あなたに帰りたい

美瞳 まゆみ

第7話  偽りの接吻



街中の横断歩道ですれ違ってから十日後、朱音は田島からの連絡をもらって、R製薬を訪れた。
それは実に一カ月振り、田島の案内で割烹へ連れて行って貰った時以来の訪問だった。
本当に久しぶりに仕事での電話を貰った時は、朱音の緊張度も高まり受話器を持つ手が小さく震えてしまい、その情けなさに笑い出したくなるほどだった。
だが一方の田島は、いつも通りの完璧な礼儀正しさで、淡々と要件を話しただけであっさりと電話は切られた。

朱音は地下鉄に揺られながら、胃の底から揺さぶられるような、なんとも不快な気分と闘っていた。田島からの電話を受けたのが昨日で、情けないことに殆ど熟睡出来ずに朝を迎えた。
あの、アパートの前で抱きしめられ、あわや唇を奪われそうになった時の彼の表情を思い出し、あの、横断歩道の向こうから軽蔑するかのように睨まれた彼の目差しが、頭から離れない。
いつまで、こんな状態が続くのだろう?と思わずにはいられない。
予定通りに事が運べば、おそらくは今日を含めてあと2回位で全ての打ち合わせは終わるだろう。
そうなれば、十月の旅行当日までは顔を合わせることも無い。
そして、そのわずか二日間の旅行が終われば、田島との関わりは全て終了するのだ。
そこまで考えた時に、朱音は予想外の胸の痛みに息を詰めた。
瞼の奥の方がカーッと熱くなり、涙が滲む前にあわてて瞬きで抑え込んだ。
今からこんなことでどうするの!?と心の中できつく戒める。
いずれは、別れの時が来る。望もうと望むまいと、必ず来るのだ。そう、必ず。
だから朱音は新たに心に決めた。
彼と共有出来る時間が残り少ないのならば、これまでのように必要以上のビジネスライクな態度はやめようと。
もう少しだけ自然体で明るく、そう、出来ることなら優が好きだった頃のような自分で、最後の時間を過ごしたいと、今朝ベッドの中で思ったのだ。
自分のこれまでの嘘をつき通すにしても、笑顔で。そして全ての最後は、楽しく笑顔で終わりたい。

いつものように受付を通ると、美夜が控えめな笑みで迎えてくれた。
「K.Kトラベルの神田です。総務課の田島さんとお約束しているのですが」
「はい、伺っております。本日は会議室ではなく応接室の方へ御案内するようにと申し付かっておりますので、御案内させて頂きます」
美夜はそう言うと、受付ブースから出て朱音の前に立って丁寧にお辞儀をした。
彼女の案内に着いて、エレベーターに乗り込むと、美夜はちょっとだけ堅苦しい表情を崩した。
「先日は、とても驚きました。偶然にお会いしたこともですけど……御一緒だった方は神田さんのお付き合いされている方なのですか?」
こんなところで、突然聞かれるとも思っていなかった朱音は、どう答えようかを迷ったが、
「そうですね……とても大切な方です」
マスターの優しい顔を思い出しながら、そっと微笑んだ。
だが、意外だったのは美夜の反応だった。
「そうですか……私は神田さんにはそういう特別な方が、いらっしゃらないと思っていました……」
聞き様によっては、随分と失礼な一言だったが、美夜の沈んだ表情がそれを打ち消した。
「……内山さん?どうかされましたか?」
エレベーターを降りてひと気のない廊下に出た時、朱音は気になって尋ねた。
なんだか美夜の横顔が、今にも泣き出しそうに見えたのだ。
だが、次に振り返った彼女は、いつもの清楚な受付嬢に戻って微笑んでいた。
見間違いだったのだろうか?朱音は、違和感を拭えないまま歩いた。
長い廊下の中ほどに並んだ応接室の5番のドアを美夜がノックすると、田島はすでに待っていたらしく、立ち上がって朱音を迎えてくれた。

「失礼します、神田様をお連れしました」
美夜がそう言って丁寧にお辞儀をして朱音を中へ通した。
「ありがとう、御苦労さまでした。神田さん、こちらへどうぞ」
やはり、何ともいえない違和感を感じながら、朱音はにこやかに挨拶をした。
「こんにちは……すみません、お待たせしてしまいました」
朱音がそう言って中へ進んだ時、ふとドア口で美夜が声をかけた。
「神田さん、今回の旅行を社員一同本当に楽しみにしていますから……よろしくお願いしますね?」
「あ、はい……最善を尽くします」
突然の美夜の言葉に戸惑いながらも、朱音はニッコリと微笑んで見せた。
美夜は小さく頷くと、再び丁寧にお辞儀をして、一度も田島を見ることなくドアを閉めた。
勿論、社内恋愛である以上大っぴらにはできないだろうから、仕事中には一切持ち込まない、というのも当たり前のことではあったが……朱音は美夜が閉めたドアをぼんやり見つめながら、やはりどこかに不自然さを感じていた。
「神田さん、そろそろ始めてもよろしいですか?」
田島の声に、朱音は慌ててドアから視線を戻して彼を見た。
「ごめんなさい、いつでも結構です。何から始めますか?」
朱音が横に置いた書類カバンから手際よくファイルの束を出して控えめに微笑んだが、田島の方はニコリともせずに小さく頷き、要件を話し始めた。

