泣き方を教えて……

美瞳 まゆみ

第8話  それぞれの決断



あれから十日以上が過ぎた。
六月になり、梅雨入り宣言を待っていたかのように、もう三日も雨が続いている。

高見という剣吾の昔のバンド仲間からの、音楽業界への現場復帰依頼の返事期限も、おそらくは過ぎた頃だ。
どうなっただろうか?剣吾は再び音楽業界に戻る決心が出来ただろうか?
薫子は残業を終えて、いつものように通用口から出ると、溜息をついた。
あれ以来、一度もリュージュには行っていないし、剣吾とも会っていない。
こうして、通用口のドアを開けるたびに、密かに期待してしまう自分を嘲笑う。
いつかのように、剣吾がガードレールに腰を掛けて自分を待っていてくれるんじゃないかと……。
こんなにも会いたくて、こんなにも恋しいのに、自らリュージュのドアを開ける勇気がない。そして、そんならしくない自分が情けない。
これまでだって剣吾には、散々好き勝手に噛みついてきたが、いつだって大らかな目差しと陽気な笑顔で受けとめてくれていた彼を、あんなにも怒らせた。
踏み込んではならない所に踏み込み、言ってはならない言葉を投げつけ、間違いなく彼を傷つけたのだ。
二度と顔も見たくないと思われていたとしても、仕方ない。

「薫子!」
傘を肩に引っ掛けて、剣吾がいつか座っていたガードレールをぼんやりと眺めていると、後ろから声が飛んだ。
「よかった!まだ帰ってなかったのね?」
そう言って笑顔で走り寄ってきたのは、朱音だった。
「……おかえり。確か今回は、日光だったわよね?直帰しなかったの?」
紺のスーツ姿のままの朱音を見て、薫子は首を傾げた。
「うん、ちょっと片付けたいことがあって経理に寄ってたの。あなたを見かけた気がして追いかけてきたのよ。ね、ご飯まだでしょ?久しぶりに食べに行かない?」
彼女は不思議だ……と、薫子はぼんやり思った。
普段はお互いに忙しく、そう接触することも多くないのに、なぜか自分が弱っていると現れてこうして声を掛けてくれる。

「あたしはいいけど、田島さんは?待ってるんじゃない?」
「優なら、大丈夫よ。彼も昨日から研修だから、明日まで居ないの」
「相変わらずの、すれ違い夫婦ね」
薫子が意地悪そうにそう言うと、朱音はクスクス笑った。
「いいわよう!なかなか新鮮で!たまに一日一緒だとドキドキしちゃうわ」
薫子は笑いを堪えて、傘をクルクル回した。
「やれやれ!聞くんじゃなかったわね!」
雨中の移動手間を省いて、二人は会社近くのファミレスへと入った。
「ここ久しぶりなの、一年ぶりかな?優にゴリ押しで打ち合わせに呼び出されてね!」
席に着くなり、朱音が懐かしげに店内を見回した。
「そうなんだ。あたしは初めてよ、ファミレスって殆ど縁が無いから」
「そりゃぁ、そうでしょうね。なんせ薫子は、あのヨシヤの常連だもの」
「あそこは本当に美味しいから、知らない方が損よ。今度、田島さんと二人で行ってみなさいよ?」
薫子が眉を上げると、朱音は素直に頷いた。
「うん、そうするわ」

