病名(びょうめい)とめろんぱん
病名とめろんぱん その4
「ご当主様?どうされまし・・・・ご当主様!?」
と、エプロンをつけた女性が、慌てふためきながら男に駆け寄ってきたときには、僕はすでに、教会の入り口付近まで戻って来ていた。
用は済んだ。
あとは、ここから去るだけだ。
「誰です・・・・」
女性は、震える声を発する。
「誰ですか!?こんなことをしたのは!出てきなさい!なんで!どうしてこんな・・・」
彼女は裏返った声で、これでもかと叫ぶ。そうすれば、何かが解決するとでも言うように。そうすれば、全てが元通りになるとでも言うように。
もちろん、そんなことでは何も解決しない。
命は戻らない。悲しみたければいくらでも悲しめばいいし、叫びたければいくらでも叫べばいいけれど。
それは、なんの意味もない。
あの男は、死んだのだ。
だけど、まあ、その悲痛な叫びに免じて、僕の名前くらいは教えてあげよう。その男を殺したのが誰なのか、あの哀れな女性に教えてあげよう。
「柳瀬優だ」
彼女に聞こえるよう、僕は、はっきりと名乗りを上げる。すると彼女の顔は、男と同じく驚愕に固まる。
これで満足だろう。
僕は、彼らに背を向ける。
どうしようもなく哀れで、どうしようもなく愚かな彼らに背を向ける。
終わる命に、僕は興味はない。後ろ髪引かれる思いも、思い残すこともない。
仕事終わりは、実に気分が良いものだ。
「ご当主様!しっかりしてください!ご当主様!」
「柳瀬優だ」という名乗りに、驚きを隠せなかった端場和香だったが、すぐに自分の主人に視線を落とす。
落ち着け。落ち着け。
まだ、大丈夫だ。まだ、間に合うはずだ。
和香は自身のエプロンを外し、主人の傷に押し当てる。エプロンは大量の血によって、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
駄目だ。出血量が多すぎる。
「ね、姉さん?な、何が・・・一体、何があったんです?」
「舟斗・・・」
おそるおそる近づいてくる弟に、和香は声を掛ける。
冷静に・・・冷静にならなければ。
私が狼狽えていてはいけない。弟たちや、これから集まってくるであろう他の従者たちを、動揺させてしまう。
「そ、そんな!ご当主様!」
「舟斗、落ち着きなさい」
弟を宥めながら、和香自身もまた、大きく深呼吸をする。
「医務室に、非常事態用の救急キットがあったでしょう?それを、ここへ持ってきなさい。・・・それから、草羽さんに連絡を」
「でも、こんなに深い傷じゃ・・・」
「早く!行きなさい!今すぐ!」
「は、はい!」
主人の方に、もう一度視線を戻す。頭、首筋、心臓、右手のそれぞれから、血が止めどなく流れる。
分かっている。
理解している。
和香は、基本的に冷静沈着な性格である。たとえ気持ちが焦っていたとしても、頭の中は静まり返っている。思考停止状態に陥ったりはしない。
だから、分かるのだ。
主人がもう助からないことを、とっくに理解しているのだ。
大丈夫なんかじゃない。
間に合うはずが、ない。
これだけの出血と傷で、彼が助かるはずがないのだ。
「ご当主様・・・」
傷口を押さえる彼女の手から、段々と力が抜ける。
諦めと絶望が、彼女の心の中を支配する。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
どうして、こんなことが起きてしまったのだろう?
どうして・・・。
主人は、こんな目に遭わなければならない人間ではない。娘を失い、家族を失い、今度は命までもを失わなければならないのか?
そこまで・・・・そこまで主人は、不幸にならないといけないのか?
何も報われず。
何一つ、願いは叶わず。
主人は死んでいく。
「和香さん・・・?」
息を荒げながら全力疾走で駆けてきたであろう草羽に声を掛けられたところで、和香は顔を上げなかった。主人に視線を落したまま、静かに涙を落としていた。
草羽はすばやく駆け寄り、和香と同じように主人に目線を移す。
彼はすぐに理解した。
自分の守るべき主人が死に絶えていることを、すぐに理解した。
理解はできた、だが・・・。
「何が・・・・」
怒り。悲しみ。痛み。
様々な感情を抑え込みながら、彼は口を開いた。
理解できるからといって、頭の中で整理できるからといって。
それを受け入れられるかどうかは、別の話だ。
「何が・・・あったんです?和香さん」
だから、草羽は聞いてしまった。聞かなくてもいいことを、聞かなくても分かりきっていることを、聞いてしまった。
和香が、答えられるはずもない質問を。
やはり、彼女は答えない。激しく頭を横に振るだけだ。
すぐに彼は、和香からまともな返答を得られるはずもないと、悟った。主人の死体を目の前にして、それほどまでに普通の対応ができるほど、彼女のハートは強くないのだ。冷静さと心臓の強さは、これもまた、別の話である。
草羽と和香は、呆然と主人を見つめる。
次々と集まってくる従者たちに説明をすることもできずに、彼らはその場に座りこんだ。
いつだって、優しく声を掛けてくれた主人。
どんなときでも、自分たちのことを気遣ってくれた主人。
娘のために、全てを投げ出すことを惜しまなかった。それでも、その優しさのために何度も何度も迷い、悩み、最後にはきちんと娘を送り出した主人。
そして、彼の側に寄り添い、この館で過ごしてきた思い出。
すべてが終わった。
それらが全部、ここに終結した。
彼らの思い出がこれ以上紡がれることはなく、彼らが主人のために働くことも、もうない。
『シンデレラ教会』という一つの家族は、ここに、終わりを迎えた。
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