シュガーレス・レモネード

umekob.

第15話 二人分の波形

 沈んだ気持ちは晴れぬまま、私は彼に支えられたまま自宅の扉の前に立つ。武藤くんの衣服には僅かに汗が滲んでいて、そういえばさっきも呼吸が酷く乱れていたなと思い出した。きっと、走って駆け付けてくれたのだろう。私との電話が途切れてから、全速力で。
(……私が、勝手に勘違いしたのに)
 胸がきりりと締め付けられて、また無意識に俯いた。
 先程迫ってきた男は、真奈美さんが以前『アイジくん』と名前を口にしていた男だ。昨晩のメッセージに表示されていた〝A〟のイニシャルは、アイジという名前の頭文字だったのだろう。
 送られてくる文章も武藤くんにしてはあまりにくだけた口調だったし、よく考えればすぐに別人だと分かったはずなのに。一人で勝手に舞い上がったり沈んだりした挙句、勘違いだと分かって家に上がり込まれそうになって、関係なかった武藤くんまで巻き込んだ上にご近所さんにも誤解されて──ああ、本当に馬鹿だな、私。なにこれ、最悪じゃん。
「……ごめんなさい」
 鍵を手にしながらか細く声を発すれば、武藤くんは眉を顰めた。
「……? 何?」
「迷惑、かけたから……謝りたくて……。全然関係なかったのに、勘違いで巻き込んじゃって、ごめんなさい……」
 力無く告げ、部屋の扉の鍵を開ける。慣れ親しんだ室内に足を踏み入れて玄関の扉を閉めると、その瞬間ドッと安堵感が私の胸を包み込んだ。
 もし、あのまま武藤くんが来なかったら。私、今頃、あの男に身ぐるみを剥がされていたのかもしれない。乱暴されていたかもしれない。最悪殺されていたかもしれない。
 それに、あのメッセージの送り主は武藤くんではなかった。だとしたら、つまり──。
(……真奈美さんと、武藤くんの間にも……何もなかったって事だよね……?)
 その事実を再度噛み締めて、なんとも言えない強い感情に胸が震えた。抜け殻のようになっていた心が、ほんの少しだけ何かで満たされたような気がした。……なんて言えばいいんだろう、この感覚。
「……六藤さん」
 不意に、呼び方をいつも通りのそれに戻した彼の声が投げかけられた。なに、と返事を紡ごうと口を動かして──けれど、それが言葉となる前に強く腕を引かれる。
 瞬きをひとつ終えた頃、とん、と顔面に押し付けられたのは武藤くんの胸元。途端に彼の着ていたシャツが濡れて、汗だろうかと一瞬考えたが、どうやら違う。
「……大丈夫。大丈夫だから」
「む、とう、く……」
「──泣かないで」
 優しく囁いた声。その言葉によって、ようやく頬に伝う冷たさに気が付く。
 あれ? 私、いつの間に泣いてたんだろう。
 けれど自分が泣いているのだと理解した瞬間、どこかで塞き止められていた何かが一気に溢れ出した。途端に視界がぼやぼやと滲んで、砕けた感情の欠片が目尻からこぼれ落ちる。
「……っ、う……っ」
「……」
「う、えぐ……っ」
 群青色のそれは大きく膨らみを増し、ひび割れた心から漏れ出て、視界に透明な膜を張った。か細く嗚咽をこぼし始めた私を、武藤くんは黙って受け入れる。後頭部に添えられた手が、首元に触れて熱い。
「……っ、う……ひっく……っ」
「……怖かった?」
 尋ねる声にこくんと力無く頷いて、武藤くんの胸にもたれかかった。優しく受け止めた彼は、私の背をさすりながら頬を寄せる。
 しかし、違う。
 確かにあの男は怖かった。けれど、違うのだ。
 私は、多分あの男への恐怖心が理由で涙を落としたわけじゃなかった。どこかが痛むとか、何かが悲しいとか、そういう理由で泣いているわけでもなかった。
 きっと、私は──真奈美さんと武藤くんが何の関係も持っていなかったという事実に、酷く安堵して涙が出たのだ。
 だけどそんな情けない真相を、素直に伝える事など出来るはずもなくて。
「……怖かっ、た……」
 弱々しくうそぶき、彼の腕の中に身を寄せる。受け止めてくれると知っていて、わざと怖がっているフリをした。私はいつからこんなしたたかな女になったんだろう。
