神島古物商店の恋愛事変~その溺愛は呪いのせいです~

大江戸ウメコ

古民家に眠る、呪いの簪(3)

「え、なに。箱の中に御神札おふだが入ってたの?」
「凄いですね。これ、多分霊符れいふですよ、珍しい。しかもかなり古そうだ」
「ごめん保科くん、霊符って?」

 色々な品をみてきたつもりだけれど、霊符というのは初めて聞いた。

「中国の道教どうきょうで生まれたまじないです。呪符とか護符っていった方が分かりやすいですかね。映画なんかで陰陽師が札に何か書いていたりするじゃないですか。ああいうヤツです」
「神社で売ってる御神札おふだとは違うの?」
「基本的に神社の御神札おふだは漢字で書かれますが、霊符はもっと昔の中国の甲骨文字なんかが使われていて、図案も複雑なことが多いですね。宗教的には別ですが用途は同じと考えて良いと思いますよ。厄払いだったり、護身だったり。まぁ、中にはのろいなんてものもありますけど」

 呪いと言われて、私はちょっと眉をしかめてその札を見た。複雑な模様は何を意味しているのか、私ではさっぱり分からない。

「何が書かれてるかわかる? 呪いじゃないよね」
「流石にこれは専門外ですね。梵字だったら読めますけど、甲骨文字まではちょっと。一部意味を知ってる文字もありますけど、どう読み取って良いか分かりません。それに、少し破れて読み取れない箇所もありますし」

 梵字だったら読めるという言葉に私はほとほと感心した。ブランド品の真贋にはまるで興味を示さない保科くんだけれど、彼の知識の幅は本当に広い。

「いつ頃のものか分かる?」
「一緒に紙が入ってましたから。こっちを見れば年代が分かると思います」

 保科くんはそう言って、一緒に入っていた紙を開いた。こちらはどうやら手紙のようだ。字形からおそらく明治の終わりか大正時代に書かれたものだろうと予想する。

「日付があります、第一次世界大戦の頃の手紙ですね。中国に行く前に婚約者に送った手紙のようです。一緒に箱に入ってるのはかんざしみたいですよ。贈り物だとかかれています」
「へぇ、かんざしかぁ。戦前ならアリだよね。細工や素材によっては良い値がつくし。でも、保存がなぁ」

 一体何を思ったのか、簪は古紙でくるくるとまかれている。保科くんは紙束を持ち上げると、紙を破らないよう丁寧に剥がしていった。
何枚も重なった紙束をはがすとさらに布袋が現れた。この中に簪が入っているのだろう。袋を開けて、簪の全貌が見えると思ったその瞬間だった。
 風が吹き抜けるような窓が無いにもかかわらず、蔵の中にぞわりと妙な風が吹いた。
 一瞬、蔵の外で鳴くセミの声が止まる。天井に張り付いた白熱電球が明滅して、パツッと明かり消えた。

「っ、何!?」

 突然の現象に私は短く悲鳴を上げた。けれども明かりが消えたのは一瞬で、すぐにまたパッと元の明るさに戻る。

「びっくりした。なんか、変な風も吹いたし」

 私がほっと息を吐いたそのときだった。簪を手にしていた保科くんが崩れ落ちて、床に片膝をつく。

「ちょっと、保科くん、どうしたの!?」
「すみません。……なんだか、急に眩暈めまいがして」
「えええ!? うそ、熱中症じゃない?」

 蔵の中の温度はおそらく三十度を超えている。こまめに水分を取るよう注意していたが、ずいぶん鑑定に夢中になっていたみたいだし、足りなくて熱中症になってしまったのかも。私は慌ててしゃがみ込むと、保科くんの額に手を置いた。

「熱がありそうな感じはないけど……とりあえず、軽トラ行って休む? 車なら冷房かかるし」
「そう……ですね」
「歩けそう? ほら、肩、貸してあげるから」

 私は保科くんの腕を持ち上げて、自分の肩へと回す。そのまま力を込めて彼の身体を持ち上げようとした瞬間、ドサッと保科くんが私を巻き込んで床へと倒れた。

「痛たたた……保科くん、大丈――……」

 大丈夫、と言おうとした言葉は、突然重なった唇によって奪われた。私の上には保科くんの身体がぴったりと隙間なく密着している。

 え……どうして、キス……?

