名無しの(仮)ヒーロー
楽は苦の種苦は楽の種 5
例え、正式に結婚して子供を成している夫婦でも何らかの理由で別れてしまうこともよくあるだろう。今の時代、片親なんて特別な事ではない。
それでも子供の事を思えば両親が揃っていた方が良いようなイメージは、確かにある。ただ、その場合、両親の仲が良いという事が大前提だ。
私は、父親が浮気、母親は何時も泣いている。そんな、家庭で育った。両親共に自分の事に手いっぱいで、両親に愛されたという記憶はない。
それぐらいなら、片親であっても愛情をたくさん注いで育った方が、幸せだと思う。
あの時、将嗣と別れず不倫関係の末、結ばれていたとして、さっき将嗣が言っていたようにごくごく平凡な家庭が築けていたのだろうか?
知らないうちに不倫関係であった事ですら、あんなにショックだったのに不倫関係を続け、いわゆる略奪婚に至るまで、恐らく私は、将嗣を責め続けただろう。
不倫関係が発覚した時に別れていたからこそ、綺麗な記憶として将嗣の中に残っていたのでは?
そんな事を考えてしまったが、それもタラレバの話。
とにかく、色々な問題が蓄積されて大変だけれど、私は美優を産んで良かったし、美優を産んで幸せだ。
まあ、将嗣の美優に対する向き合い方は、期待以上のもので見直した。
このまま、友達として、美優のパパとママとして時々会うだけの関係なら素敵なのにな。
将嗣と美優、ふたりを眺めながらそんなことを思った。
帰りの車の中、タワマンから自宅までのわずかな距離だか、振動が気持ち良いのか、たくさん将嗣パパに遊んでもらって疲れたのか、美優はスヤスヤと眠ってしまった。
自宅アパート前に到着し、美優を抱こうとすると将嗣が運転席から周り込んで手を貸してくれた。
「美優ちゃんは俺に任せて」
「ありふがとう。助かる」
マザーズバックを肩から下げ家の鍵を取り出し車から降り、部屋のドアのカギを開けたところで将嗣から美優を受け取る。
「今日は、ありがとう」
「美優ちゃんの認知の件、弁護士の都合が付いたら連絡する。それと、田舎に行く話も考えておいてくれよな」
元カレと元カレの実家には行きたくないけど、孫を見たいという将嗣の両親の気持ちもわかる。うーん、どうしたらいいんだろう。
「田舎に行ったら、喜多方ラーメン食べにいくのもいいよなぁ。馬刺しも隠れ名物で美味いし、絶品手打ちそばの店もいいよなぁ」
「ちょ、ちょっと、将嗣、あなたねぇ。私のこと何か誤解していない?」
「いや、俺は夏希のことを良く理解している」
うんうん、と自信満々に答える。
「チッ」
「なに舌打ちしているんだよ」
「ヤバイ、心の中が、だだもれてしまった」
ふふっ、と笑うと将嗣もふわりと笑う。
「やっぱり、夏希はいいなぁ」
と、少し悲しそうに笑う。
そんな、悲しそうな顔を見せられたら、朝倉先生と付き合い始めた話をしようと思っていたのに言い出しにくい……。
「あ、あの……」
「なに?」
と、将嗣の瞳が優しいカーブを描き私を見つめる。
「あの、私……」
そう言いかけた時、将嗣が私の両肩を抑えキスを落とした。
突然の出来事に美優を抱いたままの私は身動きが出来ず、目を見開いたまま固まってしまった。
短いキスを終え、唇が離れると「おやすみ」と言って、将嗣は車に乗り込み、車のエンジンが掛かかる。短いクラクションが一つ鳴ると、車がゆっくり走り出す。
私は、驚きが大きすぎてその場に佇んだまま車のテールランプが小さくなるのを見つめていた。
部屋に入って美優をベッドに下ろし、一息つくと先程の将嗣のキスを思い出す。
私の言葉を遮るようなキス。
将嗣は、きっと私が何を言い出すのか、察していたのかも……。
朝倉先生と付き合い始めたと将嗣に告げようと思っていたのに腰を折られた形で困る。
私にとって将嗣は、美優の父親、元カレ、今は友人。
でも、それは、私が勝手に思っている事。将嗣からしてみれば、まったく違うのだろう。
立ち上がりキッチンに移動して、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れた。クルクルとかき混ぜているうちに前の事を思い出した。
そういえば、将嗣と付き合っていた時は、おそろいのマグカップでコーヒーを入れていたなぁ。
将嗣が結婚している事を知った夜にゴミ袋に投げ入れ捨ててしまった。
あの夜、私は、この部屋にあった将嗣の物を全てゴミ袋に詰め、気持ちに区切りをつけ、忘れると泣きながら誓った。
その後、お腹に将嗣との赤ちゃんが出来たのは、神様の悪戯だとしか思えなかったけど……。
美優が産まれる時に朝倉先生と出会ったのも神様の悪戯の延長なのかな。
そんなことをぼんやり考えた。
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