ファミレスらしい、色とりどりの食材を一つのプレートに乗せられた物を、二人で選んで半分ほど食べ進んだ時、朱音が思い出したように首を傾げた。
「あ、そうだ!ねぇ、マスター何かあったの?」
口に運びかけていたフォークを止めて薫子は朱音を見た。
「……何かって?」
「あれ?最近、リュージュ行ってないの?」
「最近っていうか、ここ二週間近くだけど行ってないわ。なんで?」
朱音もフォークとナイフを置いて顔を上げた。
「そうなんだ……。ずっとお店閉まってるから、何かあったのかと思って」
「ずっと?どのくらい?」
突然、ざわめきだした胸の音に眉をひそめるように尋ねる。
「はっきりとはわからないんだけど……十日前くらいに行って、その時はもう閉まってて、一昨日も優と一緒に行ったんだけど、まだ閉まってた」
十日前……あの言い争いのすぐ後ぐらいだ。
「旅行にでも行ったんじゃないの?張り紙とかしてなかった?」
軽い口調を心掛けたが、声が裏返りそうな気がした。
「旅行ですって?私達、専門職の人間に何も言わずに?それもこんなに長期?」
「たしかに、……それは無いわね。」
薫子はあからさまに首を振って否定する朱音に同意した。
「私の知る限りでは、マスターは一度も旅行に行ったことはないし、こんな風に店を長い間閉めることも無かったわ」
そう、朱音の方が剣吾との歴史も長く、あたしなんかよりもきっと彼を知ってる。
「ちょっと心配になって、携帯にも連絡してみたんだけど……ずっと留守電なの。薫子、何か聞いてない?」
携帯、と聞いて薫子は思わず笑い出しそうになった。
そう、あたしは彼の携帯番号すら知らない!こちらから教えたことも無ければ、聞かれたことも聞いたことも無い。
「どうしてあたしなんかが知ってると思うのよ?携帯すら知らないわよ」
「……そうなの?」
朱音は訝しげに口を曲げた。
「ごめん、勝手な想像してたわ。薫子とマスターって……ひょっとして付き合ってるのかな、って」
薫子は即行笑い飛ばそうとしたが、わずかに顔が歪んだままになってしまった。
「付き合ってなんかないわ。だから彼がどこへ行ったのかも聞かされてないし、知らない」

予想は出来る。おそらくは、東京で高見や吉川と一緒かもしれない。
もしくは……麻美に会いに行ったのかもしれない。
だが、それを朱音に話すことは出来ない。自分のことならば喜んで教えるが、これはあくまで剣吾の過去に関する話だ。
朱音にすら話していない事ならば、第三者が言うべき事ではないのだから。
どこか腑に落ちない顔の朱音に、薫子は苦笑いと共に白状した。

「ほんとに、知らないのよ!それに付き合っても無い。でも……あたしの気持ち限定で言えば、惚れてるわよ、彼に。たぶん、今までにない程、惚れてるわ」
突然の薫子の告白を受けて、朱音の目は見る見るうちに大きくなった。
そして、次の瞬間朱音は両手で口を押さえ、肩を大きく震わせて笑い出した。
「もう!薫子ったら、なんて気持ちのいい人なの!?」
「……はぁ!?何言ってるの?」
朱音はニコニコしながら頷いた。
「私、あなたのそういう潔いいところ、ホント、尊敬してるの!肝心な事には真っ直ぐというか、嘘も誤魔化しもしないというか、ステキよね」
「あたし、からかわれてるの?」
訝しげに眉をひそめた薫子に、朱音は慌てて首を振った。
「まさか!褒めてるのよ」
どこか照れくさそうに肩をすくめた薫子に、朱音は微笑みながら続ける。
「まだ付き合ってはいないかもしれないけど、時間の問題よね?マスターも薫子にぞっこんよ、きっと。あんな風にマスターが誰かに絡むのも、あんな優しい目差しで誰かを見るのも、初めて見たもの!」
今はきっとそうじゃないわよ……そんな言葉を呑みこんで、薫子は静かに笑った。
「……だといいけどね。でも、付き合うとか付き合わないは、あたしの中では正直どうでもいい感じ。まだ不倫清算したとこだしね。自分が惚れてるってことだけで、満足かなぁ」
それは、まんざら嘘ではなかった。
彼に惚れ込み、彼を恋しがり、彼を守りたいとまで思ったが、だからといって恋人になることにこだわってはいない。なんとなく近くに居ればよかった。
剣吾が立つカウンターの隅で、何を話すでもなく飲んでいる……そんな距離でよかったのだ。
でも、それももう難しくなってしまったかもしれないな、と薫子は胸の中で呟いた。


