シュガーレス・レモネード

umekob.

第16話 君を思い出すから

 ネオンの光と賑わう街並みを眺め、私は開いた窓から吹き込んでくる冷たい風に身を震わせた。狭いタクシーの後部座席。隣には武藤くん。車のトランクには、私の衣服や生活用品の入ったキャリーバッグが詰め込まれているはずだ。
 ──俺ん家、来る?
 そんな突飛な誘いにも関わらず、思わず頷いてしまった単純な私。簡単に荷造りを済ませて武藤くんと共にあのアパートを出たのが、ほんの数十分前の話である。
 セフレ紛いな関係を続けている相手の家に転がり込むなんて、ちょっとどうなんだろう……と今になってようやく冷静になり始めるが、あの男がまた家に乗り込んでくるのではないかという恐怖心の方が勝ってしまい、今更戻る気にもなれなかった。
 武藤くんの話によれば、最寄り駅の沿線は違うものの場所自体はうちから結構近いらしい。地区名を聞いてもピンとこなかったが、彼いわく「場所はマイナーだけど、周辺環境はいいし家も広いよ」との事だった。
 なんでもひと月前まで友人とルームシェアをしていたそうで、部屋がひとつ余っているのだとか。
「か、カノジョと住んでたの……?」
 恐る恐る尋ねれば、「違う、男。フツーに学生時代の友達」とあっさり予測を覆される。つい安堵してしまったのは、きっと気の所為だと思いたい。
「そいつ、めちゃくちゃギターうまくて、学生の頃からずっとミュージシャン目指しててさ。波長合うから三ヶ月前まで一緒に住んでたけど、なんか急に『武者修行の旅に出る』って置き手紙残して消えた」
「え……それって大丈夫……?」
「大丈夫なんじゃん? よくある事だし。前もいきなり半年ぐらい居なくなったかと思えば、ある日突然帰ってきたんだよ。どこに行ってたのって聞いたらイギリスに居たって」
「ええ……」
 自由過ぎる同居人の話に頬を引きつらせれば、「まあ、そういうヤツだと思っといて」と雑に会話をまとめられる。いやいや、そういうヤツって言われてもピンと来ないんですけど……と、そうこう考えている間にタクシーで移動する私達の周囲は住宅街へと風景を変えていた。
 もう冬も近いと言うのに窓を全開にしている武藤くんは、どこか曇った表情で流れていくその景色を眺めている。心做しか顔色も些か悪い気がして、もしかして車酔いするタイプだったのかな、と焦燥が胸に満ちた。
「あ……ご、ごめん、武藤くん……車酔いしてる? たくさん話しかけちゃってごめんね」
「え? ……ああ……違うよ、酔ってるわけじゃない。いつもの事だから気にしないで」
「……? いつもの事って……」
「あー、えっと……俺、狭いところとか密閉されてる空間がちょっと苦手でさ……正直、最初に六藤さんと行ったカラオケの個室もちょっと微妙だったぐらいなの。小学生の頃に体育館倉庫に閉じ込められた経験あって、情けない事にそのトラウマが大人になっても治んないというか……」
 そう言い、彼はこちらに視線を向ける。
 言われてみれば、たしか以前も「狭い所が苦手だからエレベーターに乗れない」と言ってオフィスの高層階まで階段を使って登って来た事があった。
(……閉所恐怖症へいしょきょうふしょう……てやつなのかな……?)
 だとしたら、わざわざタクシー捕まえない方が良かったかも。そう考えて若干後悔していれば、武藤くんは言葉を続けた。
「でも、窓開けてりゃ平気だから大丈夫だよ。あとたくさん喋ってると気が紛れるから、話しかけてくれた方が嬉しい」
「ほんと……? 無理しないでいいからね……?」
「いや、全然無理してない。いつもなら冷や汗とか震えが止まんなくなるんだけど、今日はそんな事ないし……カラオケの時も平気だった。やっぱ、六藤さんが一緒に居るからだろうな」
「え?」
「ううん、何でも。……あ、運転手さん、ここで止めて下さい」
 薄く笑った武藤くんは不意に顔を上げ、高級感のある大きなマンションの前でタクシーを止める。え……と戸惑う私に構わず「ここ、俺ん家」と指差しながらキャッシュレスで支払いを済ませた彼は、タクシーを出るとポケットからカードキーを取り出した。
