アフォガード

小海音かなた

Chapter.11

 働き始めて経験も積んで、すっかり仕事にも慣れて常連さんとも雑談できるくらいの余裕ができた。
 たまにナンパ目的で声をかけてくるお客さんもいたけど、店長がうまくあしらってくれた。
「あんまそんな、腕とか出してたらあかんよ」
 ノースリーブのブラウスを着ている私に店長はパパみたいなことを言って、予備用に置いていたというシャツを貸したりしてくれた。
 そんなに優しくしてくれたら、もっと好きになっちゃうじゃん……なんて、少し理不尽な苛立ちを覚えたりもした。

 悠子やほのかちゃんが言うところの“進展”はなにもなくて、だからって“後退”することもなくて、ただただ穏やかなバイトの日々が続いた。

 周りの人に私の気持ちはバレバレで、お店の常連さんや店長の血のつながらないお姉さん・美彩ミアヤさんが外堀を埋めようとしてくれていたけど、店長はそのたび上手にはぐらかして、核心を突かれないようにしていた。
 私も、バイトしてるうちはもうなにも起きないんだと悟って、努力はしてるけど無理強いはしないように心掛けた。
 店長はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、時折帰り道に手をつないでくれたりして――思わせぶりな女子ってどうなの? みたいな企画をテレビや雑誌で見るたびに、店長のことを思い出したりした。
 そんな状況はきっといましかなくて、だからいまはこれでいいんだって考えて、身をゆだねて満喫することにしたらバイトがもっと楽しくなった。

 そうして楽しく、少しのもどかしさを感じながら働いていたら、あっという間に就活時期になってしまった。

 就職難と言われるこの時代にありがたい話だが、就職先は案外あっさり決まった。かねてより希望していた職種だったから、内定が出たときは本当に嬉しかった。
 店長に合格した報告と退職の申し出をしたときには、胸がつぶれるんじゃないかってくらい寂しかった。
 でも店長は「そっかぁ、良かったなぁ。いつかくるんはわかってたけど、案外早かったなぁ」なんてニコニコしながら、引き留めることもなく受け入れてくれた。次のバイトは、私が辞めるまで募集しないらしい。

 男子が採用されますように。

 身勝手な願い事が叶うかどうかはわからない。ただその考えは、自分の店長に対する気持ちを浮き彫りにして、もうどうしようもなく好きなんだって自覚をした。
「辞めても、遊びに来てもいいですか?」
「もちろんもちろん。いつでもおいで」

 店長と店員。店長と客。変化した立場のうち、どちらが佐奈田さんに近付きやすいのか――答えの出ないことを考えながら、残り少ないバイトの日々をまっとうした。

* * *

 そして、とうとう“その日”はやってきた。

 常連さんに退職の挨拶をしつつ最終日の出勤を終えて、閉店作業が終わった。

 あぁ、とうとう終わってしまった。

 店の中やバックヤードを見渡して、感慨深くなる。泣きそうなのをぐっとこらえて、「いままでありがとうございました」店長に恭しくお辞儀をした。
「こちらこそ。本当に助かりました。森町さんが応募してきてくれて、良かったです」
 佐奈田さんの言葉を聞き終えて、そっとロッカーキーを返す。
「エプロンは、洗い終わったら返しますね」
「うん。忙しいなら郵送でもええから」
「いえ、引っ越したりはしないので、直接返しにきます」
「うん、お願いします。……じゃあ、これでもう、店長と店員じゃないね」
「そうですね……これからは佐奈田さんって呼びます」
「うん。そうしてほしいな。で、このあと時間ある? ゆうてもう遅いから後日でもええんやけど」
「いえ、大丈夫です、あります」
「そう。じゃあ、いまさらやけど就職祝い、しに行こう」
「えっ、はい、嬉しいです」
 そうやって誘われるのは初めてで、予想外の展開に驚きつつ、少しだけどオシャレしてきて良かった、と朝の自分を褒めた。
 こっから歩いてすぐなんやけど~、と言いつつ案内されたのは、【よつかど】から歩いて10分程度のところにある、渋いバーだった。
 席へ通され、オーダーする。
「ついこないだ面接した気がするわ~」
「はい。なんだかあっという間でした」
 一緒にお酒を飲めるのは嬉しいけれど、もう一緒に働くことができない寂しさのほうが大きい。
「もう頻繁にお会いできないかと思うと寂しいです」
「そやなぁ、おれも寂しいわ」
 私の“寂しい”と佐奈田さんの“寂しい”は、きっと違う種類の感情だろうな、と思う。
 それがまた寂しさを呼んで、あまり強くもないのに、飲みやすい甘いお酒をたくさん飲んだ。

 自覚があるほどにはまぁまぁ酔っ払ってる。なんだか身体がふわふわして、でも芯は熱っぽくて、瞼は自分の意志とは逆に少し閉じてしまう。生まれて初めての感覚だった。
「ペース早いで? つぶれても知らんよ?」
「えぇー、今日は送ってってくれないんですか?」
 アルコールで少しマヒした思考が、普段言わないような軽口を叩く。
「送ってってもええけど……なにされても知らんで」
「……別に、いいですよ……佐奈田さんになら」
 ブツブツと口の中で言うけど、佐奈田さんには届かなかったみたい。困ったような表情で小さく笑うと、ハイボールが入ったグラスを傾ける。
 その長い指で触れられたいとか、グラスに付いた唇で甘い言葉をささやかれたいとか、そんな煩悩ばかりが脳裏をよぎる。
 やがて酔いに負けてテーブルにへたりこんだ私の頭を、佐奈田さんが優しく撫でた。何度も、何度も、愛しむように。
 なんでそんなことするんですか。期待しちゃうじゃないですか。
 言ったらやめられてしまいそうで、なにも言えずにその手の流れをただ受け入れていた。
「もう遅いし、帰ろっか。送ってくから」
「……やです……」
 離れがたくて、見たいけれど泣いてしまいそうで顔も見れなくて――。ただ髪の上を滑る優しい手の感触に溺れていたかった。
 大きな手のひらが頭を撫でたり、長い指が髪を弄んだり……そんな動きがしばらく続いたあと、佐奈田さんが小さく言った。

「ほんなら、来るか? うち」

* * *

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