シュガーレス・レモネード

umekob.

第25話 無糖のしがらみ

 結局、私と綾人くんはあのまま三度も肌を重ねた。
 終始主導権は彼に握られ、宣言通り激しめに交わる事になった昨晩の営み。途中で休憩を挟んだとはいえ、ほんの僅かな睡眠時間の合間に三回も行為を繰り返して朝を迎えた結果──現在、とてつもなく体が痛い。ついでに眠い。
「う……腰が……」
 遅刻ギリギリの時間にゲートをくぐり、エレベーターの壁にもたれ掛かる。結局昨晩はほぼ朝方まで綾人くんと交わっていて、寝不足な上に疲労困憊の体でバス停まで全力疾走する羽目になった。
 さすがに綾人くんも反省していたようで、「ごめん、やりすぎた……」と気まずそうにしていたけれど──私がシャワーを浴びて出社の準備をしている間中、「もう行っちゃうの……?」と私を抱き締めて時間ギリギリまで離そうとしないその行動はまさに子犬さながらで。
 普段は口数も少なくて素っ気ない態度のくせに、二人になると甘えてくるのだから彼はずるいと心底思う。
(……玄関から出ていく私を見送る時の顔、完全に捨て犬と同じ顔だったもんなあ……)
 垂れ下がった耳や尻尾の幻覚すら見えたような気がして、私は小さくかぶりを振った。
 ちなみに昨晩リビングで寝ていた雷蔵くんは朝になっても相変わらず気持ちよさそうに床で爆睡していて、おそらく一度も起きていない。綾人くん曰く「コイツは一回寝るとなかなか起きない」との事らしい。
(そう言えば、バタバタしてて気付かなかったけど……前に綾人くんがルームシェアしてた友人って、多分雷蔵くんの事だよね?)
 だとしたら、私はあのまま綾人くんの家に居ていいのだろうか。元々の家主が帰ってきたんだから、私は出て行くべきなんじゃ……。
 そう懸念しつつオフィスに入って「おはようございます……」と挨拶を紡げば、疎らな返答がぽつぽつと返ってくる。どこか控えめなそれにハッと我に返って思い出したのは、社内に自分の悪い噂が広まっているという事だった。
(あ……! そうだ、私、いま男遊びしてるって噂流されてるんだっけ……)
 自分の肩身が狭い事を思い出し、途端に重みを増す胸。気まずいまま自分の席に腰掛けると、不意に私のスマホがメッセージの受信を報せて小さく震えた。
「……? 誰だろ……」
 新着メッセージ一件、という通知をタップして中身を開く。やがて画面に表示された名前は、〝武藤 綾人〟の四文字。
(──え!? 綾人くん!?)
 ガタッ、と思わず膝がデスクに当たってしまい、その場には大きな音が響いた。たちまち周囲の視線が突き刺さり、「あ、すみません……」と縮こまりながらも、私はスマホの画面を再度凝視する。
(嘘……何で綾人くんが……? だってあの人、SNSは何もやってないって言ってたし……また別人? 偽アカ? 成りすまし?)