まず、観光バス三台分の座席を決めた。
前もってアンケート調査をした資料を元に、大体の振り分けは朱音が済ませておいたので、その表を渡した。車酔いの心配のある人から前列に決め、二階の景色のいい所は役員クラス、もう二台の二階は家族同伴者を優先的に配列した。
次に、当日の料理のサンプル写真を引き伸ばしたものを並べて確認を取る。
これは田島と協議した上で決めた三種類のメニューを旅館側に試作して写真を送ってもらった。

「神田さん、例のお楽しみ抽選会用の景品の見積もりはどうなっていますか?」
最初からの淡々とした口調で、やはりニコリともせずに田島が聞いた。
朱音は朝から決心してきたことを胸に、穏やかな微笑みと共に資料を手渡す。
「田島さんから依頼されていた商品類は、一般で購入するよりも当社の取引先の専門業者から取り寄せた方が断然お安いので、そうなされてはいかがでしょうか?価格表はこちらになります」
「それも、特典の内の一つですか?」
価格表を見ながら、田島が皮肉っぽくこの日初めての笑みを浮かべた。
「そんな大袈裟なことではありませんが、ご紹介する業者は一般とは取引の無い所です。ですが今回は川上の方からも許可を貰っておりますし、もちろん業者の了解も取り付けていますから遠慮なさらずに御注文下さい」
「有り難い!予算に優しい、実に思いやりのある提案ですね」
その言葉とは裏腹な表情の田島は、溜息をつき書類をテーブルに置くとソファーにどっかりともたれ目を閉じながら、目頭を指で押さえた。
よく見れば彼の顔は疲労の色も濃く、心なしかやつれて見えた。
「随分と、お疲れの御様子ですね、大丈夫ですか?」
朱音は再会してから初めて見る彼の辛そうな姿に、眉をひそめた。
「もしよろしければ、商品リストを頂いて私の方で手配させてもらいますが、どうでしょう?包装や梱包の紙も一任して頂けるなら、後は配るだけの状態でこちらへお届けするようにしますが」
田島は朱音の心配そうな声に目を開いて、首を傾げた。
「今日は、随分と優しいんですね?どんな心境の変化ですか?後ろめたさ、ですか?」
「田島さんに対して後ろめたい事なんて一つもありません。それよりも……本当に顔色お悪いですよ?」
田島の皮肉をさらりとかわし、朱音は少しだけ身体を乗り出した。
「もしよろしければ、今日のところはここで置きましょうか?旅行日まではまだ二カ月ありますから、何も今日中でなくてもいいですし……」
それは形ばかりの言葉ではなく、心底心配しての言葉だったが、
「そうですね、そうすればあなたに会える回数が増えますね」
田島は、相変わらずの冷笑を浮かべたまま皮肉った。
朱音は敢えてその言葉には取りあわず、黙って目の前の書類をまとめてファイルに戻し始めた。
せっかく笑顔で楽しくをモットーに覚悟して来たのに、出鼻を挫かれた感が否めない。
だが、彼が疲れているのは見るからに事実だし、ここは黙って退散する方がよさそうだと決めた。
田島に渡した資料もひとまとめにして彼の前に置こうと差し出した時、突然強い力で手首を掴まれ、朱音は息をのむ。
「もう少し、ここに居てくれませんか?」
「も、もちろん、それは構わないですけど……」
手首を掴まれたことにも驚いたが、田島の表情が切羽詰まっていたことに眉をひそめた。
「田島さん?何か……あったのですか?」
朱音の問いかけに、田島は掴んでいた手を離し、苦笑いと共に小さく首を振った。
「……いえ、すみません。どうかしていました、どうぞお帰り下さい」
朱音はまじまじと田島を見つめた。
やはり、いつもの彼とは少し様子が違う。
「あの、差し出がましいとは思いますが……私で何かお力になれることなどありますか?」
じっくりと考えるより先に口が出てしまった。

