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恋の始め方間違えました。

森野きの子

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 といえやっぱり部屋にいたくなくて、行く宛もなかったけれど、街に出た。出勤の十九時まで、何をして過ごそう。映画館、美容室、コーヒーショップ……。退屈しないだけの施設がたくさんあるけれど、どれもピンと来ない。

 駅前で若い女性がチラシを配っていた。なんとなく目を落としてみると、アロマテラピーのリンパドレナージュのお店の勧誘だった。

「これから、受けられますか? この180分の全身コースなんですけど……」

「もちろんです! どうぞこちらです」

 案内されたのは、駅ビルの居住区の一室。三日前にオープンしたばかりの女性限定のサロンだった。

「飛び込みでごめんなさい。大丈夫でした?」

「もちろんです。ありがとうございます」

 つるりとした陶器のような肌に薄紅色の頬。夏の花を思わせる明るい笑顔だった。

 室内は飴色に照らされ、ヒーリングミュージックと、ラベンダーとイランイランの落ち着く香りが漂っている。すすめられたソファもさらりと心地好いラタンにコットンのクッションの組み合わせだった。初回とのことでカウンセリングシートを記入して、簡単な問診を受けて、別室で服を全部脱いでペーパーショーツとガウンに着替えた。用意が終わったら、彼女の指示に従い、ベッドにうつ伏せになる。失礼しますね、と優しく声を掛けられ、柔らかで温かい手が肩に当てられた。まずは両手で、肩、肩甲骨周り、背中、腰、臀部付近の順に、やんわり圧をかけられた。そして温められたオイルが垂らされる。メープルシロップをかけられたホットケーキが脳裏に浮かんで口許が緩んだ。女性の柔らかい手に徐々に体の強張りがほどけていく。ぽかぽかしていつの間にか深い眠りに落ちてしまった。

 失礼します。と、優しく起こされて、驚きながらも、仰向けに、と促されるまま従った。まだ目の周りがぼんやりと重くて、目を開けられないまま、ゆっくり体勢を変える。彼女の手技を受けながら、水商売を辞めて、こういう職に就こうと思った。

 結局、時間一杯うつらうつら微睡んで済んでしまったけれど、気持ちは穏やかだった。終わりに出されたミント系のハーブティーもよかったのかもしれない。誰かに丁寧に触れてもらえる体験は大事なんだと思った。捨て鉢にならずきちんと過ごしていればと悔やまれたが今更で、どうあがいても意味なんかない。

 ティールームで時間を潰して少し早めに出勤すると、更衣室でユカリちゃんと一緒になった。

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