 私も慌てて彼の後に続き、タクシーの運転手さんにトランクの荷物を取り出して貰いながら目の前のマンションを見上げる。
 外観からすでに高級そうな雰囲気がこれでもかと漂うマンションの入口。圧すら感じる高層階を見上げ、私はぽかんと呆気に取られるばかりだった。
 え、待って……めちゃくちゃ良い家に住んでない? これ何? タワーマンションってやつ?
 完全に放心状態の私を他所に、出入口の読み取り口へカードキーを差し込んだ武藤くんは「何ボーッとしてんの」と呆れ顔で私に手招きする。ハッと我に返って慌てて彼の傍へと駆け寄れば、ロビーへ続くドアが自動的に開いた。大理石調の床が続くロビーにも革のソファや観葉植物が置かれ、まるで高級ホテルさながらだ。
「え、あ、うわ……! す、すごいお家に住んでるね……!? めちゃくちゃ高いでしょ、ここ……!」
「まあ、上の方は高いだろうけど……俺の部屋は低いフロアにあるし、一人で住んでるわけじゃなかったから。家賃は友達と折半だし、負担はそこそこって感じ」
「そこそこの値段でこんなとこ住める!? そ、それに今は一人暮らしなんでしょ……!?」
「そうだけど、まだ友達の口座からも毎月家賃振り込まれてるみたいなんだよね。多分帰ってくる意思はあるんじゃない? 今はそれでアイツの生存確認してる感じ」
「へ、へえ……」
 なんとも独特な関係性だな……と頬を引きつらせ、私は黙って彼の背中を追いかける。すると、彼はエレベーターの前で足を止めた。
「六藤さん、先にエレベーターで上がってて。三階だから」
「……え、武藤くんは?」
「俺は階段で」
「あ……」
 そっか、と先程の閉所恐怖症の話を思い出す。しかし自分だけがエレベーターを使うのもなんだか気が引けて、私は背を向ける武藤くんの服の裾を思わず掴んでしまった。
「!」
「……あの……私も、階段で……」
「え? いや、別に気使わなくていいよ。俺慣れてるし……」
「わ、私、階段が好きなの!」
 咄嗟に放った言葉。しかしすぐさま冷静になり、『いや階段が好きって何!?』と自分の発言に訝る。案の定、武藤くんはぽかんと呆気に取られていた。
「……階段、好きなの?」
 程なくして問いかけられ、私の視線は泳ぐばかり。そもそも階段に好き嫌いなどあるのだろうか。いや、好きと言ってしまったのは私だけれど。
「う、うん……階段、すき……」
 ぎこちなく答えて、握り込んだままの彼のシャツの裾から手を緩める。なんだか急に恥ずかしくなってきた──と、そう考えていれば不意に緩めたはずの手を掴み取られた。
 彼は私の手に指を絡め、階段の入口へと歩き始める。
「む、武藤くん……」
「……俺も好き。階段」
「え……」
「六藤さんの事思い出すから」
 小さな声で、しかしはっきりと告げて、彼は私から顔を逸らしたままキャリーバッグを奪うと階段を上がっていく。その表情を窺い知る事は出来なかったが、ピアスの光る耳は赤みを帯びているような気がして──またとくりと胸が高鳴った。
 階段で、私の事を思い出す──その言葉によって、すぐに脳裏を駆けたのは中学校の非常階段。秘密の口付けを繰り返したあの階段の事を言っているのだと理解した瞬間、迫り上がる熱がたちまち顔面を覆い尽くす。
 ああ、まずい。握られた手が汗ばんでしまう。
「……あ、あの……む、武藤くん、キャリーバッグ重いでしょ……? 持つよ、私……」
「……ここはカッコつけさせて欲しいんだけど」
「そ、そ、そうだよね! ご、ごめん、あはは……」
 焦りを誤魔化そうと笑うが、武藤くんはやはり振り返らない。やがて私達は三階へと辿り着き、一番近くの部屋の前で立ち止まった彼はようやくこちらに顔を向けた。先ほど赤みがさしていたように見えた肌は、今では通常の色に戻っている。
「……ここ。俺ん家」
「は、はい! しばらくお世話になります!」
「なんで敬語?」
「な、何となく……」
「変なの」
 ふ、と笑って、同時に開く玄関の扉。「どうぞ」と招き入れられた私は、緊張しつつも頷き、武藤くんの部屋へと足を踏み入れたのだった。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品