「あなたが僕を助けてくれるのですか?」
田島は意外そうな顔で朱音を見つめた。
「いえ、助けるなんてそんな大したこと私には出来ませんが……」
迷ったように言葉を探す朱音の様子に、田島の表情は今日初めて緩んだ。
「すみません、気を遣わせてしまいましたね。ここ暫くトラブルが立て続けだったものですから、ちょっと苛々してしまって、切り替えてるつもりなんですが……申し訳ありません」
「トラブル続き……ですか、それは辛いですね」
「まぁ、仕事だけでもなくて、今の僕自身がトラブルメーカーみたいなものです」
少々投げやりにも聞こえるその言葉に、朱音は眉をひそめた。
「なんだか、いつもの田島さんらしくないセリフですね?」
「僕らしいって、何ですか?神田さんから見た僕らしさって何ですか?」
食い入るように自分を見つめる田島に対して、朱音は慎重に言葉を選びながら、答える。
「そうですね……一緒に仕事をさせて頂いた上での感想ですが、とても合理的で無駄のない仕事運びをされる方だと思っています。的確な判断にも長けていらっしゃるので、さっき言われたようなトラブルメーカーだとは到底思えません」
「そこまで褒めちぎられると、かえって信憑性が無いですよ!」
田島は呆れたように笑うと、再びソファーにもたれかかった。
「僕は、……昔とは変わりましたか?」
それは、突然なんの前触れもなく聞かれた。
動揺を隠し、朱音は笑顔で無難な答えを探しだした。
「そうですね……お互いに、四年分の変化はあるでしょうね?もう学生でもないですし」
「少しは大人になれましたかね?社会に出て揉まれた分、あの頃よりも頼りがいはありますか?」
彼は今、私に何を言って欲しいのだろう?励まし?慰め?
朱音は勝手に、彼が自信を失くしているのだろうかと思い込んだ。
「もちろん、そう思います。ここへ初めて伺った時も、本当に別人かと思ったほどですから。仕事をご一緒して、尚更実感しました」
「そうですか……」
田島はそこで一旦言葉を切り、あらためて朱音を真っすぐとらえた。
「それでも僕は、あなたを我が物顔で連れて歩いていた、あの男性にはかないませんか?」
朱音はそこで初めて、それまでの彼の質問の意図を悟った。
そういうことだったのかと、朱音は目を伏せた。やはりあの時のことは素通りは出来ないのだと。
「……ごめんなさい、その質問には答えられません。田島さんは田島さんで、彼は彼ですから。私の中で比べる対象ではありません」
「あなたが、それほどの年上好みだとは知りませんでした。彼は、あなたの恋人ですか?」
一番聞かれたくなくて、だが一番聞かれるであろうと予想してきた質問に、朱音は美夜に言った答えと同じ言葉を口にした。
「彼は、……とても大切な人です」
そう言った時、なぜかその場を沈黙が支配した。
田島の顔に一瞬だけ何かが過ぎったが、次の瞬間には彼はニッコリ笑っていた。
「それは、良かった。では、あのワインは残念ですが、一人で飲むとします」
その彼の笑顔は、全くの予想外だった。
だが、じゃぁ、自分はいったい彼のどんな反応を期待していたというのか?
朱音は内心、自分の愚かさを自嘲しながらも、負けじと笑顔を浮かべた。
「では、……今日のところはこれで失礼しますね。座席も大体決まりましたし、あとは二日目の観光の振り分けについてと、二次会の形式を決めて頂ければ、ほぼ打ち合わせは終了となります」
朱音はファイルをカバンに収めると、ゆっくりと立ち上がった。
今こそ、今朝の決心の見せどころだ。
「ほぼ全容が決まってきて、本当に良い形で充実してきたように思い、私としても、大変嬉しいです。田島さん、無理をなさらないように気をつけて下さいね?最終の打ち合わせも急ぎませんので、田島さんのご都合の良い時にご連絡下さい、お待ちしています」
取ってつけたような態度ではなく、自然に微笑みながら朱音はお辞儀をした。
「神田さん、今日はすみませんでした。次回はこういうことにはなりませんので」
田島も立ち上がると、部屋のドア口まで笑顔で朱音を送ってくれた。
そして……朱音がエレベーター前まで来たときに、後方でドンッという物音が聞こえてはきたが、それが田島の苦し紛れに壁を叩きつけた音だとは、よもや朱音が気付くはずも無かった。