「んっ……ほ、保科くん!? んむっ……」

 あまりに突然の出来事に、私は混乱した。倒れた拍子に唇をぶつけたとか、そういう感じではない。だって、いつのまにか保科くんの手は私の頬に触れていて、私の顔が逃げないように押さえつけて固定されているのだ。逃げようと身体をよじろうとしても、保科くんの身体が邪魔で動けない。
 保科くんは何度も食むようにして私の唇を貪ってから、やっと少しだけ顔を離した。

「三枝先輩、好きです」
「っ!?」

 熱に浮かされたような甘い目で、保科くんが吐息混じりの切なげな声を出した。
 至近距離で顔を覗き込みながらそんな告白をされて、私は言葉を失う。
 好き。好き!? 保科くんが、私を好き?
 いつも私に対して嫌味ばかり言ってくる保科くんが? 嘘でしょう!?

「ほ、保科くん、どうしちゃったの!?」
「ずっと前から先輩のこと、可愛いなって思っていたんです。先輩……」
「ひえ!?」

 耳をかぷりと唇で挟まれて、上ずった声が口から洩れる。
 耳元で聞こえる保科くんの声が、いつもと全然ちがう。吐息混じりに掠れていて艶めいている。
 信じられない。保科くんって、こんなに色気のある声が出せる人だったの!?

「先輩は俺のこと……嫌いですか?」
「い、いや、嫌いじゃあないけど」
「じゃあ、好き?」
「す……!?」

 好きなわけがない。私と保科くんは職場の先輩と後輩、ただそれだけの関係だ。
 保科くんはどちらかといえば苦手な部類だし、彼に対して男を感じたことなど一度もなかった。保科くんは異性ではなく、生意気な職場の後輩。そう思っているのに、この雰囲気にのまれてしまったのか、咄嗟に彼の言葉を否定することができなかった。

「真っ赤になって……先輩、可愛い」
「か、かわっ!?」

 くすくす笑う保科くんの表情がいつもと全然違う。どこか眠そうにとろんとした目は色気があり、薄暗い中、黄色い白熱電球の光に照らされた保科くんの整った顔は、思わずどぎまぎしてしまう破壊力があった。

「嫌だったら、俺を突きとばして下さいね」
「待って、ちょっと、んむ…………!」

 私が何も反応できずにいるあいだに、またしても唇を奪われてしまった。
 どうしてこんなことになっているのか全然理解できない。保科くんが実は私のことを好きで、いきなり発情して襲いたくなったってこと?
 それにしても突然すぎる。保科くんはこんな甘い言葉をささやくような人じゃあないし、仕事中に先輩を襲うような不真面目なヤツでもない。

「はぁ、三枝先輩……立花」
「っ」

 キスの合間に突然名前を囁かれて、心臓が跳ねる。
 こんな保科くんは知らない。まるで普通の男の人みたいに、甘く私の名前を呼び捨てるなんて。

「んっ、やめて……保科くん、ちょっと!」
「立花、抵抗しないで」
「嫌だったら突き飛ばせって言ったじゃない!」
「言いましたけど、あなたに拒絶されるのは嫌なんです。どうか、俺を受け入れて下さい」
「ひぇっ!?」

 保科くんは手袋を脱ぎ捨てると、私のTシャツの裾から手を差し込んできた。汗ばんだ素肌にごつごつとした保科くんの指が触れて、緊張で喉の奥がきゅっと締まる。

「こらっ、保科くん、絶対におかしいよ。正気じゃないでしょ!」
「そうかもしれません。立花を見ているとすごく愛しくて。頭が狂ってしまいそうです」
「狂ってる、多分もう頭が狂ってるよ! 私に隠れてお酒でも飲んだの!?」
「いやだな。仕事中にそんなこと、するはずないじゃないですか」
「仕事中にこんなことしようとしてる人が言っても、説得力ない……ひゃ!」

 保科くんの手が動いて、シャツがめくりあげられてしまった。下着が見えそうになって、私は慌てて保科くんの手を掴む。

「保科くん、これ以上は本当にダメだから!」
「どうして?」
「どうしてって、当たり前でしょ。恋人でもないのに!」
「じゃあ、恋人になりましょうよ。俺とつきあって下さい」

 とろけるような甘い微笑みを浮かべながら、保科くんはそんなことを言った。
 保科くんのこんな顔を見るのはもちろん初めてで、頭がくらくらする。目の前にいる保科くんは、保科くんの顔をした別人のようだ。