 これでもかと疑いながら、恐る恐るとアイコンをタップした。大きく表示された画像は彼のプロフィールに設定されている一枚の写真。それは綾人くんの顔写真ではなかったが──『封』と書き記された見覚えのある付箋が、これ見よがしに大きく映し出されている。
 その写真を見た瞬間、私は確信した。
「本物の綾人くんだ……!」
 それは先日、彼が「もう吸わない」と宣言して煙草と灰皿をしまい込んだ引き出しに貼られた付箋と全く同じだった。途端に胸が高鳴り、すぐさまメッセージを確認する。絵文字もなくシンプルな文面で、それは私に送られていた。
『ムトウです』
『あ、そっちもムトウか』
『ライゾーに聞いて、電話番号から六藤さんのアカウントにメッセージ送る方法教えてもらった』
『俺のも登録しといて』
 淡白に綴られたメッセージだったが、たったそれだけの事で私の胸は砂浜で見つけた綺麗なガラス石みたいにキラキラと踊ってしまう。彼と共有するものは、まるで紐で繋いだビーズの一粒。ころんとひとつ増やす度、色鮮やかに心をいろどる。
 すぐに入力フォームをタップした私は、頭を捻って言葉を選びつつ彼への返信を打ち込み始めた。
『うん! 登録した!』
『よろしくお願いします! ムトウです!』
『あ、そっちもムトウか! 笑』
 半分おどけた風のメッセージを送信して、大丈夫かな、変じゃないかな、と一抹の不安を抱えつつ彼からの返信を待つ。けれどスマホが震える前に、「六藤さん!」といつもの高い声が耳に届いた事で私はぎくりと身を強張らせた。
「……っ、ま、真奈美さん……!」
 まずい、と焦燥を抱いてスマホをデスクに置く。いま一番会うのが気まずい彼女がヒールを鳴らして迫る中、今日はどう突っかかってくるつもりだろうかと私は息を呑んだ。相変わらずその全身はハイブランドで統一され、指にはキラキラとネイルのストーンが輝いている。また合コンにでも誘うつもりだろうと身構えた頃、彼女は突として私の手を握り取った。
「今までごめんなさい、六藤さん! 私、あなたを誤解してたわ!」
「……っ、は……?」
 しかし、程なくして私が投げかけられたのは予想だにしない言葉。なんの前触れもなく笑顔で謝罪を告げた真奈美さんは不気味な程に眉尻を下げ、「本当にごめんなさいね」と再度繰り返す。
 一体何の魂胆だろうか。私は眉をひそめ、鳥肌すら浮かぶ腕に絡みついた彼女の手をやんわりと振り払った。周囲の視線は当然私たちに注がれている。
「な、何なんですか? 急に……」
「あなたの噂を鵜呑みにして、ずっと誤解してたから……謝りたかったの。ごめんなさい六藤さん、男遊びしてるだなんて、本当にひどい勘違いよね!」
 これ見よがしに大声を張り上げ、あたかも自分だけが理解者であるかのような口振りで大衆に言い聞かせる彼女。私は無意識に顔を顰めた。
 何が『噂を鵜呑みにして誤解してた』なんだか。根も葉もない悪評を自分が言い触らしたくせに。
 呆れてものも言えない私は眉間に深くシワを刻み、一瞬突き放してやろうかと魔が差したが──これでも立派な社会人。もう大人なのである。腹が立つ事この上ないが、ここで下手に反論すれば「先輩の謝罪を無下にした性格の悪い若手」として逆に自分の肩身を狭める結果になるであろう事ぐらいは容易く想像できる。
 人の心は悪意に満ちた正義感に傾きやすいのだ。ここは穏便に同調してあしらった方がいい。
「……大丈夫です。気にしてないので」
 努めて穏やかに微笑めば、相手もにこりと朗らかに微笑む。先程振り払った両手も再び掴み取られ、「ほんとー? 良かったあ」と強く握られて私は更に訝しんだ。一体何を考えているのかと動向を探っていれば、彼女はこそりと耳打ちする。
「……ほら、これで変な噂も止まるでしょう?」
「!」
「あなたのお願い、ちゃんと聞いてあげたわよ」
 くすり、密やかに笑う吐息が耳にかかった。
「だから、今度はあなたが私のお願い聞いて? 六藤さん」
 そう続いた言葉に、私の胸には嫌な予感が煙のように広がる。
 コーラルピンクのグロスを引いた唇は弧を描き、不気味な笑顔を浮かべているのだろうと容易く想像がついた。私の耳元に顔を寄せた彼女は、振り撒いた香水のフレグランスに紛れて密やかに毒を注ぐ。
「アヤトさん──貸してくれない? 一晩だけ」
 掴まれた手のひらに滲んだ汗を、私はたちまち握り込んだ。なるほど、そういう魂胆か、この狡賢い女狐。