それから二週間後……盆休みを直前にして
朱音が田島の声を聞きたがる自分の気持ちの弱さに、ようやく打ち勝とうとしていた頃、当の田島からの連絡が入った。

「大変遅くなりましたが、ようやくご連絡出来ました。お待たせしてすみません」
いつもと変わらない礼儀正しい言葉に、朱音は涙ぐみそうになってしまった。
「いいえ、お忙しいのは十二分に承知していますから、そんなに気を遣わないで下さい」
「ようやくトラブルにも目途がつきそうなので、僕にとっての本業の旅行に取りかかれそうです」
少しだけホッとしたような彼の笑みが朱音の脳裏に浮かび、密かに胸を撫で下ろす。
あの時の、彼の疲れた辛そうな顔が頭を離れず、かといって、「その後大丈夫ですか?」などと尋ねるわけにもいかず、ずっと気を揉んでいた朱音だった。
「よかったですね、あの時の田島さんは本当にお疲れでしたから、心配していました」
朱音の言葉には思わずその心情が入ったが……
「ありがとうございます、お世辞でも神田さんにそう言って貰えて嬉しいですよ」
そう言った田島の言葉は、なぜか単調で何の感情も感じられなかった。
「実は、一つ提案がありまして、二日目の観光についてなのですが……」
田島の提案とは、こうだった。
二日目の観光に関しては、朱音のK.Kトラベルから二人、R製薬から田島を含め二人、で各コースを分担したいとの事だった。
朱音の提供した観光コースは三つで、家族連れや若い社員向けのスペイン村半日コース、賢島の遊覧と鳥羽水族館鑑賞コース、伊勢神宮と二見ヶ浦の半日観光コース、だった。
その内、広さなどの問題からスペイン村に二名、あとのコースに一名づつリーダーとなって付く事で大きなトラブルを避けれるのでは、といったものだった。
今回の旅行での添乗員は朱音とサブの二名だったので、田島側から最低一名のリーダーを立てて貰うよう依頼するつもりでいた朱音は、二つ返事で了承した。
「二次会についてのこちらからの希望は人数を含めてすでにまとめてありますので、ファックスで流します。不明な点は即座に連絡を下さい。それから、今回のサブとして添乗される方はすでに決まっていますか?」
何かに追われてでもいるかのような、田島の矢継ぎ早な話の進め方に、朱音は少々面食らった。
まるでやっつけ仕事でもしているかのような印象を受ける。
「もちろん、サブ要因はもう決まっています。花田という者がお世話させて頂く予定です。そちらの方のリーダーは決まっていらっしゃいますか?お名前だけでもお伺いしたいのですが」
「こちらは総務の片岡という者が引き受けてくれました」
「片岡さん……ですね?了解しました。当日、あらためてご挨拶させて頂きますと、お伝え願いますか?」
「そこでもう一つ提案なんですが、最終確認と顔合わせも兼ねて一度四人でお会いするというのはどうでしょうか?」
今度の提案は全くの予想外で、朱音は即答できなかった。
「それは、うちの方からサブの花田と共にR製薬さんをお伺いすればいいのでしょうか?」
「いえ、もう少しフランクにお会いするというのはどうですか?四人で食事会とかでは?」
四人でプライベートで顔合わせをする……やはり朱音は躊躇した。
「今すぐのお返事でなくていいですか?花田の都合もありますし、聞いてみませんと……」
「もちろん、構いません。神田さんも含めてご都合のいい日が決まれば連絡を下さい。こちらの方はどうにでもなりますから」
「わかりました、花田は現在出張中ですので、戻り次第確認してご連絡させて頂きます」
「では、お願いします」
その言葉を最後に、すぐさま電話は切れた。

あまりに事務的で、簡潔で、そして何の感情も感じさせずに切れた電話。
彼と再会を果たしてからというもの、これ程までに他人行儀で事務的な対応は……そう、一番最初の説明会の時以来だ。あの時は、まるで朱音のことなど気付きもしていないような見知らぬ人間を見るような目差しだった。
これで良かったのではないか?これが自分の望んでいたことではないか?
彼への想いは永遠に封じ込めて、距離を置いて接する……そして、もう二度と誰も傷つけない、誰も哀しませない、そう誓ったのだから。

旅行会社に、盆休みというのは存在しない。
七月から八月にかけては最も書き入れ時で、猫の手も借りたいほどの忙しさに見舞われる。
朱音とて例外ではなく、R製薬との打ち合わせがほぼキリが付いたのをきっかけに、毎週のようにサブでの添乗を余儀なくさせられた。
この企画を立ち上げた時から、朱音はサブの添乗は薫子に頼むつもりでいた。
だがその薫子も、次から次へと引っ切り無しに追われていたために、なかなか会えなかった。
そんなこんなで田島への連絡はかなり後回しになってしまったが……もっとも薫子の返事ならば、聞かずともわかっている。こういう席を外したことが無いし、ましてや相手がR製薬の面々となれば、二つ返事でオーケーだろう。

結局、朱音が田島に連絡出来たのは九月に入ってからだった。
「本当に遅くなってしまいました、申し訳ありません」
朱音が受話口で頭を下げながらそう言うと、田島は丁寧に返答した。
「この時期が、神田さんたち旅行会社さんにとって多忙を極めるのは承知していますから、想定内ですよ。そんなことよりも、ご都合は付きそうですか?もし無理なようでしたら致し方ありませんが」
久々に聞く田島の声は、前にも増して淡々とした事務口調だった。
朱音は、がっかりしそうな気持ちを叱りつけながら、逆に愛想よく答えた。
「はい、なんとか落ち着きましたから大丈夫です。花田にも確認は取ってありますし、彼女も楽しみにしていますと申しておりました」
「そうですか、それは光栄です。ではさっそく日にちと場所ですが……」
朱音たちの予定を優先してくれた上に、場所もあらかじめ見当を付けてくれていたらしい。
そしてまた、……田島の電話はあっさりと、切れた。

田島があらかじめ予約をしておいてくれたその店は、市内でも珍しい地中海料理の店だった。
薫子と二人連れだって約束の時間通りに着くと、店前に田島と片岡の二人が待っていてくれた。

