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恋の始め方間違えました。

森野きの子

79

 あれから真壁さんとは、合鍵を交換し、お互いの部屋を行き来するようになった。
 真壁さんは、すぐにでも結婚したいと言ってくれたけれど、ようやくラベンダームーンの新人としてお店に立たせてもらえるようになったので、あと一年は待ってほしいとお願いしたのだ。

 荒んでいた生活が嘘のように充実している。アルコールよりハーブティー、香水よりアロマオイルの出番が多くなり、夜型から朝型になった事で体調も精神も安定している。

 十一月になり、街がイルミネーションに彩られ、帰宅時間がさらに浮き足立ってしまう。今夜は私が真壁さんの部屋に行く日。待ち合わせをして商業ビルの間にある広場のイルミネーションを観ながら一緒に帰る約束をした。
 なんたって明日は久しぶりに互いの休みが一緒。俄然、下着にも気合いが入っている。我ながらなんて単純な女だろうと思いつつ、百貨店のパウダールームで化粧を直し、彼の好きな香水まで振った。
 今夜から明日の昼にかけて堕落する。思いきり堕落してやる。
 しなくてもいい決意を新たに、待ち合わせのカフェバーに向かう。メッセージはまだない。しかし、約束の時間はもうすぐだ。百貨店のパサージュの巨大なクリスマスツリーが華々しくロマンチックな気分にさせてくれる。素敵な夜になる。そんな確信めいた予感を胸いっぱいに抱きながら、カフェバーに入った。
 本物に近い苺の香りがするロゼのスパークリングワインを注文してテラス席に座る。
 苺と辛口のスパークリングワインの組み合わせを思い出し、口がそれを求めてしまった。よし。後で買おう。素敵なフルートグラスの中の薄紅色を眺めていたら、視界に人影が立った。
 顔を上げるとそこには、浮かない顔の恋人が。
「……どうかしました?」
「……した」
 真壁さんは向かいの席に腰をおろすと、深いため息をついた。仕立てのいいオーダーメイドのスーツまでなんだか草臥れて見える。
「そんなにしょぼくれてなにがあったんですか?」
「……会長が懇意にしている議員の娘に気に入られてしまった」
「え……? きっかけは?」
「パーティだ」
「あら華やか」
「連絡先を聞かれて困っている」
「まだ教えてないんですか?」
「教えるわけないだろ。気を持たせてどうする。」
「たしかにそれはそうですけど、会長との兼ね合いとか、……どうなさるんです?」
「そうなんだ。たった一週間でかなり気まずくなっている」
「あらぁ〜……」
「婚約指輪を買っておかなかったことを後悔している」
「なんやかんや忙しなかったですもんね」
「涼子はどうしてそんなに他人事なんだ?」 じとっと睨まれて、自分が思考停止していたことに気づく。
「驚きのあまり頭がちゃんと回ってないからです」
「その割には会長との兼ね合いを心配してくれたじゃないか」
「会社勤めしていた反射ですかね」
「そんなもの早く忘れろ」
 と、いわれましても。
「会長には婚約者がいると言ったんだ。けれど……」
 真壁さんはグッと言葉を飲み込むようにして、またため息をついた。
 彼の立場を考えると、そのお嬢さんとお付き合いをして、そのまま上手く行けばそちらと婚約した方がいいと思う。
「婚約指輪、買いにいくか」
 その提案に私は素直に従う気になれない。
「そういう流れは嫌です」
 真壁さんが私を見る。
「じゃあ、いつならいいんだ」
「今じゃないことは確かですね」
「俺が結婚したいって言った時にもまだだと言った。おれはいつまで待てばいいんだ?」
「急いでないって言ったのはあなたじゃないですか」
「あの時と今は状況が違うだろ……」
「私はまだ色んなことが始まったばかりなんです。結婚の準備までできません」
「……わかったよ。この話は一旦保留だ」
 真壁さんはそういうと、ウェイターを呼んでグラスビールを注文した。
 運ばれてきたグラスビールを場にそぐわないスピードで飲み干すと、彼は会計を済ませて戻ってきた。
「会長を通すより、彼女と直接会って話をしようと思う」
 提案というより確認だ。この人の中でやることは決まっているのだろう。
「そんなことをして後は大丈夫なんですか?」
「なんの心配をしている?」
「私なんかより、その方と結婚した方が――」
 私、何を言ってるんだろう。口を噤んだけれどもう遅い。ハッと怒気に満ちた笑いがして、彼を見る。
「おれはここまで自力で昇ってきた。今更色恋を手段にする必要などない」
「……そうでしょうか?」
