スパイの毒はラブコメに効かない〜完結済み〜

青篝

ため息

高級レストランでの食事会を終えて、
一人の男が店を出た。
ビシッとした背広を着こなし、
堂々と歩く彼はドイツの警察副署長。
50を過ぎた彼の頭は
白髪が目立つようになってきており、
少しの酒でも酔うようになった。
今日も景気よくワインを飲んだはいいが、
もう足元がおぼつかないらしい。
部下の若い男性に支えられ、
やっとタクシーに乗り込んだ。

「ミュンヘンの───まで」

タクシーの運転手に若い男性が告げ、
ゆっくりとドアを閉める。
ヘッドライトを点灯させて、
しっとりとした音楽をかけると、
タクシーは緩やかに速度を増す。
地下の駐車場を出る頃には、
副署長はイビキをかいていた。
街の灯りが星のように輝き、
静けさは夜風に乗って
ビルの谷間を駆ける。
その閑静な夜の街を走る一台のタクシー。
後部座席で安らかに眠る副署長。
響いたただ一発の銃声。
副署長の頭に、風穴が開いた。
左耳の上から侵入した弾丸は、
頭蓋骨にヒビを入れることなく
右耳の上から綺麗に抜けていき、
眠ったまま副署長はその命を終えた。
後ろに乗せた客が死んだというのに、
運転手は一切気づく素振りがなく、
タクシーを運動していた。
……はずだったのだが、
ミュンヘンへと向かうはずのタクシーは
その方向を変えて、
大きな河を一直線に目指す。
そしてそのまま、
タクシーは河へ放り出された。
夜の闇深い河に落ちたタクシーは
飲まれるように沈んでいき、
やがてその車体は完全に消えた。

「……任務完了です」

人々が騒ぎながら河を眺めている中、
群衆を一瞥した一人の男が
トランシーバーで誰かと話している。
タクシー会社の運転手の格好をしたその男が
暗い路地裏で少しばかり時間を潰すと、
そこにもう一人の男が現れた。
ギターケースを担いだその男は、
タバコを吹かしながらこちらに近づいてきた。

「帰るぞ」

ギタリストの男がそう言うと、
待っていた男は彼の後ろを追いかける。
表の大通りに停めていた車の
運転席にタクシー会社の男が、
助手席にギタリストの男が乗り込む。
車を発進させ、しばらく無言でいた。
だが、人の気配のない街の郊外まで来ると、
ギタリストの男がため息を吐いた。

「……珍しいですね。
『蠍』先輩がため息をつくなんて」

運動席に座る男は、
前を見ながらチラリと横を見る。
驚きなのは、その男が発した声が
明らかに女性のものだったことだろう。
しかしギタリストの男──『蠍』は
眉一つ動かすことなく口を開く。

「なぁ『蜂』。もしもの話だが、
あの『蛇』が人を殺せなくなったとしたら、
お前はどう思う?」

窓から見える夜空を眺めながら、
『蠍』は『蜂』に問う。
『蜂』は最初こそ疑問に思ったが、
『蠍』がとても遠い目をしていたので
少し深く考え込んだ。
『蜂』にとって『蛇』とは、
一つ歳上のスパイだ。
スパイになったのは『蜂』の方が先だが、
『蛇』のあまりの成長の早さに圧倒された。
銃撃戦、接近戦、ピッキング、サイバー攻撃、
何の勝負をしても『蜂』が勝てたことはない。
幸い、『蜂』は変装術に長けていたため
自分の居場所を失わずに済んだが、
『蛇』との実力の差を見せつけられて
引退したスパイは百を越えている。
それだけの圧倒的な実力を持ちながら、
『蛇』は決して慢心することなく、
常に努力を続けていた。
どんな任務も失敗することを知らず、
どんな奴が標的でもほふってきた。
そんな『蛇』が、である。
人を殺せなくなるなど、
果たしてそんな未来があるだろうか。

「正直、想像もできないですね。
『蛇』先輩といえば、
任務に私情を持ち込まないで有名ですから。
殺しの任務を受けたなら、
どんな人が標的でも殺すでしょう」

そうでなければ、『蛇』先輩が
『豹2号』なんて呼ばれませんよ。
最後にそう付け足して、
『蜂』は『蠍』の質問に答えた。
だが、『蠍』は何も言わなくなった。
そのまま2人は会話をすることなく、
周囲に誰もいない川沿いに到着した。
2人で車を降り、真っ暗な川に近づくと、
『蜂』が車の座席にマッチで火をつける。
時期に炎が大きくなってくるのを確認してから、
事前に用意していたボートに乗った。
これで、今回の2人の任務は終わった。

「はぁ……」

任務の標的ターゲットだった副署長は、
警察という立場にありながら
麻薬の裏取引を手助けしていたのだ。
さらに、各国の政治家や著名人にまで
麻薬を横流ししており、
莫大な報酬を得ていたという。
裏社会では名の通っていた彼を
抹殺しろという今回の任務に
『蜂』と『蠍』が選出された理由としては、
ただ標的を殺せばいい話ではなかったからだ。
麻薬取引の現場を襲撃して麻薬を押収し、
大事な役割を担っている人物達を捕え、
そのルートを完全に終わらせる、
という大きな任務だったのだ。

「はぁ……」

自分達のアジトに帰る道すがら、
『蠍』はまた長いため息を吐く。
もし、あの時すでに『蛇』が
人を殺せないほどに落ちていたのなら、
今後、自分達は誰についけ行けばいいのか。
こんな時『優蝶』がいてくれたら、
きっとすぐに解決できるだろうに。
……亡霊に囚われているのは、
『蛇』だけではなかった。

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