「田島さん、こんばんは。今夜はお招き有難うございます」
朱音が近づきながらそう声をかけると、田島は礼儀正しく微笑んでくれた。
横の田島と差ほど変わらない年恰好の男も、にこやかに笑う。
「どうも、初めまして片岡といいます」
「初めまして、K.Kトラベルの神田と申します。こちらが花田です」
「こんばんは、花田薫子です」
薫子はとっておきの笑顔で、二人の男達に挨拶をする。
「こんなところで自己紹介もなんですから、中へ入りませんか?」
田島が、そう仕切って店内へ皆を案内してくれた。
店の中は、壁一面が漆喰の白一色で造られていて、所々に掘ってある窪みには淡いブルーのランプが備え付けられている。床は綺麗なほんのり赤みがかった石が石畳のように並べられていて、なるほど、エーゲ海に面したギリシャなどの街や雰囲気をかもし出していた。
四人は奥まったテーブルに案内され、あらためて名刺交換などの挨拶を終えると二人ずつ向かい合って席に着いた。朱音の前には片岡が座り、薫子の前は田島だった。
「今夜は、顔合わせと観光の最終確認の為でもありますが、親睦をはかるという意味でも堅苦しいのは無しでいきたいと思っていますが、どうですか?」
飲み物を注文した後に田島がそう口を切ると、薫子が真っ先に手を上げた。
「賛成!堅苦しいのは苦手だけど、親睦をはかるのは得意よ」
彼女らしいセリフに苦笑いしながらも、朱音がコクリと頷くと、田島も片岡も満足そうに笑った。
田島の簡潔なギリシャ料理の説明にメニューを開きながら耳を傾ける。
実にひと月振りに会う彼は、やはり顔に精が無く、むしろ前回よりも疲れて見えた。
トラブル続きからはようやく解放された、と言っていた筈だが……そうではないのだろうか?
朱音は、まつ毛の影から田島をそっと見つめながら、僅かに眉をひそめた。

薫子の陽気な社交性と、話し上手のお陰で、その場は大いに盛り上がった。
片岡という男もなかなかの陽気な性格で、目の前の朱音を冗談でよく笑わせた。
田島と二人きりならばこうは楽しめなかっただろうが、四人でいることがむしろ朱音をリラックスさせ肩から無駄な力を抜けさせた。

「でも、ずるいわよね?朱音は田島さんみたいに素敵な男性と四か月も一緒に仕事してきたわけでしょ?一度くらい紹介してくれてもよさそうなものだわ」
薫子が大袈裟に朱音を睨んで見せた。どうやら田島が気に入ったらしい。
「それを言うなら、田島だってそうですよ。まさか今回の担当者が神田さんみたいな美しい人だなんて一言も言わなかったんですからね」
片岡が薫子に合わせて同じように田島を睨んだ。
「最初から言ったでしょう?合コンとかはしないって。忘れたの?」
朱音は片岡の言葉に赤くなりながらも、そう言って薫子を睨みかえした。
「もちろん、覚えてるわよ!でも独り占めなんてやっぱりずるいわ」
どこまで本気なのかわからない薫子の態度に、朱音は肩をすくめた。
「花田さん、残念ながら神田さんは見事なくらいにビジネスライクでしたから、特に楽しいこともありませんでしたよ。あなたが担当者ならまた違っていたかもしれないですがね」
田島の思わせぶりなセリフに薫子は顔を輝かせ、得意げに言った。
「そうでしょう?彼女は我が社きっての優等生社員ですからね!優秀だけど、面白く無いのが唯一の欠点だと思うの。添乗員としては、そこが課題よってアドバイスはしているんだけど……」
そんなアドバイスなんていつしてくれたのよ!?と思いながらも、田島の言い草も言い草だと、朱音はムッとした。
すると、片岡がフォローしてくれる。
「いやぁ、僕は神田さんのように控えめな女性が理想だけどなぁ!何よりも一緒にいて落ち着く人が一番だし」
「お前の理想像なんて、聞いてないだろ?今は」
朱音が感謝を込めて微笑もうと片岡の方へ顔を上げると、田島が先にそう切り捨てた。
肩をすくめた片岡に、朱音はあらためて微笑んだ。
「片岡さん、お世辞でも嬉しいです。片岡さんのように気を遣って頂ける優しい方が最近少なくって……ありがとうございます」
「いっその事、片岡が担当責任者だったら良かったですか?」
田島が意地悪そうに口を挟む。朱音は、ここぞとばかりに澄ました顔で頷いて見せた。
「本当に……そうかもしれませんね。もちろん、田島さんに不満があるわけでは無いですけど」
「朱音、言うわね!珍しく強気な発言じゃない?酔ったの?」
薫子が意外そうな顔で笑った。
「いいえ、全く酔ってないわ。ただ、あなたのアドバイス通りにたまには面白いことも言わないといけないと思って!」
朱音のその一言はなぜか皆の笑いを誘い、クスクスと笑われる中、ポカンとしているのは朱音だけだった。