「保科くん、とりあえず一回落ち着こう。ちょっと離れて、ね?」
「いやです。立花と離れたくない」
「いいから離れる。先輩命令です。ほら、そこに座って!」

 私は身体全部の力を使って保科くんを押しのけた。ちょっとだけ距離ができて、ぜぇはぁと大きく肩で息をする。
 どう考えても今の保科くんはおかしい。まさか酔っぱらっているなんてことはないだろうが、酔って人格が変わっているかのような有様だ。

「保科くん、体調は大丈夫なの? さっき、眩暈がするって言っていたけど」
「はい。立花の顔をみていたら治りました」

治ったっていうか、さらにヤバい頭の病気になっているんじゃないだろうか。
まさか、倒れたときに頭でも打った? いやしかし、頭を打ったくらいでここまで人格がおかしくなったりはしないだろう。いったい何が原因で……。

 私は眉根を寄せてまじまじと保科くんを観察した。保科くんは普段の皮肉気で不愛想な態度はどこへやら、私に向かって尻尾でもふりそうな勢いでニコニコと笑顔を浮かべている。その表情はとても愛らしいのだけれど、普段の保科くんを知っている身としては、ただ不気味なだけであった。
 視線を保科くんの顔から下げると、床に転がった細長い布袋が視界に入る。中に入った簪が袋から少しはみだしていた。透き通った琥珀色をした、細工が美しい簪だ。素材はおそらくべっ甲、あるいはその模造品だろう、上品で美しいあめ色をしている。艶もあって、あんな保存をされていたわりには状態も良さそうだ。
 けれども私が簪の価値よりも気になったのは、そのべっ甲の簪からゆらゆらと黒いモヤが立ち上っていることだった。しかもその黒いモヤは一部が糸のように伸びていて、保科くんの背中に繋がっているのだ。

「ほ、ほ、保科くん。あの簪、見て!」
「なんですか、いきなり」
「いいからアレ。なんか黒いの見えない?」

 私が簪を指さすと、保科くんは渋々と言った様子で落ちた簪へと視線をやった。

「べっ甲の簪ですね。状態はかなり綺麗ですが、本物かな?」
「いや、いまはべっ甲の真贋はどうでもいいから。あの簪から変なの出てるの、見えない?」
「変なの? なんのことです?」

 私の言葉に保科くんは首を傾げた。どうやらあの黒いモヤは、保科くんには見えていないらしい。明らかに怪しいそのモヤが、保科くんに繋がっているにも関わらず、だ。

「あの簪、触っちゃダメな品物だったんじゃない……?」

 おもえば、あの簪は厳重に紙で包まれて保管されていた。しかも、箱の中には霊符まで一緒に入っていたのだ。なにか簪に問題があって、そのお祓いのために霊符を簪と一緒に入れていたのではないかと疑ってしまう。

「まさか俺の怪談を聞いて怯えているんですか? 可愛い人ですね。大丈夫ですよ。呪われた品なんて、そう簡単に出てくるものじゃありません」
「今まさに、呪われたんじゃないかって感じに、保科くんがおかしくなってるからね?」

 思えば、保科くんがおかしくなったのもあの簪の開封中だった。梱包を解いてあの簪に触れてしまったから、何か悪いものが保科くんに憑りついたのではないだろうか。

 どうすればいいだろう。査定中にこんなおかしな品に当たるのは初めてだ。相談しようにも、保科くんは砂糖を溶かしたようなとろんとした甘い目で私を見つめている。とてもじゃないが、頼りになりそうにない。
 見た感じ、あのモヤからのびた糸が怪しい。保科くんの背中に繋がっているこれをどうにか切ることができたら、元に戻らないだろうか。

「保科くん、ちょっと後ろ向いて」
「どうしてですか?」
「すごくヤバそうなゴミがついてるの。取ってあげるから、後ろを向く」

 保科くんは首を傾げながらも、素直に私に背を向けた。素手でモヤの糸に触るのは怖かったので、しっかりと手袋をしているのを確認してから、そっと糸に触れてみる。けれども私の指は糸をすり抜けて保科くんの背中にぶつかった。
 なるほど。どうやら物理的に触れるわけではないらしい。

「ゴミ、取れました?」
「ちょっと難しいみたい」

 糸を保科くんから外すことは出来なさそうだ。だとしたら、やはりあの簪をどうにかするべきだろう。
 私は意を決して床に散らばった紙を拾った。簪が包まれていた紙だ。よく見れば、この紙の内側にも霊符と似たような奇妙な模様が描かれていた。怪しいモヤを放つ簪を触るのは嫌だったが、布袋ごと簪をむんずと掴むと元通りに紙でぐるぐると梱包した。ついでに落ちていた霊符も拾って、桐箱の中にまとめて詰めて蓋をする。
 これでどうだと思ったが、今度は桐箱からモヤがあふれ出た。だけども、さっきよりはモヤの色が薄い気がする。保科くんに伸びた糸も、こころなしか細く薄くなっている。

