アフォガード

小海音かなた

Chapter.5

 今日はバイトの日。
 少し疲れた飲み会から初めてのシフトインで、やっと癒される空間にいられるって嬉しくて。
 バイトがない日も遊びにおいで、と言ってもらってはいるけど、プライベートで店長に会ったら、きっと感情が決壊してしまう、となかなか行けずにいた。
「おはようございます!」
 やけに元気な私の挨拶に店長が笑って、「はい、おはよう」エプロンをしながら返事してくれた。
 あぁ、やっぱり落ち着くなー。
 仕事中もいつもよりニコニコしてたのか、常連さんに「なんだかご機嫌だね」って何回も言われて、そのたびに表情を引き締めていたら、それに気付いた店長にこっそり笑われた。それがなんだかとても嬉しくて、他の人には抱かない感情で。
 いままで生きてきた中でもこんなの初めてで、私にもようやく“初恋”のときがやってきたらしいと自覚した。
 自覚してしまったら働きづらくなるかなぁ、って思ってたけど、店長には“緊張させないなにか”があって、ドキドキはするけどぎこちなくなったりしないし、働くのも楽しくなるしでいいことずくめだった。

 夕食時も過ぎ、客足も落ち着いてきて、たまにある“隙間の時間”ができた。
「ちょっとお茶にせぇへん?」
「はい、ぜひ」
「スマホもってきてええよ」
「はぁい」
「腹減ってるんならメシも作るよ~」
 バックヤードに入った私に店長が言う。
「ママみたいになってますよ」
 くすくす笑いながら店内へ戻ると「そんな歳離れてへんわ」とツッコミを入れられた。鼻にしわを寄せながら言ったその表情が可愛らしい。三十代半ばとは思えない可愛さがずるい。
「ご飯はダイジョブです、来る前に食べてきたので」
「あら、ほんと。じゃあお茶しよか。なにがいい?」
「うーんと……」
 カウンター席に向かい、考えながらスマホを見てぎょっとする。教えた覚えのないIDから、画面いっぱいにメッセが来ていたからだ。
「どしたん? なんかあった?」
 きっと驚きが顔に出ていたのだろう。店長が私の顔を覗き込みながら言ってきた。
「あ、いえ、大丈夫です」
「そう? なんかあったら言ってよ?」
「ありがとうございます」
 たまに見せる優しさが胸にしみて、身体の奥がキュンとうずいてしまう。
 カウンター席に座って、スマホを眺める。返信しようか、どうしようか……。そもそもこの【Si】って誰? 一画面に収まりきらない通知を、アプリを立ち上げて既読はつけてしまわないように気を付けながらスクロールして考える。

『いま学校?』
『おーい』
『かえでちゃーん』

 一言ずつ、数分おきに何度も繰り返される私への呼びかけを遡っていくと、聞き覚えのある名前が出てきた。

『椎木だよ~』

 ……シイキ……あっ!
 あの酔っぱらって前後不覚になってた人だ。名取さんに絡んでて、ほのかちゃんからなんか聞いた…あぁ、しつこい感じって言ってた……。
 あまり良くない印象ばかりを思い出す。
 ほのかちゃんが連絡先教えてって言われたって言ってたよね、でも断ったって言ってたし……どうやって登録したんだろう……いっそブロックしようか、でもほのかちゃんのお兄さんのお友達だって言ってたし、なにもしないのも……。
 連絡がほしい、というような内容の連続した短いメッセ通知画面を上下にスクロールさせながら悩む。既読を付けたら返信しなくてはならないし…どうしよう……。
「はい、どうぞ」
 コトンと音を立てて、目の前に二つの食器が置かれた。
「えっ。わっ、素敵」
 睨みつけていたスマホをテーブルに伏せて置き、食器を見つめる。きっと私の瞳は一転して輝いていることだろう。
 ガラスの小鉢にはバニラアイス、片口のミルクピッチャーにはモカ色の液体が入っている。香りはコーヒーだ。
「アフォガード。ブラックコーヒーかけることが多いんやけど、これはカフェモカな。これならコーヒーいけるやろ?」
 それはメニューには載っていないデザートで、私がスマホとにらめっこをしている間に店長が作ってくれたらしい。
「コーヒー飲めないの、覚えててくださったんですか?」
 最初に勧められたとき、苦味が苦手で飲めないと断ったことがあった。それ以来、店長が勧めてくれるのは紅茶やソフトドリンクになったのだけど……。
「そらなぁ? コーヒーがメインの喫茶店で働いてるのにコーヒー飲めんてさぁ」
「す、すみません」
「ええねんええねん、責めてるわけちゃうくてさ? おれのコーヒー、森町さんにも味わってもらえたらええなーって」
 えっ、やだ、ちょっと。大人なのに可愛いこと言うのズルいんだけど。
 頭の中でジタバタ騒ぐ自分はひた隠しにして
「ありがとうございます」
 静かにお礼を言う。けど、嬉しさを隠すことはできなくて顔いっぱいに笑みが広がってる。どうしよう、すごく幸せ。
「いただきます」
「はい、どうぞ~」
 店長はカウンターの内側でスツールに座り、自分のためにコーヒーを淹れている。
 私はミルクピッチャーの中身をバニラアイスにかけて、カフェモカの熱で程よく溶けたバニラアイスをスプーンですくって口に入れた。「んー、おいひぃ」
 暖かくて冷たくて、甘くて苦くて……なんだろう、この感じ、どこかで……。
「あ」
「ん?」コーヒーカップを持ったまま、店長が小首をかしげた。
「あ、いえ。なんでもないです」
「そう?」
 店長はかしげた首を逆側にかたむけてからまっすぐに戻して、コーヒーに口を付ける。納得のいく味だったようで、うんうんと一人でうなずいている。
 アフォガードをもう一口食べて、私も小さくうなずく。