その後も、田島と薫子、片岡と朱音、の組み合わせで盛り上がり、時間は過ぎていった。
食事もお酒もひと段落したころ、朱音は化粧室に立ち席を外した。
田島が勧めてくれたマルタ島の珍しいワインは、口当たりも良いがなかなかアルコール度数も高いらしく、朱音は化粧室の鏡に映った顔が結構赤らんでいることに溜息をついた。
もうほどほどにしなくてはいけない……こんな席で酔っぱらうことは出来ないし。
だが、薫子はいつも通りだとしても、田島の今夜の飲み方が気になった。
なんとなくずっと不機嫌なような気がした。
薫子と冗談を言いながら笑っていても、なぜか楽しそうでは無い気がしていた。
彼とお酒を飲んだことは一、二度しかないが、こんなペースで飲むことはなかったと思う。
やはり、仕事がうまくいって無いのだろうか?どんな心配事に悩まされているのだろうか?
朱音は拭えない心配に眉をひそめながら、軽く化粧直しをして外へ出た。
化粧室のドアを開けると、すぐそばの壁にもたれる様にして田島が立っていた。
たった今まで考えていた張本人を突然目の前にして、朱音は思わず息を呑んだ。
両手をズボンのポケットに突っ込み、壁にもたれながら首を傾けて朱音を見ている彼の顔には、僅かに笑みが浮かんでいる。

「田島さん……どうしましたか?男性用のトイレはあちらですけど?」
朱音は、さり気なさを心掛けてそう聞いた。
「あなたを待っていたと言ったら、……信じてくれますか?すぐ目の前に居るというのに、一向に僕を見てはくれないから……と言ったら?」
この人はどうしてこういうことを平気で言うのだろう?その度に私の心臓は止まりそうなほど跳ね上がることを知らないのだろうか?
朱音は苛立たしげに田島を睨んだ。
「酔っていらっしゃるんですか?今日の田島さん、変ですよ?」
「今日の僕が、変?」
田島はそう呟くように言うなり、出し抜けに朱音の腕を掴み壁に身体を押し付けて、上から囲むように捕えた。
「今日の僕が変なら、いつの僕は普通なんですか?あなたはそんなに僕のことを知っているんですか?僕はもう昔の“優”ではないのですよ?」
とっさの出来ごとに、朱音は声を失った。彼に身体ごと壁に押さえつけられて身動きが取れない。
「片岡は、あなたの気に入ったみたいですね?彼の前では本当に楽しそうだ」
「な、何言ってるんですか!?」
ようやく声が出た。というより今までにない田島の態度に、朱音は驚きを隠せなかった。
田島は、例の冷ややかな笑みを浮かべて朱音の顔を見つめる。
「この前あなたを抱いていた……そう、あなたが言っていた大切な彼と、どっちがあなたの好みなのですか?年上の彼?それとも片岡?僕以外ならどちらでも有り、ですか?」
「……そんなっ!!」
朱音は絶句した。よもやそんなことを彼に言われるなど想像したことも無かった。
「……どうしてなんだ!?」
突然、絞り出すように、呻くように言った田島の辛そうな声に、朱音はビクッと目を見開いた。
ショックと、混乱とを顔いっぱいに浮かべて自分を見つめる朱音の頬に、田島はそっと手を当てて、
「どうして、……あなたはいつの時も……僕のものにはならないんだろう……」
そう苦しげに言うなり、そのまま朱音の唇を奪った。
身体ごと壁に覆いかぶさられて、いきなり唇を塞がれて、朱音は茫然となった。

だが、同時に人間の感覚、五感というものがどれだけ優れているのかを朱音は思い知らされた。
かつて遠い昔、恋人同士だった彼の唇を、朱音の感覚ははっきりと覚えていた。
あれほど傷つけて、あれほど恋しがった、彼の腕を、キスを、忘れてはいなかったのだ。
朱音の閉じた瞳から、涙が溢れた。
その両腕は、彼のとっさの行為に抵抗するどころか、空中を彷徨い田島の背中にたどり着き彼を抱きしめていた。それはほとんど無意識の行動だった。
はじめは力任せに押し付けられた彼の唇が、次第に優しくなり、かつての優がそうしたように朱音の唇をそっとこじ開け、そして何かを貪る様な激しさに変わった時……朱音は完全に彼の腕の中に堕ちた。
この四年半、まるで無視するかのように目を塞いできた彼への想い、未練、後悔。
思い出にすることも、歩き出すことも出来ないままだった朱音の恋心は、突然の再会で息を吹き返してしまった。
どんなに抑えようとしても、どんなに嘘を重ねても、止めようがなかった想い。
今、この瞬間、美夜のことも、理性も、全てが吹っ飛んでしまった。
朱音は、しがみつく様にして彼の接吻に応えた。

はじまりも突然なら、終わりも突然だった。
田島に、力尽くで引きはがされるように壁に押し戻されて、朱音は自由の身となった。
理性も我も失っていた朱音は、金縛りにでもかかったかのように身動き一つ出来ずに立ち尽くした。
唇だけが、脈を打つようにズキズキと疼き……その瞳は大きく見開かれた。

