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恋の始め方間違えました。

森野きの子

55.5

「まず思い出すのは、庭のとても歪で立派な松の木。大きな障子の引き戸。松脂色の板張りの廊下。母屋には行かない。という母との約束。
 母親は、政治家の愛妾めかけだった。認知はしてくれていた父は母屋で本妻と住み、離れには時々やって来た。あっちには子供が三人いた。長男は俺の二つ上。次男が同い年。末っ子の長女が一つ下だった。幼少の頃は、母屋と離れの間にあるだだっ広い日本庭園で、年の近いもの同士、大人の事情など知らず無邪気に兄妹としてよくよく遊んだ。そのうち、長男の彰義の態度がよそよそしくなって、小学校高学年の頃には、次男の忠義も兄に倣ったが、末っ子の淑子だけは変わらず俺になついていた。疎外感を感じつつ、中学校に上がる前に、母は俺を連れて都落ちした。故郷で小料理屋を開き、女手一つで俺を育てた。開業資金や生活費は手切れ金だったと思う。店には議員や地場の企業の重役から、画家や演奏家や名の通った小説家といった文化人までそうそうたる面々が集まった。華々しい母の生活に比べ、俺は、有名な妾の子供で、近所では無言の嘲笑の的にされ、学校では露骨に罵倒された。母はいつも綺麗な着物を着て、子供の俺ではなく、よその男達のために料理を拵えた。それが巡りめぐって俺のためだとはその時は思えなかった。着物を着て化粧をする母親を嫌悪していたけれど、憎みきれなかった。例えば、真夏の陽射しが眩しい日に、レースの日傘を差して、白に近い薄藤色の着物を着て歩く姿は、子供心にも美しいと思った。一枚の絵みたいで。小さなアーケードを歩くと、必ずと言っていいほど、男たちが吸い寄せられて視線をやるんだ。母は涼しい顔をして、どんな露骨な視線も一切気に留めず、前を向いている。そして、半歩後ろを歩く俺にだけ振り向くんだ。猫がいたとか、そんな些末な事柄で。不思議と誇らしげな気持ちになったよ。息子の俺が云うのも気味が悪いけれど、たぶん、そういう女ひとだったんだ。男の気を惹かずにはいられない。一方俺はというと、近所の大人たちや、同級生たちから、曰く付きの私生児として好奇と侮蔑の目で見られていたのが嫌でたまらず、学校の成績は常にトップを維持し、一番偏差値の高い公立高校に進んだ。他に意地を張れるものが見つからなかったから死に物狂いで勉強して、内申のために生徒会長にもなった。しかし、大学への進学は家庭の事情で叶わなかった。母にそこまで面倒を見られないとはっきりと断られた。その代わりと言っちゃなんだが、店の常連だった藤和工務店の前社長に拾われ、高校を卒業してすぐに藤和に入社した。いわば俺は母のコネで就職した。だから社長に恥をかかせまいと人の何倍も働こうと決心した。働き始めて結果を出せるようになると、周りの目も変わってきた。何より自信がついた。成果をあげれば挙げるほど、状況が変わっていった。中には、俺にはどうしようもないのに、出自が卑しいと嗤う奴もいた。どうしようもないものは仕方がないと開き直れた。そうすればプライドもないのかと煽られたりもしたが、気にならなかった。常に頭の隅にある、人の何倍も何十倍も働かなくちゃ認められない。という焦りがそうさせた。昇進して収入が増えて、客層の幅が拡がると、今度は父親の威光が効いてきた。前社長の投資が活きたってわけだ。俺も嬉しかった。そんなとき、美織と出会った。地主の娘で、モデルみたいに美人で派手な女だった。あっちからアプローチされて、俺は有頂天になった。正直、箔がつくと思った。けれど六年も付き合って結婚までしたが、結果はあのザマだ。告発の後の控え室で、美織の父親に、俺のせいだと云われた。どうせ仕事に託つけて遊び回っていたんだろうと。妾の子が当たり前の家庭を築ける筈がない。だから娘はあんなことをしたんだと。こちらが恥を掻かされたとまで。まあ支離滅裂だよな。でも、その罵倒を聞きながら俺は何を思い浮かべたと思う? 俺に付き従って懸命に仕事をするお前だよ。その頃には、俺にとって仕事が娯楽みたいなもんだったからな。お前を仕込んで遊んでたのかも知れない、なんて突拍子もないことを思ったんだ。確かに俺は遊び回っていたかも知れないって。変だよなァ。」
 彼は、くくっと笑った。

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