そして、……剣吾は薫子の予想通り、東京に居た。
高見達は約束よりも早く、あの二日後に連絡をしてきた。だがそれは、剣吾の返事を聞くというものではなく、とにかく一度東京へ来て、実際のスタッフや現場で話を聞いて欲しいという正式な依頼だった。
事務所の懐かしい連中も、剣吾に会いたがっていると言われ、剣吾はちゃんとした決心も着かないまま、しぶしぶ上京することを承諾した。
店を休むことにおいては、直前に訪れてくれた客には断りを入れたが、あえて張り紙や個人的な連絡はしなかった。
東京行きを決めた時に、真っ先に浮かんだのは薫子の顔だった。
彼女にだけは、ちゃんと言うべきだとも思ったが……剣吾は言えなかった。

実のところ、剣吾は相当堪えていた。
あの時、薫子が放った『情けない男』というフレーズが頭を離れずに、思いのほか感情を蝕んだ。
過去の過ちに対して、許されていない事を引きずっているのではなく、自分が許せないままなのだという事実を突き付けられた。
そして情けない男だと言われたことに激怒した。
それは、まるで薫子に力いっぱい横面を引っ叩かれたような感覚で、痛みさえ覚えた瞬間だった。
だが、薫子は、正しい。
言葉そのものは厳しかったが、言っていることは1ミリも間違っていなかった。
そう、ずっと麻美を傷つけたことだけを後悔してきた振りをして、その実、自分が彼女を許せなかったことこそが本心だった。
決して見ようとはしなかったどす黒い感情を言い当てられて、愕然とした。
その場では受け入れ難く、思わず薫子に八つ当たりするように拒絶してしまった。
その自分の卑怯さが無関係な彼女を傷つけたことも心底後悔した。
そして……最後に剣吾は、薫子が言った最後の言葉を信じる決心をした。
薫子は、会えばわかると言った。
会えば、全ての霧は晴れると。だから、東京に来た。
何よりも、麻美に会う決心をしてきたのだった。

だからといって、二十年も音信不通だった人間が、突然訪ねるわけにもいかず……
高見と吉川の方から連絡を入れてもらうように、頼んだ。
二人がリュージュを訪ねてくれた帰り際に、高見が 『麻美さんも、会いたがっている。』と、言い残した一言が耳に残っていた。
そして、東京へ着いて二日後に、麻美との連絡が付き、会えることになった。

淡いクリーム色のカッターシャツに、深いカーキグリーンのブレザースーツを着込み、髪はいつもよりもきちんとオールバックにして結んだ。
事務所の……いや高見の厚意で、恵比寿にある事務所ビルの応接室を提供してくれた。全くの関係者外ならば、そうはいかなかっただろうが、剣吾は元所属アーティスト、麻美は事務所の元マネージャーで、彼女の夫は今も尚この会社の役員を務めている、という面々の再会ならば、融通も利いた。
剣吾が当時通い詰めていた事務所は、このビルではなかった。同じ渋谷界隈ではあったが、当時はこれほど立派な自社ビルではなかった記憶がある。

剣吾は麻美を待つ間、皮張りの豪華なソファーに座っていることもできず、窓際に立って外を眺めた。
東京から逃げ出して二十年、という歳月の長さをまざまざと思い知った。
確かに昔から大都会ではあったが、こうも景観が変わってしまうとは驚きだった。
街並みが変われば、人々も変わり……今の事務所には当時、剣吾達がお世話になっていた人達も殆ど残ってはいない。
その僅かな懐かしい面々は、今では皆役員クラスだった。
そして何よりも大きな時の流れを実感したのは……二十年前のつまらない事件の事など、殆ど覚えていない者が大半を占め、ようやく自分が許されたというよりは、全てが風化したという印象だった。

剣吾が腕時計で時間の確認をすると同時に、ドアはノックされた。
「…………はい、どうぞ。」
一呼吸してから、返事をした。
そして、やはり少しの間を空けて、ドアレバーが動き、ゆっくりとドアが開いた。
「………失礼します……」
懐かしい声が耳に届き、そろっと顔を覗かせた人物こそが、麻美本人だった。
その瞬間に、時は止まった。
大きく目を見開く麻美と、僅かに目を細めて凝視した剣吾は対照的だったが、息を呑むように動きが止まったのは同じだった。