「あなたって人は……男なら誰でも、いいんですね?」
田島の第一声は、つい今しがたの接吻とはほど遠いほどの冷たく残酷なものだった。
「ついひと月前には、例の年上の彼を大切な人だと言い……今日は今日で、片岡に媚びるように微笑みかけ、ところが僕のキスには……まるで昔のように応える」
朱音はその蔑むような冷たい言葉に、顔色を失くして立ち尽くした。
田島は、ゆっくりとした動作で自分の口元を手の甲で拭い去った。
「……あの頃もそうだった。僕をあっさりと捨てた後のあなたは、誰彼無しに付き合っていた。そんなこと知りたくもないのに、皆がこぞって教えてくれてね、そのくらいあなたは目立っていた。僕がどんな気持ちでそんなあなたを見ていたかなんて、知らないでしょうけど」
そう言った田島の瞳には狂暴な光が宿っていた。
「魔性の女……あの頃あなたをそう呼ぶ人間が結構いたのを知っていますか?僕のようにあなたに捨てられた男どもは、皆そう呼んでたんじゃないかな?あぁ!淫乱……そう呼んでる奴もいたかな?」
田島の容赦ない言葉の数々は、無数のナイフとなって朱音の全身を突き刺した。
もし、言葉という凶器で人を殺せるのなら、私はこの場に倒れ死ぬのだろうな、と朱音は頭の隅でぼんやりとそう思った。
この場で、今この時に、彼にあの時のことを責められるとは思いもしなかったが、それでも言い訳も反論もする気はさらさらなかった。すべては、真実なのだから。

彼のまるで汚れたものでも見る様な目差しや、苦痛に歪んだ表情は……彼がこの四年間閉じ込めてきた彼だけの想いなのかもしれない。
もし今、こうして自分を責め立て傷つけることで、むしろ彼がそれらの想いから解き放たれるのなら、私は喜んで責めを負うだろう。
ショックを受けて真っ青になっていたはずの朱音の表情が、徐々に何かを悟ったかのような表情に変わりつつある様子に、田島は苛立った。

「今更何も言うことは無いってことですか?それは僕が言ったことを全部認めるってことですか?」
朱音は、はじめてその言葉に反応して小さくコクンと頷いた。
だが、田島は天を仰ぐような大袈裟な仕草で馬鹿にしたように笑い飛ばす。
「今頃認められてもね!そんなことよりも、あの年上の彼を今夜裏切ったことを悔いたらどうです?あ、それとも年上特権の包容力ってやつですか?少々の火遊びはオッケーなのかな。いや、実は不倫、なんてことも考えられますね、あの歳なら。最低だな!」
締めつけられるようなキリキリとした胃の痛みに襲われ、朱音は奥歯を食いしばった。
自分を唯一理解してくれているマスターのことを悪く言われるのだけは、どうしても嫌だった。ましてや、あの小芝居は無理矢理頼み込んでのことだったから尚更だ。
「……彼は、最低ではありません!最低なのは……私ですから」
震える声に鞭打って、朱音はそう振り絞った。
そんな朱音の苦しげな様子に田島の顔は一瞬暗く陰ったようにも見えたが、次の瞬間には肩をすくめて鼻で笑った。
「あなたが最低なのは、知っていますよ。彼がどうかは全く興味ありませんがね!」
「そうです、……田島さんには全く関係ないことです」

「朱音?どうしたの?」
一向に帰ってこない朱音を心配して、薫子が様子を見に来た。
さして広くない通路の壁を背に、こわばった顔で田島と睨むように向き合う朱音の姿に、さすがの薫子もただ事で無い空気を読み取り、眉をひそめた。
「……何か、トラブル?」
朱音は慌てて取り繕うように笑顔を作ったが、田島の方が反応は早かった。
「いや、今日の僕は飲み過ぎだと、怒られていたところです。ちょっと酔っぱらってトイレを間違ってしまってね、神田さんでなければ、悲鳴を上げられてるところでした!」
薫子は、もう一度二人の顔を交互に見比べて、意味有り気に肩をすくめて微笑んだ。
「……そう、ならいいけど。片岡さんも心配してましたよ?」
薫子に促されて席に戻りながら、朱音は心の底から胸を撫で下ろして内心彼女に感謝した。

だが、どうしても無口になりがちな朱音と、目に見えて増えていく田島の酒の量に、その後の会話が再び盛り上がることはなく、薫子の上手な機転で会はお開きになった。
なんとか笑顔を保ちつつ、片岡に今夜のお礼と旅行当日のお願いをして、田島には機械的な社交辞令をやっとの思いで告げた。
店の前で四人は別れ、朱音は薫子と地下鉄の駅に向かった。

