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恋の始め方間違えました。

森野きの子

59

「泣きたいのはこっちだ。」

 彼は立ち上がり、車の鍵を手に玄関へ歩いた。

「待ってください。これ、」

 ナイトウエアの入った紙袋を手に後を追いかけると、彼は紙袋を一瞥した。

「これで充分だ。仮初めの女からの贈り物なんか俺は欲しくない」

「なら、スーツはおいて行かないで下さい」

「ハンカチ代わりになるだろ」

「涙が止まらなくなりそうなので結構です」

「可愛いのは口だけだな」

 鋭い目つきの、口の端だけの笑みを見せる。

「シャツも洗濯しちゃったんです。だから……」

「捨てといてくれ。お前には簡単なことだろ?」

 彼は出ていった。背後の朝日が眩しくて、目がちかちかしている。風も手伝い、重い鉄の扉が大袈裟な音を立てて閉じた。呆気ない幕切れだった。

 泣くのは間違っている。あの人は私の我が儘に応え、文字通り全身全霊で尽くしてくれた。私の欲しいものは与えてもらった。でも、私からは何も返さなかった。押しつけただけの、狡い女だ。

 自分でも莫迦だと思う。つまらない意地を張らず、あの人に甘えればよかったのかもしれない。でも、そうしてしまえば、私があの人を貶めてしまう。もう、貶めてしまったかもしれないけれど、別れたのは、地に墜ちる僅か手前での、せめてもの、ささやかな抵抗のつもりだった。あの人をただの浮気相手にしたくなかった。恋い焦がれ、愛おしくてたまらない、たった一人の男ひとだったから。

 それに、あの人は今や一企業の重役だ。そんな人が水商売上がりの女と遊びの範疇を越えただなんて知られたら、どんなことを云われるか。どんな目で見られるか。あの人はきっとそれでも私を選んでくれようとしたのだと思う。けれど、私のせいで、今まで彼が積み上げてきた功績や我慢が無下にされ、嘲笑されるのは耐えられなかった。すべて私の利己的な独りよがりだとしても。

 洗濯物が出来上がる音がした。私は一人、自ら始めた茶番劇のラストシーンを続ける。軒下に洗濯物を干した。スーツをクリーニング屋さんへ持っていく。風は爽やかで、少し肌寒いくらい。頭上には夏空が広がっている。晴れててよかった。部屋に戻ってからは、シーツや枕カバーを洗い、敷きマットを干した。台所脇のペールの中の市の指定ごみ袋には、くちを固く縛ったレジ袋。中身は結構な量の丸めたティッシュやコンドームの箱らしきものやら生々しい残骸。こんな後始末までさせてしまったのかとつくづく申し訳なくなる。

 物を捨てた所で、体の記憶は消せない。内側にある痛みがあの人と繋がっていた確かな証跡。あっという間になくなってしまうような感覚でも、生涯忘れられない。あの人の面影を追って過ごすのもきっと悪くない。

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