「………ご無沙汰でした。」
先に我に返ったのは、剣吾だった。姿勢を正して丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ……本当に、ご無沙汰してしまって……。お元気でしたか?」
そう尋ねた麻美の声は、微かに震えているように聞こえた。
「ええ、お陰さまで、なんとか元気にやっています。あなたも、お元気そうですね?」
ようやく笑みらしきものを浮かべながら、剣吾はあらためて麻美を正面から捉えた。
自分よりも三つ年上だから、四十三歳になる。
もちろん、記憶の中の彼女の面影は残っていたし、見る影もない程変わったわけではない。
別れた当時はショートだった髪型が、肩までのセミロングになり、華奢だった体系が僅かに丸みを帯び、童顔だった顔にはそれなりのしわが刻まれている、それだけのことだ。
歳を取った、ということならばこちらとて同じことで、すでに髪は銀髪だし、しわも増えた。

「老けた……でしょう?面影は、残っているのかしら?」
まるで剣吾が考えていたことが聞こえたかのように、麻美がぎこちなく笑った。
「いや、それはお互い様です。……取りあえず、座りませんか?」
剣吾がイスを勧めると、麻美は小さく頷き、ゆっくりと腰を下ろした。
呼び出したのはこちらの方なのだから、自分から話さなければならないのに、妙な沈黙に包まれる。
一体何を切っ掛けに話し始めればいいのか……。
剣吾は目を伏せ思いあぐねていたが、小さく咳払いをして、心を決めた。

「こちらからわざわざ呼び出したっていうのに……二十年も時間が経ってしまうと、何を話せばいいのか……すんません、情けないことで」
すると、麻美が急にホッとした顔で微笑んだ。
「関西弁……変わってないんですね、なんだかホッとしました」
そう言った彼女の笑顔の中のえくぼが、昔のままなのを見て、剣吾もつられて微笑んだ。
「頑固で、毒の強い男ですから……何十年経ってもこのままですわ。大阪に帰っていたわけではないんですがね」
「高見さんから、名古屋でお店を構えていらっしゃるとお聞きしました。……あれから、ずっとですか?」
“あれから”という言葉の前に、微妙な間があった。
剣吾は膝の上の自分の手に視線を落として、頷いた。
「店自体は、今年でちょうど十年です。名古屋には、あれからずっとですから、丸々二十年住んでいます」
「そうですか……」
麻美はそれ以上の言葉が続かない様子で、口を噤んだ。
剣吾は一旦唇を固く結ぶと、顔を上げて彼女を真っすぐに見つめた。
「私は、十年も客商売なんてやってるくせに、口も上手ではありません。ちゃんと伝えられる自信も無いのですが……でも、やっぱり、あなたには二十年前に言わなければならなかった言葉があります。それを言う為に、のこのことやって来ました」
剣吾はきっぱりとした強い口調と真剣な目差しでそう言うと、突然ソファーから腰を外し、横の床の上に土下座をした。
「麻美さん!あの時は、ほんまにすいませんでした!私の引き起こした数々の身勝手で、多大な迷惑を掛けた事……心の底からお詫びします!」
大きな声で、一気にそう言って頭を床につけた。
「……剣吾……!!あ、いえ、ごめんなさい……藤原さん、そんな……」
とっさの剣吾の行動に麻美はうろたえた。
ソファーの肘を掴む手に力が込められている。
「剣吾で、いいですよ」
剣吾は顔を上げると、ニッコリ微笑んだ。
懐かしい、そのクシャっとした剣吾の笑顔に、麻美の顔は哀しげに歪む。
「どうしてあなたが……謝るのですか?謝らなければいけないのは、私です!あなたの大切な人生を台無しにしたのも……元はと言えば……私が……」
そこで途絶えたその声は震え、今にも泣きだしそうだった。
次の瞬間、麻美は崩れるようにソファーから土下座したままの剣吾の前に座り込み、片手は口を覆い、もう一方の手で、剣吾の膝を掴んだ。
「あなたから、音楽を奪い……あなたから仲間を奪い……あなたから……子供を奪った……。なのに、私はあなたを探すこともせずに……自分だけさっさと逃げ出してしまった……」
訴えるように見開かれた麻美の瞳から、涙の筋が流れ落ちた。
苦痛、哀しみ、後悔、懺悔、……彼女の顔に浮かぶあらゆる感情に、この二十年間この人もまた、けっして幸せではなかったのだと、痛みのように感じ取った。
剣吾は、自分の膝を痛いほどの力で掴む麻美の白い手に、自分の手をそっと重ねた。
「麻美さん、あなたが奪ったんやない!全ては私が自ら放り投げたんです!勝手に自暴自棄になって、勝手にあなたを責めて、最後は全てから逃げ出した。たったひとりの女もよう守らんで逃げ出したような、卑怯極まりない男です!」
剣吾は、自分が麻美に背負わせてしまった物を取り去ることに必死になりながらも、今更ながら薫子が言った言葉を思い出していた。