「どうする?もう少し飲んで帰る?付き合うわよ?」
完全に二人きりになると、薫子が振り向いたが、朱音は力無く首を振った。
「ごめん……、今日は帰るわ」
薫子はちょっと間朱音の顔をじっと見つめると、フンッと鼻で笑った。
「余計な口出しはしないわ。なんだか、ややこしそうだしね。だから何も聞かない」
突っけんどんだが、彼女なりの思いやりある言葉に、朱音は済まなさそうに微笑んだ。
「でも……今回の仕事のパートナーとして、一言だけいい?」
「もちろん、何でも言って?」
薫子は、片手で長い髪をかき上げて、もう片手は腰に当てた。
「仕事では、最後まで優等生を貫きなさいね?その方があたしも断然やり易いし!」
「うん、了解。任せて、迷惑は掛けないから」
「まだあるわ、いい?仕事は優等生けっこう、でも、私生活での優等生はいい加減卒業しなさいね!誰も無傷でなんか生きられないんだから、恰好悪くていいのよ」
ちょっと偉そうにそう言った薫子を苦笑交じりに見つめながら、朱音はいつの間にか彼女のことを好きになっている自分に気が付いた。
考え方が違いすぎると、近寄りもしなかったのに……今はこうして彼女流の言葉で慰められている。
恰好悪くていい……か。朱音はその通りだと皮肉っぽく笑った。

帰りの地下鉄の中、ようやく一人になれた朱音は田島の感触を残したままの口唇をそっと指でなぞってみる。
あのまますべてを委ねてしまいたかった。それがあの時の唯一の本心、真実だった。
自分の中に根付いている深い罪悪感も、美夜を傷つけたくないという思いも、何一つとして妨げるものは無いほどに、彼を求めていた。
あれが……きっと本当の自分だったのだ。
沢山の言い訳を並べて、どうでもいい理由を作り出して、無理矢理彼を遠ざけ、本心を欺き続けてきた。
『魔性の女』『淫乱』……あの後自分を罵った田島の辛辣な言葉が蘇る。
それでも、彼に腹が立つことはない。
逆に、私を責めれば責めるほど、彼自身が傷ついてはしないだろうかと、心配になる。
朱音の知っている田島 優とは、そういう人物だ。
彼はこうも言った。『僕はもう昔の田島 優ではない』 と。
たしかに、変わろうとしたのかもしれない。
現に、四年ぶりに再会した彼は大変身を遂げていた。
でも、人間の本質はそうそう変われるものではない、と思う。
もし、彼が変わろうと思った最大の原因が自分に有るのなら、それはとんでもない間違いだ。
優はあの頃のままでいいのだ。純粋で、ひた向きで、どこまでも優しい……むしろ、そんな彼に相応しく無かったのは自分だったのだから。
彼の純粋さを受け入れるだけの心根が自分には無かった。だから、疎ましく思った。
優のあの優しさのオーラに包まれて自分は幸せだったのだと、……そんな優を心の底から好きだったことに、他人の腕に抱かれて初めて気が付いた自分の愚かさを、仮に手遅れだったとしても告げることなど絶対に出来なかった。なぜか……?
「だから、優等生なのかな?」
心の中で呟いたはずの言葉が口をついて出たことにも朱音は気付かない。
あれ以上優を傷つけたくなかった、というのはあくまでも建て前で、自分が傷つくのを恐れたのだ。
優のあの素直で真っすぐな瞳で、蔑まれることが怖かった。
なによりも、蔑まれた上で彼に拒絶されることだけは耐えられなかった。
あまりにも身勝手ではあったが、優の元を離れて好きでもない人の腕に抱かれて初めて彼を愛していた、だなんて……自分が優なら絶対に許しはしない。
だから、封印した。だから、二度と誰かを好きになることはしないと誓った。

いつの間にやらアパートまで帰り着いていた朱音は、靴を脱ぎ捨て、ぼんやりしたままの頭で服も脱ぎ捨てて、ベッドに仰向けに倒れこんだ。
見慣れた天井の染みを目にした途端、堪えていた涙がせきを切った様に溢れ出す。
もう、潮時だ。もうこれ以上見ないふりは出来ない。結果は見えている。
この四年間止まったままの想いを伝えたところで、まず信じてもらえることは無いし馬鹿にされることはあっても、感謝されることは、まず無い。
あの頃よりもとてつもなく大きくなっている彼への想いを拒絶されれば、今更になって受ける傷は、二度と立ち直れないほどかもしれない。
それでも、もう終わりにしよう。終わらせなければ、彼だって自由にはなれないのだ。
『どうして、いつのときもあなたは僕のものにはならないんだろう……』
あの彼の言葉が、何を意味するかは今の朱音にはわからなかった。
ただ酔っていたのか……相変わらずな私に対する怒りなのか……単純に気まぐれに私を抱きたかっただけなのか……。
四年前のことを “若気の至りのくだらない過去” と言い切った彼と、ついさっき自分を抱きしめた彼のアンバランスさに、やはり彼自身もこの再会で何かを引きずっているのかもしれないと、思った。
だから、終わらせるのだ。彼は自由になるべきだし、幸せになるべき人だ。
「あとは、……私の一握りの勇気だけ!」
朱音はうつ伏せになって枕を抱きしめ、顔を埋めて呻くように声を出した。
誰の為でも無い、優の為に踏ん張るのだと、必死に言い聞かす。
今こそ、本当の償いをするのだと、必死に言い聞かす。

そして朱音は泣きながら、この旅行が終われば、全てを自分の手で終わらせる決心をした。

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