「見くびられたものだな。まあいい。お嬢さんには婚約者がいることを伝える。あと俺がバツイチのいわくつきだってこともな。そうすれば相手から断ってくるだろう」
 そして私の手を握る。
「俺には涼子しかいないっていっただろう」
 そして、そっと耳打ちされる。
「帰ったらどれだけ俺に涼子が必要か、思い知らせてやる」
「そんな」
 慌てて見上げると、してやったりと言わんばかりの笑顔を向けられ、キュンとした。
  憂鬱な気分が晴れ、私はもう真壁さんに心を奪われてしまっている。
 我ながら実に単純だ。彼のためになるなら身を引こうとも思ったのは嘘じゃないけれど、それが現実になった時のことを考えると、あまりにも暗澹としてやるせない。今さらこの人と離れるなんて、できもしないくせに。
 それに、彼なら可愛いお嬢様に上手く振られてくる。
「可愛いお嬢様に振られた時は私が慰めて差し上げます」
「そうしてくれると有難い」
 彼のつき出した腕に手を置き、立ち上がる。当初の予定通りイルミネーションを眺めながら歩いていると、少し申し訳なさそうな声で真壁さんが言った。
「さっきはタイミングが悪かったが、本当にそろそろ婚約指輪くらい買わないか?」
「婚約指輪をですか?」
「涼子は必要性を感じていないのか? まさか欲しくないってわけじゃないだろう」
 そう言われて、答えに詰まる。個人的に欲しいかと訊かれたら、どちらかと言えば、欲しいと思っていないかもしれない。
「結婚指輪だけにしませんか。結婚式もなくていいです。籍を入れるだけで」
「俺の事なら気にしなくていいよ。涼子は初婚だし、憧れたりしないのか? ご両親だって式は挙げて欲しいだろう」
「私、もう三十三ですよ。二十代ならまだしも、それに両親は会社をクビになってキャバクラで働いていた娘を恥ずかしく思っているので」
「その上相手がバツイチだもんなあ」
「脛に傷ありの娘を貰ってくださるだけ有難いと思いますよきっと」
「バカ言うな。大事な娘だぞ、色々言うのは不幸を願っているからじゃない。逆だからこそ、つい辛辣な言い方にもなってしまったんじゃないのか?」
「でも、いくらなんでも言われた方の傷は残ります。肉親だからと許しているつもりでも、それは……。自業自得ですけれど……」
「その件については俺が悪いからな。一生をかけて償わさせてくれ」
「償いで一緒にいられるのは嫌です」
「もちろんそれだけじゃない」
「そもそも、こうしてまた一緒にいられることで、恭一さんが私を必要としてくれていることで充分です。あれはあなただけが悪いんじゃなくて、私たちの最大の失敗でした」
「涼子がそう言ってくれると俺は救われるよ。お前だけだ。俺を許してくれるのは」
「そんな、大袈裟ですよ」
「そんなことない」
 私を見つめる翳りを帯びた眼差しに、なんだか切なくなる。
「さっきは、ごめんなさい。他の方との結婚を勧めたりなんかして」
「いや、予想の範囲以内だ」
 軽く笑って歩みを促す。
「それにしても、議員のお嬢様に見初められるなんてさすがですね。おいくつくらいの方なんですか?」
「二十三歳。都内の大学を卒業したばかりで就職祝いに一度デートをとお誘い頂いてしまったわけだ」
「ははあ。さすが真壁さん。モテますねえ」
「ははは。今日日大学を卒業したばかりのお嬢さんが何を喜ぶなんか全くわからないおじさんなんだがな。なにが琴線に触れたのか」
「とりあえずその存在かと」
「容姿か? 仕事柄、身なりには気をつけているからかな」
 何をのんきなこと。魔性のフェロモンにあてられ続けて身持ちを崩した女がここにいるというのに。
「バツイチで婚約者がいるとなれば、あちらもすぐに諦めるだろう」
「そうですね」
 だといいのですが。内心つけ加えて、惚れた欲目かと笑ってしまった。
「そんなことより、涼子のご両親への挨拶はどうする?」
「え。いきなりですか?」
「いきなりじゃない。やらなきゃいけないことをまだ何一つしてないんだよ、俺たちは」
「ちょっと聞いときます」
「急ぎで頼むぞ」
「わかりました」
「業務連絡みたいだな」
 と、苦笑する。私もつられて笑う。
 その傍らで胸の中は重くなる。両親との仲はこの数年であまり良好とは言えなくなっている。なんて言われるんだろう。いや、考えても仕方がない。
 それにしても、私、自分のことばかり考えていた。
 真壁さんの優しさに甘えて二人ですべきことを後回しにしていた。
「明日、午後から指輪見に行きたいです」
「そうか。じゃあ、そうしよう」
 真壁さんは柔らかく微笑んだ。

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