 やっぱりこの感じ、店長に似てる。

 お店のことに関しては人一倍熱血で、でも時折見せるさりげない拒絶は冷ややかで、いつも優しくて、たまに厳しくて……。
 店長って、アフォガードみたいですね。
 突然そんなことを言ったらどんな反応するかな。目の前にいる人のことを妄想しながら、とろけるアイスクリームをスプーンですくう。
 店長はカウンターの中でコーヒーを楽しんでいる。
 とても穏やかで心休まる時間。
 この先も、この人とこういう時間を過ごしたいな。
 会話なんてなくても満ち足りていて、心の中が幸せでいっぱいで。
 店内に流れるイージーリスニング。たまに水分を補給するために加湿器がコポコポと鳴る。
 ガラスの小鉢に金属のスプーンが当たってカチリと小さな音を立てる。
 ふぅ、と店長が小さく息を吐く。
 世界中でたった二人の空間は、時間が止まっているかのように穏やかで、でもこういうときに限ってよく聞こえる時計の針の音が、一秒ずつ時が流れていることを教えてくれる。

 カフェモカと混ざり合ってマーブル模様を描くバニラアイス、その最後のひとすくいを口に運ぶのが惜しいほど、いとおしい時間だった。
 小鉢の中にスプーンを置き、
「ごちそうさまでした」
 手を合わせて小さく頭を下げる。
「お粗末様でした」
 店長が立ち上がって、手を差し伸べた。
 その手に空になった食器類を渡す。「美味しかったです」
「お口にあって良かったです~」
 少し冗談っぽく敬語で答えて食器を受け取り、自分が使っていたカップと一緒に洗い始めた。
「これは、お店では出さないんですか?」
「うん、いまんとこは。あぁ、でもリクエストしてくれたら、森町さんには出すよ?」
「……特別ですか?」
「そう。特別です」
 笑みを浮かべながらうなずく店長に、照れ笑いを浮かべる私。時計は21時過ぎをさしている。閉店まであと数時間。
 お客さんがこないのはお店としては困るけど、私としては店長と二人きりでいられる貴重な時間で、訪れてほしいけどあまりないほうがいい、複雑な時間。
 そんな空間を終了させたのは、聞き覚えのある乾いた音だった。
 カロランコロラン。
 出入口のドアに張り付いた大小のカウベルが来客を報せる。
 テーブルの上に置いたままだったスマホをとって、エプロンのポケットに入れた。
「「いらっしゃいませ~」」店長と同時に発声して振り向くと、そこには見覚えのある人が立っていた。
「あ、やっぱりここだった」
「えっ、なんで?」
 ドアから顔を出したのは、ほのかちゃんだった。
「前に話してたの覚えてて、来ちゃった」
 少しバツが悪そうな笑顔でほのかちゃんが言う。
「お友達?」
「はい、大学の……」
 店長の質問に答えてほのかちゃんに向き直ると、その後ろに、男性が立っていた。

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