・・。
ひとまず足を止め、辺りを見回す。
地下三階の休憩室は、廊下の奥まったところにあるのだ。すでにその付近まで来ている僕には、休憩室からの話し声か、廊下での話し声しか聞こえないはずだ。
しかし・・・。
(・・・・・)
今、廊下には僕以外の人間はいないし、休憩室の中を覗いてみても、一服している人はいなかった。僕のような研修生以外は、みんな就業時間中なので、それに関しては驚かないけれど・・・。
『・・・に、・・・・』
・・・やはり、聞こえる。気のせいではない。
それも聞こえてくるのは、休憩室の中からではなく、もちろん廊下からでもなく。
廊下のさらに奥。
廊下の突き当たりの方から聞こえてくるのだ。
『・・・に、き・・・』
(・・・・・)
なんだか、気になる声だ。何を言っているのかをはっきりと聞き取ることは出来ないが、もっと聞きたくなるような、ずっと聞いていたくなるような、そんな声・・・。
僕は廊下の奥へと、足を向ける。
『こ・・・に、き・・・』
聞こえる声は段々と大きくなってきているが、やはり、はっきりとは聞き取れない。だが、女性の声だ。何かを懇願するような、縋るような声が、僕の聴覚を鋭く刺激する。
・・・行かなきゃいけないような気がする。
彼女の声がする方へ、向かわなければいけない気がする。
『こっちに、・・・・』
廊下の奥には、小さな扉があった。お世辞にも綺麗とは言えない、薄汚れた、もともとは清潔であったはずの木製の扉。
「・・・・・」
特に意思もなく、無意識的に、その扉を開く。扉に鍵はかかっていなかったらしく、すんなりと中へ入ることができた。
部屋の中も手入れが届いているとは言えず、何日も掃除をしていないかのように、黒ずんでいた。内装だけでなく、部屋の空気そのものが、どんよりと淀んでいるかのように感じられる。
彼女は、そこにいた。
まだ少し距離があるので、直接顔を見ることが出来ないが、「安らかに眠っている」という表現が、彼女には合うだろう。
死んでいるわけではない。
彼女のベッドの周りを囲んでいる医療機器を見れば、彼女がまだ生きているということは、明白だった。
彼女が、僕を呼んだのか?
叫ぶどころか、声を出すことも出来なさそうな、彼女が?
『・・・・、きて・・』
僕は一歩、また一歩と、彼女に近づいていく。
待て待て。
明らかに危険だろう。
呼び寄せられるのようにここまで来てしまったが、これ以上近づくのは危険極まりないと、本能が感じている。
けれど、何故か逆らえない。
足を止められない。
僕はベッドのすぐそばまで近づき、その顔を覗き込もうと・・・・・。
「おい!」
はっ、と。
今更何かに気付いたかのように振り返ると、扉のところに、粒槍が立っていた。
「そこから出るんだ!柳瀬くん!」
恐怖と怒りが入り混じったような表情を浮かべながら、彼は僕に向かって叫ぶ。
「その子に近づくんじゃない!死ぬぞ!」
「現代ドラマ」の人気作品
書籍化作品
-
-
29
-
-
381
-
-
37
-
-
2
-
-
49989
-
-
768
-
-
111
-
-
4112
-
-
4503
コメント