『あたしが麻美さんなら、あなたを恨んだりしない。むしろ自分を責めたわよ!』
『何を恐れているの?いつまでも彼女を許せないでいる情けない自分と向き合うこと?』
本当にその通りだ。何もかも薫子の言う通りだった。
そう、麻美と自分は、もっと早く会うべきだった。あの時に、ちゃんと向かい合うべきだったのだ。
そして、ちゃんと別れていれば、彼女にこんな思いをさせることはなかったのだ。

剣吾の頬にも、一筋の涙が流れた。
「麻美……ほんまに、すまんかった。俺が情けなかったばっかりに、こんな筋違いの哀しみ二十年も背負わせて……すまん……すまん……」
同じように声を震わす剣吾の頬に、麻美の白い手がそっと触れた。
剣吾を見上げるその目元に、あの頃と何ら変わらない優しさが滲む。
「剣吾……私こそ、本当にごめんなさい。あなたのことは、忘れたことはなかったわ。とても身勝手だけれど、ずっと祈っていたの、あなたが幸せでありますようにって……そして、叶うことならばいつか、また会えますようにって……」
二十年前のあの夜、最後に見た彼女の顔も、泣き顔だった。
怒りに我を忘れて、彼女の頬を殴った。アパートの狭い部屋で倒れこんで尚、起き上がり自分を泣きながら睨みつけた彼女の強い目差しを思い出すと、いまだに胸が軋む。
「あの時は……殴ったりして、すまんかった。見境なかったから、……痛かったやろう?」
剣吾はかすれた声でそう言うと、麻美のふっくらとした頬にそっと触れた。
麻美は小さく首を振り、微笑んだ。
「痛かったのは……剣吾だってそうよ。きっと、お互い様だったの。違う時に出逢えていたら、一緒に歩けてたかもしれなかったのにね」
違う時に出逢えていたら……今も彼女と一緒に居られたのだろうか?
あんな哀しいことにはならず、子供にも恵まれ、幸せでいられただろうか?
だが、剣吾は力なく首を振った。
「……きっと、俺ではあかん。俺では、麻美を幸せには出来んかったと思うわ」
剣吾の言葉を受けて、麻美は、否定も肯定もせず、黙って淋しげに微笑んだ。

お互いの二十年間を、一時間や二時間で語り尽くせる訳も無かったが……それでも二人は何かを埋めるように、お互いのその後を語り合った。
もちろん、剣吾の方は麻美の負担にならないように、名古屋に移ってから店を始めるまでの地を這うような苦労は、口にしなかった。
麻美は、剣吾と別れてから二年後、当時自分の直属の上司だった今の夫と結婚し、仕事を辞め、二人の男の子に恵まれた事を控えめに告白した。