 案の定、武藤くんは私を拒まない。とんとんと背中を叩き、「うん、もう大丈夫」「泣かないで」と優しく言い聞かせてくれる。
 それが嬉しくて、安心してしまって、私は彼の背中に手を回した。武藤くんの体は一瞬強張ったような気配がしたけれど、すぐに彼も私の体を強く抱き返してくれる。
「……六藤さんが泣いてんの、初めて見た」
 しばらく抱き合って、ふと武藤くんが発した言葉。更には「中学の卒業式でも泣いてなかったのに」と続いたそれに、私は薄く瞳を開いて顔をもたげた。
 中学の卒業式──さようならの一言もなく、私達が離れ離れになった日。
「……見てたの……?」
 問えば、武藤くんは私の頭上でどこか自嘲的な笑みをこぼした。
「……見てたよ。ていうか、六藤さんの事を見てない日なんて多分ない」
「……え……」
「ずっと、毎日、目で追ってた。あの頃」
 ぼそりと告げた彼だったが、すぐに冷静になったのか「いや、なんかこの言い方だと俺がめちゃくちゃストーカーしてたみたいじゃん……」と苦く呟く。私は嗚咽を混じえて鼻を啜り、彼の顔を見上げた。
「……でも、卒業式のあと……武藤くん、どこにもいなかったよ……」
「え……探してくれてた?」
「……えっと……それは……わかんない、けど……」
 きゅう、と武藤くんのシャツを握り、また腕の中に身を寄せる。
 あの日、私は君を探していたんだろうか。でも、もし君を見つけていたとして、一体何を語るつもりだったんだろう。
 でも、あの日、私は確かに──
「──武藤くんに、会いたかった……」
「!」
「……と、思います……はい……」
 つい素直に本音を口走った。けれど、すぐさま羞恥心が襲い掛かってきて後悔した。
 先程まで溢れていた涙も自然と引っ込んでしまい、「た、多分だけどね!」と慌てて言葉を付け加える。が、武藤くんからの反応は一切ない。
 あれ……? と訝しみ、そっと顔をもたげる。しかしすぐに後頭部を押さえつけられ、再び彼の胸に顔を埋める事になってしまった。「ふぎゃ!?」と間の抜けた声が漏れ、私は困惑しながら彼の腕の中で身じろぐ。
「ちょ……! む、武藤く……」
「……だめ」
「……え?」
「今、俺の顔……見ちゃだめ……。多分、すっごい……かっこ悪い……」
 弱々しく呟き、後頭部を押さえる手に力が籠る。かっこ悪い顔──って、いま一体どんな顔をしているんだろう。
 気になったけれど、私を拘束している彼の手が頑なに後頭部を押さえつけて離してくれないため、その顔を拝む事が出来ない。しかし、玄関先の鏡に映り込んだ武藤くんの姿の一部だけならば、辛うじて視界に捉える事が出来た。
 そこに映し出された彼の耳は、両方共真っ赤に色付いていて──。
(……あれ? もしかして……照れてたり、する?)
 いや、そんなまさかね。
 都合のいい考えにかぶりを振り、密着する胸の両側で刻まれ続ける心音に耳を傾ける。すると不意に、武藤くんが口を開いた。
「……ねえ、六藤さん。俺、考えたんだけどさ……」
「……?」
「あの男に住所バレたし、この家に一人で住むの、やっぱちょっと危ないと思うんだよね。なんか報復しにくるかもしれないし、さっきのアレで近所の人にも変なイメージ持たれたかもしれないし……」
「……うん……」
「だからさ、その……六藤さんさえ良ければ、って話なんだけど……」
 心做しか緊張した様子で、彼は続ける。私が黙って耳を傾けていれば、やがて武藤くんは言葉を紡いだ。
「──俺ん家……来ない? しばらくの間だけでも」
 とく、とく、とく。密着する肌越しに脈打つ、二人分の鼓動。
 どちらのそれもやけに速くて、静かな部屋の隅々にまでこの音を描いた波形が届いているような、そんな錯覚が私の熱い胸を満たしていた。

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