「うっ……!」

 問題の簪を桐箱に封印すると、保科くんが苦しそうなうめき声をあげた。がくっと膝をついてから、はぁはぁと大きく肩で息をしている。

「保科くん、大丈夫?」
「三枝先輩……?」

 ああ、よかった。呼び方が元に戻っている。
 保科くんは一瞬虚ろな目で私をみてから、さっと顔を朱色に染めた。そうして慌てて私から顔を反らして、今度は両手で頭を抱えた。

「…………俺、今、死にたい気分です」
「保科くん! 正気に戻った!?」
「ええ、はい。おかげさまで……いや、まだちょっと変かもしれませんが、とにかくさっきほど異常ではありません」

 その言い草はいつもの保科くんのもので、私は大きく息を吐きだした。
 よかった。保科くんがあのままだったらどうしようかと思ったよ。

「やっぱりおかしかったよね。さっきのこと、憶えてる?」
「もういっそ、忘れていたほうが良かったんですが。あいにく、全部覚えています」

 保科くんはそう言うと、はぁぁぁぁと大きくため息を吐いた。
 かわいそうなくらい顔が真っ赤だし、混乱した様子でマジか……嘘だろ……なんて呟いている。どうやら保科くんはかなり落ち込んでいるらしい。まぁ、無理もない。なにせ、私にむかって好きだの可愛いだの、さんざん甘い台詞を言った上にキスまでしたのだ。
 私だって、思い出しただけで顔が赤くなりそうだ。

「多分、あの簪のせいだよね? 保科くんが変だったの」
「先輩が簪をしまった途端に、思考がクリアになったので。おそらくはそうだと思いますが……」

 保科くんはそう言ってからちらりと私の顔を見て、それから思い切り顔を反らした。

「先輩、本当にすみません。まさか、自分があんなことをするなんて」
「うん、まぁ、かなり驚いたけど。でもまあ、事故みたいなものでしょう?」
「事故、ですか」
「保科くんの意思じゃなかったんだし。野良犬に噛まれたとでも思って、忘れるよ」
「野良犬……」

 保科くんは口元を指で押さえて、何かを考えるようにじっと目を伏せた。

「俺、けっこうやらかしたと思うんですけど。野良犬に噛まれたで済ませて良いんですか?」
「え? あ~、うん。でもまあ未遂だったし」
「キスはしましたけど」
「それくらいでいちいち責任取って! なんて言わないってば。ましてや保科くんの意思でもなかったわけだし」
「……そうですか。いや、まあ。そうですよね」

 保科くんの様子が少しおかしいのが気にかかったけど、それより気になるのはあの簪だ。私は床に置いた黒いモヤを放つ桐箱に目を向ける。実に不気味な現象だ。

「これ、なんなんだろうね。まだうっすらモヤが保科くんに繋がってるみたいなんだけど」
「俺にはそのモヤっていうのが見えないんですが。でも、なんとなく影響されてるなっていうのは分かります」
「そうなの? まだ、どっか変?」
「そうですね。先輩、ちょっと手を貸してもらっていいですか?」
「手? こう?」

 私が手を差し出すと、保科くんは私の手の平を両手でぎゅっと握って、ふぅと小さく息を吐いた。

「ああ、やっぱり」
「やっぱりって、なに? これって何の確認なの?」
「さっきから、妙に先輩に触れたくてたまらない感じがあるんですよね。しかも、こうやって触れていると、妙に落ち着くっていうか」
「げ、うっそ」

 私は慌てて保科くんの手を振り払って、疑いの目で彼を睨む。

「また、さっきみたいに変になったりしないよね?」
「あそこまで見境ない感じゃあないですよ。我慢できる程度ですが……まいったな」
「まいったなはこっちの台詞なんだけど。どうする?」
「あの簪が原因なら、離れればどうにかなるかもしれませんね。手早く仕事を終わらせて店に戻りましょう」

 保科くんの言葉に私は頷いた。とにもかくにも、あんなおかしな品物から遠ざかった方が良い。それからいつもよりも急いで物品のチェックを終わらせると、私と保科くんは協力して片付けを終えた。

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