「お子さんは、幾つになるんや?」
「高校三年と高校一年なの」
「そうか、やんちゃ盛りやな、男の子二人は大変やろ?」
剣吾は麻美が小さな身体で奮闘している様を思い浮かべ、ニッコリと笑った。
だが、麻美はその問いかけには答えず、困ったような笑みを浮かべただけだった。
おそらくは、彼女も自分に対して気を遣い多くを語ろうとはしないのだろうと、剣吾は思った。
「剣吾は、……結婚は?」
「……いや、お婿にいきそびれて独りや。有り難いことに、店もそれなりに忙しかったんでな、ついついこの歳になってしまったって感じや」
「もう、しないの?その気は……ないの?」
剣吾は、ちょっと間口を噤み、慎重に言葉を選んだ。
「……そんなことは、無いで。というか、ようやく死ぬまで一緒に居たいと思える奴に出逢った感はあるんや。まぁ、実現するかどうかは別にしてな……」
そう言いながら剣吾は、薫子を想った。
きっと薫子は、突然店を休んで姿を消したことを心配しているだろう。
それとも、黙って東京へ来たことを、あの剣幕で怒っているだろうか?
もしくは……こんな情けない中年男には愛想を尽かしただろうか?

「とても……大切な人なのね」
麻美の優しい問いかけに、剣吾はゆっくりと頷いた。
「こんな中年オヤジを、本気で怒鳴りつけて本気で向かって来てくれる奴なんや」
「絶対に手放せないわね、あなたを本気で怒鳴れる人なんて」
「手放すも何も……まだ俺の物にもなってくれてはないからな。型にはめれるような奴でもないし」
「そうなの?でも、大丈夫よ、本気で向き合えてるなら。こんなこと私に言う資格なんてないけど、剣吾には、本当に幸せになって欲しいから……」
いつもそう祈っていたのだと、泣きながらに言ってくれたつい今しがたの麻美を思い出しながら、剣吾はあらためて真剣な目差しで聞いた。
「麻美は、今、幸せなんか?」
麻美は、躊躇することなくしっかりと頷く。
「とってもね。主人も子供達も、本当に良くしてくれるわ、勿体ないくらいに」
「……ん、そうか。じゃぁ、俺も幸せになるわ。麻美に負けへんほどな!」
その言葉は本心だった。
彼女が自分の前で迷うことなくハッキリと“幸せだ”と言い切った瞬間に、長かった夢から覚めたような感覚に捉われた。

「ねぇ、剣吾、その為にも高見君達ともう一度、組むんでしょう?」
「いや、それはまだ、決めてない……」
「まさか、断ったりしないでしょう!?みんなあなたを待っていたのよ?みんなあなたが帰って来る日を待っていたわ、私だって!もう現場からは退いて長いけど、やれるものならもう一度みんなと組んでやりたいくらいだわ」
強い口調でそう訴えた麻美は、かつて一緒に行動を共にしたあの、しっかり者マネージャーの麻美だった。
剣吾は揺れた。心の奥深い所にしまいこんだ熱い塊のような物が、疼く様に心を揺らす。
だが、今すぐに答えを出せるものではないことなのも、充分承知していた。
「……悪いな、今はなんとも答えられん。明日、トシとハルに会うことになってるし、もう少し時間が欲しいっていうのも本心や」
済まなそうな笑みを浮かべた剣吾に、麻美は何かを言いたそうな顔のまま、小さく頷いた。


「ねぇ、ちょっと相談があるんだけど、今いい?」
昨日までの箱根ツアーの報告書をパソコンに向かいながら作っていた薫子の横に、朱音が立った。
「それって、込み入った話?」
薫子はパソコンの画面から視線を外し、朱音を見た。
“相談”という単語に訝しげな顔で反応した薫子に、朱音は苦笑する。
「込み入ってるといえば、そうだけど……あくまでも仕事の話で、プライベートな相談ではないわよ」
薫子は殆ど出来上がっていた報告書の画面を保存すると、身体ごと朱音の方を向いて、大袈裟に眉を上げた。
「いいわよ、伺いましょう」