「……お断りします」
 低い声で、けれど鮮明に答えを紡いだ。驚くほどにすんなりと、その言葉はこぼれ落ちていた。
 真奈美さんは片眉をぴくりと動かし、体を離して私を見据える。
「彼は、あなたに譲れる物じゃありません。私の物でもありませんけど。それでも彼は譲れません」
 告げて、密着する体を押し返した。真奈美さんはしばらく無表情に黙り込んでいたが、やがてにこりと笑顔を作る。
「……あら、そうなのぉ? 付き合ってるんじゃないんだ! えー、なんかごめんなさい! 仲が良さそうだったからぁ、てっきり恋人なのかと思ってた〜。じゃあ、やっぱりキープの一人って事? やだ〜」
「キープでも、遊びでもないです。私は彼の事が好きですから」
 自分でも信じられないほど流暢な言葉が、次々と喉から飛び出していく。頭にきたとか、独占欲に飲まれたとか、そういうのとは違う類の衝動が胸を震わせて自然と声を発していた。
 彼は私の物ではない。
 ゆえに彼女を咎める権利もない。
 でも、絶対に渡したくない。
「どんな噂を流されても、別にもう構いませんよ。私がどう見られようと関係ないですから。男好きだと思ってもらって構わないし、誰とでも寝る女だと周りに思われていても別にいい」
「……っ」
「だって、私だけが知っていればいいんだもの。……私の好きになった人は、たった一人、あの人だけだって」
 ──放課後、部活動に励む後輩達の活気ある声、空に伸びる飛行機雲。
 オレンジ色に染まる非常階段の踊り場で、檸檬の香りをくゆらす彼と私だけが、世界から切り離された誰も知らない空間に座り込んで短い髪を揺らしていた。
 何年も前の事だけれど、今ならば分かる。
 あの頃から私は、彼しか見ていなかった。
 彼と過ごす、甘いだけのあの時間しか、求めていなかった。
「私は、綾人くんが好きです」
「……」
「……だから、あなたには渡しません」
 まっすぐと言葉にすれば、不意に感情が膨れ上がって目頭が熱くなった。咄嗟に顔を逸らした私はこぼれかけた涙を堰き止め、「話はそれだけですよね。もう朝礼が始まるので」と矢継ぎ早に続けて背を向ける。
 しかし、真奈美さんが掴んだ腕は解放されず、それどころか更に力が強まって長いネイルが肌に食い込んだ。
「……っ、痛……!」
「残念ね。せっかく助けてあげようと思ったのに」
 ──どうなっても知らないから。
 まるで脅しのような言葉を耳元に告げて、真奈美さんはようやく私から離れた。最後に彼女はにこりと微笑み、「業務中に私用の連絡は控えた方がいいわよ」と警告して背を向ける。
 カツカツとヒールを鳴らして離れていく背中。嫌な音を刻み続ける心臓。じろじろとまとわりつく周囲の視線とざわめきに心が落ち着かないまま、私はおずおずと自分の席に腰掛けた。
 手に取ったスマホの画面には、綾人くんから受信したメッセージの続きが表示されている。それがふと視界に入って、私は濁り始めていた心をなんとか持ち直した。
『あのさ、明日休みだよね?』
『俺も休みなんだけど』
『ウサギーランドのチケットあるから、一緒に行きませんか』
『二人で』
 これは、デートのお誘いだろうか。
「……行きます、と」
 少し軽くなった気がする指先で返事を綴って、ぽんとワンタッチでそれが送信される。
 すぐについた『既読』の文字。たったそれだけで、また心の中がビーズの粒で埋まっていくようで少し嬉しくなってしまう。
 綾人くんも私と同じような気持ちで、この答えを待っていてくれてたらいいのにな……なんて考えていたら、また彼からの返信。
『じゃあ、明日はデートの練習、よろしくお願いします』
 ──練習。
 視界に入ったその二文字の現実が、紐に通し続けてきたビーズの粒をぱらぱらと床に落としてしまう。私は受信したメッセージに目を細め、指先を静かにスクロールさせて、可愛らしいキャラクターがお辞儀しているスタンプをひとつ選ぶとそれだけ彼に送り返した。
 練習──それは、十年前から何度も繰り返されている言葉。私と彼を無糖のキスで繋いでいた、透明な包み紙の中の痺れるしがらみ。
「……私はもう、練習じゃ、嫌だな……」
 ひとこと、小さく呟いた頃。
 朝礼の始まりと共に、私はスマホの画面をそっと机に伏せた。

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