名無しの(仮)ヒーロー

海月三五

地獄で仏 6

 残された部屋の中で自分の心臓がドキドキいっているのが、聞こえる。
 不意打ちと言えるほどの近い距離、優しい仕草に押さえ込んでいた恋心が膨らむ。

 朝倉先生の優しさを勘違いして、自分に気があるなんて思ったりしない。
 今日だって、こんなスエット姿のボロボロの格好で、女としてマイナス得点の状態だし、出会った頃から迷惑しか掛けていない。
 ザ・パーフェクトの朝倉先生に似合うような女では無い事ぐらい、自分が一番わかっている。

 もし、恋心がバレて、仕事を失ってしまうような事態になったらどうしよう。仕事相手だから親切にしたのに、勘違いしちゃったイタイ奴になりかねない。この恋は、絶対に言っちゃダメだ。

 女である前に、美優の母として、生活をしていかなければならない。
 子供を育てるには、夢や希望だけではなく、現実問題としてお金が凄く掛かる。日常の雑貨品だけではなく、この先大学までの教育費を考えたら大変な金額だ。幼稚園から大学まで、すべて公立の学校でも12百万円、すべて私立ではこの倍の金額24百万円、大学の学部によってはもっと掛かる場合がある。
 私は、美優との生活を自分の恋心のために失うわけにはいかない。

 ただ、制御不能な恋心を上手に隠せる演技力が自分にあるとは思えない。
 駄々洩れになって、ウザがられたらどうしよう。

 朝倉先生が、買い物から帰って来たようで、コトリと荷物を置く音が聞こえ
た。私は、浅い眠りの中で温かい布団に包まれ、微睡んでいると朝倉先生が近づいて来る気配を感じる。
 おでこに手を当てられ、やがて首筋にその手が移動し、熱があるのを確認しているようだった。
 
 唇に何か温かく柔らかい感触を感じた。

 それは、ほんの一瞬と言って良いほどの短い時間だった。
 夢うつつの中で不思議な気がした。

 ガサガサという音の後に、おでこに冷たいシートが張られて、朝倉先生の気配が遠ざかる。

 私の勘違いかも知れない。
 けれど、ドキドキして顔が火照っているのが、バレないように寝返りをうつフリをして、横向きで掛布団の中に潜り込んだ。

 ナニ、ナニ、ナニ、ナニーッ!!

 私に何が起きた??

 朝倉先生にキスをされた 
 願望が見せた妄想? 夢? 
 ああ、そうか、熱に浮かされて妄想が夢になって出てきたんだ。
 それならナトック!
 私、ヤバイなぁ。妄想激し過ぎ、暴走しちゃっているよ。


 少しして、ベビーベッドの上の美優が目を覚ましたようで、フニャフニャ言い始め、さすがにいつまでも寝たふりを続けてはいられないと意を決して布団から出る事にした。
 私が、グズグズしている間に朝倉先生は、美優を抱き上げ、ヨシヨシとあやしてくれる。

「朝倉先生、ありがとうございました。おかげでだいぶ具合が良くなりました。冷却シートまで貼って頂いて、すいません」
 と、声を掛け美優を受け取とろうと朝倉先生の前に立った。

 朝倉先生と視線が合うと、ふぃっと、ソッポを向かれてしまう。
 視線を逸らされたことがショックで、自分が何かやらかしてしまったのではないかと不安になってしまって、「朝倉先生?」と、声を掛けた。
「あの……」と、朝倉先生は言い淀む。
 朝倉先生から美優を受け取りながら次の言葉を待ち、背の高い朝倉先生を見上げていた。

 今度は、ふっと包み込むような優しい瞳を向けられる。
「谷野さんの大分調子も良くなった様だし、今日は、お暇いとまするよ」

 私は、寂しさを覚えながらも引止めすることもできずにお礼を言った。
「今日は、たくさん助けて頂いてありがとうございました」
 
 すると、朝倉先生は私の首に手をあて、私の体温を気遣う。
「まだ少し熱がある、また、明日も来るよ」
 と、言い残し帰って行った。

 朝倉先生の手の温かさの記憶と香水のラストノートが残る。
 違う熱が上がりそうだ。

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