朱音の話は、こうだった。
この秋の新しいパックツアー商品の社内プレゼンが来月行われるから、企画してみないか、という提案だった。
秋といっても晩秋、もしくは初冬の時期対象の商品だった。そもそも十月から十一月にかけては、行楽、紅葉シーズンで業界全体が活発に動くのだが、その直後の十一月後半から十二月中旬が、一番中途半端な時期で、どこも目玉の商品の開発に苦戦する期間だった。

「……本気で言ってるの?」
朱音から手渡された要項資料を一通り読んで、薫子は顔を上げた。
「こんな話、冗談でしても面白くもなんともないでしょ?あなたが企画、営業が苦手なのは耳にタコが出来るくらい聞かされたから知ってるわ。でも、それを承知の上で持ちかけてるのよ」
朱音の表情はいつになく真剣だった。
「全て承知の上の理由は、何なの?」
「営業なら、私が補佐に回れるし、元々の企画力はある筈だから、成功すると思ってね」
そのまるで励ますような朱音の言葉に、薫子は驚いた。
「二人で組んでやるってこと?なんで?わざわざあたしなんかと組まなくても、朱音は実績あるんだから十分実現可能でしょ?」
何を言い出すのかと言わんばかりの薫子の表情に、朱音は溜息をついた。
「……ねぇ、薫子……そろそろ動き出さない?」
動き出す……朱音の言わんとしていることが読み取れずに、薫子は無言で首を傾げた。
「淡々と仕事こなして、淡々と毎日をやり過ごして、その場に留まったまま……最近の薫子はまるでロボットみたい。少なくとも私にはそう見える。余計なお世話なのもわかってるけど、私があなたと組んでやってみたいんだから、いいでしょ?」
いつになく熱心で真剣な朱音の目差しに、今度は薫子が溜息と共に微笑んだ。
「あたしに、仕事の方針を変えるべきだと言ってくれているの?それとも……あたし自身が変われと言ってるの?」
朱音は迷わずニッコリと笑った。
「もちろん、両方よ!あなたは出来ないんじゃなくて、やらないだけなんだから勿体ないでしょ?いつまでもサブで十分なんて言ってないで、そろそろ進んでみたら?何かが変わるかもしれないわ」
何かが変わる……その言葉が鈍く胸に響いた。
何が変わるというのだろう?いや、あたしは、何を変えなければいけないのだろう?
別に今の仕事に不満があるわけでもなく……日々の生活も特に変わり映えも無く、それなりに過ごせている。
それ以上、何を望むというのか?何を変える必要があるのだろう?
だが、そう考えていた最中に、突然薫子の胸は軋んだ。
ここ暫く、何の前触れも無く突然襲われる鈍い疼くような痛み。
自覚せざるを得ないような……ぽっかりと口を空けている大きな心の穴。
それは何をもってしても、埋められない空洞。
その空洞が、軋んで悲鳴のような音を立て胸の奥の方が痛むのだ。

「薫子……?どうしたの?体調悪いの?」
突然鳩尾辺りを押さえるような動作をした薫子に、朱音は眉をひそめた。
「……ううん、何でもないわ。大丈夫だから」
自嘲めいた笑みと共に、薫子はそう言ったが、実際、何でもなくはなかった。
この痛みは、紛れもなく、剣吾を失った痛みなのだ。
彼が姿を消して、もうすぐ二週間が経つ。
逢いたくて、逢いたくて、逢いたいのに……逢えない人。
毎日のように、リュージュに足は向くが、そこへはどうしても行けない。
今日こそは帰って来ているんではないかと、期待に胸を膨らませているというのに……どうしても勇気が持てない。
あたしは、いつからこんなにも意気地が無くなってしまったのかと自嘲してみても、何も変わらない。

薫子は、済まなそうな表情で朱音を見上げた。
「……ごめん、少し考えさせてくれる?」
朱音はちょっと間薫子をジッと見つめると、ニッコリ微笑んだ。
「了解。ただし、前向きに考えることと、来週までに返事をくれることが条件よ。いい?」
「約束するわ……朱音、ありがとう」
薫子は、手にした社内プレゼンの要項を見つめたまま、そう頷いた。

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