病名(びょうめい)とめろんぱん

ぢろ吉郎

病名とめろんぱん その35

 
 道路を走って行く車のヘッドライトが時折、深夜の暗闇に光をもたらす。
 野良犬だか飼い犬だか分からないが、彼らの鳴き声が数分おきに、夜の静寂を破る。
 それでも。
 長い夜はまだ、明けそうにない。


「『忘失ぼうしつやまい』・・・」


 と、僕はその病名を繰り返す。
 どう考えても、穏やかそうな雰囲気の『やまい』ではないけれど・・・。
 いや・・・今まで、穏やかな『病』なんて、なかったかもしれない。ちゃんの『治癒ちゆじょうの病』にしたって、奇妙といえば奇妙だし・・・。


「そうだ」


 と、はまさんは頷く。


「私の知り合いに、他人の記憶を忘れさせることの出来る、『忘失の病』を患った男がいる。何でもかんでも都合よく、というわけにはいかないけれどね。彼に頼めば、君の『病』に関する記憶を、綺麗さっぱり消してくれるかもしれない」
「・・・・・その人、信用できる方なんですか?」


 いや、信用とかそれ以前に・・・本当に、そんなことが可能なのだろうか?
 『病』に関する記憶を丸ごと忘れ、『病』に関わる業界から身を引く。
 そんなに上手くいくか・・・?
 それこそ、都合が良過ぎるような気がしてならない。


「生活をする上で最低限必要な記憶まで消されたり、どうしても残しておかなければならない記憶まで、失ったりしませんか?」


 『病』に関する記憶を消されるのは良いとしても、それでこの先の生活が出来なくなってしまっては、本末転倒だ。


「信用できる奴だ、と私は思うね。真面目で、誠実な男だよ。まあ・・・君がそれを判断するのは、君自身が彼に会ってからでも遅くはないだろう。少し時間をくれれば、今すぐにでも、君を彼のところに案内することも出来るけど・・・どうする?」
「・・・・・」


 どうすると聞かれても・・・そんな話、すぐには呑み込めない。早急にこの社会から身を引けるというのは魅力的だけれど・・・それが記憶と引き換えとなれば、簡単に判断を下すことは出来そうもない。


「少し、考える時間をもらえませんか?」
「ああ・・・そうだね。こんな重要な決断、そう易々と下せるものではないよな」
「ええ。それに、『忘れる』ことで、この業界から抜け出すことが出来るという案自体、僕はまだ半信半疑です」
「・・・へえ?」


 と、濱江さんは眉をひそめる。


「そこそこ、合理的な案だと思うけれどな・・・。さっきも言ったけれど、君が『病』に関する情報さえ失ってしまえば、もう誰にも、君を狙おうとする理由がない。この業界において、君は無価値になる。記憶に少しばかり空白が生じてしまうけど、それでこの業界から足を洗えると思えば、安いものじゃないかい?」
「でも、それはちょっと、なんて言うか・・・都合が良過ぎるかな、と思って」


 そんなに簡単な話ではない。
 そう上手くはいかない。
 ついつい、そう思ってしまう。


「僕が『病』に関する記憶を失ったところで、僕を危険視する人間が、完全にいなくなるとは言い切れないでしょう?『念のため』とか、『万が一のため』とか言って、僕を狙い続ける奴がいるかもしれない」


 もし、そんな状況になった場合。
 『病』に関する記憶を持っていないのは、マズい。


「『病』のことを何も知らない自分が、そんな危機的状況を乗り越えられるとは、到底思えないんです。そこまでの運の良さは、僕は持ち合わせていない」


 そう。
 初めて、『病』に関わってしまったときのように。粒槍つぶやり伝治つたうじの殺人を、見てしまったときのように。
 あのときだって、一歩間違えれば死んでいたのだ。あのとき生き残ったのは、本当に、運が良かっただけに過ぎない。偶然起こった停電が、僕の命を救ってくれた。
 あの奇跡をもう一度起こせるかと聞かれれば、もちろんノーだ。あんな幸運、もう二度と巡ってこないだろう。


「・・・・・」


 今度は、濱江さんが黙ってしまう番だった。
 右手を頬に当て、少し考え込むような表情になる。
 そして、


ゆうくん」


 と、一言。


「この業界に関わってしまった以上、長生きするためには、ある程度のリスクは覚悟しなければならない。そして、この業界から離れようとするならば、更なるリスクを背負う必要があるんだ。ときには・・・そう」


 命。
 命を賭けなければならないときも、あるかもしれない。


「『忘れる』というリスクを背負わないならば、私が考え付くアイデアは二つしかない。どうにかして周りに自分のことを『忘れてもらう』か、一生この業界に関わって生きていくか・・・その二択だ。一つ目はほぼ不可能だし、二つ目には嫌気が差す」


 「私だって、この業界に一生付き合うのは御免だね」と、彼女は再び、ティースプーンをクルクルと回し始める。
 ・・・癖、なのだろうか?


「君は、どちらのリスクをとるのかな?死ぬ覚悟でこの業界を抜け出すか、生き残るためにこの業界に残るか・・・」
「後者です」


 と、僕は即答する。
 もちろん視界を広げれば、他の選択肢もあるんだろうけど・・・大まかにその二つに絞るならば、絶対に後者だ。
 死ぬ覚悟なんて、僕にはない。
 そんな覚悟は、永遠に出来ないだろう。死ぬくらいならば、この泥沼に一生浸かっていた方がマシだ。
 死ぬのは嫌だし、怖い。その気持ちは、ずっと変わらないだろう。
 僕は、そういう奴だ。


「今のところは、ですけどね。しばらくは『病』の社会に浸りながら、あわよくば、脱出の手段を探ります。・・・・・命を、賭けなくていい手段を」
「・・・そうかい」


 「ふぅ・・・」という短い溜息と共に、彼女は、ティースプーンをコーヒーカップに向けて放る。中身のコーヒーが少しだけ飛沫しぶきを上げ、テーブルにシミを作った。


「相当の難題だと思うけれどね・・・まあ、いいさ。テキトーに頑張ってみるといい。健闘を祈るよ」


 彼女はグッ・・・と背伸びをすると、白衣のポケットからスマートフォンを取り出した。
 僕も少し、長話に疲れてきた。そんなに話し込んだつもりはないんだけれど・・・話題が話題なだけに、精神的に疲弊してしまったのかもしれない。


「一応、私の連絡先を教えておこう。もしも『忘失の病』の男に会いたくなったら、連絡してきてくれ。今は、名前も居場所も明かせないけれど・・・君がその気になったときは、いつでも紹介するよ」
「・・・ありがとうございます」


 やれやれ。
 随分と、長話になってしまった。若干の眠気も感じているし、そろそろ、お暇する時間だろう。
 無事に逃げおおせているならば、蓮鳥はすどりさんも待っていることだろう。それとも待ちくたびれて、先にホテルに帰ってしまっただろうか?
 交渉は上手くいかなかったし、それほど状況が進展するということもなかった。『白縫しらぬい病院』に忍び込んだ甲斐があったかと聞かれれば・・・正直、微妙なところだ。成果は、あんまり得られていない。
 生きているだけ、まだマシか。
 なんにせよ、引き揚げる頃合いだろう。
 ・・・無事に帰してくれれば、だけれど。


  

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