スパイの毒はラブコメに効かない〜完結済み〜

青篝

小鳥遊 糸恩 2

緊張したと自分で言っていたし、
夜六の言葉に興奮もしていた。
あの夕暮れ時の瞳は
確かな輝きに満ち溢れ、
今は沈んでいても
また太陽は昇ってくる。
小鳥遊は、知らないだけだ。

「耳を研ぎ澄まさろ。
目で見ずに、心で見ろ。
肌で心を感じろ。
お前は心のない人間じゃない」

慰めてやる義理はない。
しかし、夜六には放置出来なかった。
目の前で崩れそうな小鳥遊を見て、
夜六の人間としての心が
手を差し伸べてやれと、
そう言ってきたのだ。
小鳥遊が心を呼べるように、
夜六はその背中を強く押す。
それでも、小鳥遊はまだ動けない。

「でも…私は──」

「無駄な事を考えるな。
お前は、笑える」

その瞬間、小鳥遊の心に
爽やかな風が吹き抜けた。
自分の心を覆っていた暗い雲が
どこかへ押し流され、
眩い光が心を照らす。
太陽のように、希望を示すように、
小鳥遊の心に降り注いだ光は、
今この瞬間に小鳥遊の心を救った。

「…やっぱり、すごいね」

小鳥遊の涙はいつしか止まり、
目元の腫れだけが残る。
その腫れを誤魔化すように、
小鳥遊は小さな笑みを浮かべた。
彼女なりのその微笑みは、
数分前の彼女と比べると
思わず見間違えてしまいそうな程だ。

「ほら、笑えるだろう?」

戸惑いも、迷いも、悩みも、悲しみも、
今の小鳥遊にはない。
そう思わさせる。
だが、それを直接夜六は言わない。
照れ隠しの為か、その真意を問うことも
野暮なことでしかない。

「笑った方が、可愛いじゃないか」

可愛いと言われて、
嬉しくない女性はいないだろう。
それが若ければ尚更だ。
夜六はそんなことを意識して
口に出した訳ではないが、
その言葉が小鳥遊を
さらに元気付けたのも事実。
思ったことをそのまま
言ってしまっただけなのだが、
少しばかりプラスに
振り切り過ぎたかもしれない。

「か、可愛い…っ!?」

小鳥遊は動きを硬直させ、
みるみる内に顔を赤く染める。
耳まで真っ赤になった小鳥遊は
頭から湯気を出し、
茹で上がったタコのようだ。
空いた間をどうにか埋めようと、
夜六は初めてコーヒーに口をつける。
深い苦味が味覚を支配して、
嗅覚すら鈍くする。
もう一度口に含み、
舌を踊らせてから飲み込む。
とても苦い。が、これがいい。
任務の合間にコーヒーを飲みながら
読書をするのが最高なのだが、
こうして店で飲むのも悪くない。
アンティーク風の内装と
微かに流れる音楽が、
その幸せを加速させる。
だが、一瞬限りの幸せは
すぐに去ってしまう。

「あ、あのっ!」

目元の腫れを僅かに残しているが、
小鳥遊はしっかりと前を向いて、
夜六を見据えていた。
しかし、夜六が視線を向けると、
フイっと視線を外し、
横目で夜六を見ながら言った。

「霧峰君さえ良ければ、
今からイモン回らない?
初めてなんでしょ?
案内してあげるよ」

手紙の件はどこへやら。
小鳥遊はそんなことを言う。
恐らく、忘れろということだろう。
醜い過去を闇に葬るように、
弱き自分を捨てるように、
今からの人生を前向きに生きれるように、
小鳥遊は提案してきた。
他に用事もないし、
今日は交友関係を広げようと
小鳥遊に会いにきたのだ。
少し付き合うくらい平気で、
人の集まる場所の地理を
把握しておくことも
スパイ任務においては重要だ。

「あぁ、いいだろう。
…だが、目元が治ってからだな」

「へっ…!?」

コーヒーに口をつけながら、
イタズラっぽく夜六は言う。
小鳥遊は慌てた様子でカバンを漁り、
折り畳み式の手鏡を取り出すと、
自分の目元を見て
また顔を赤く染めた。

「えっ!ウソ……。もうやだー…」

テーブルに突っ伏して、
小鳥遊は足をばたつかせる。
その様子を眺めながら、
夜六はまたコーヒーを飲む。
少しばかり任務から
遠ざかっている気がするが、
小鳥遊を見ていると
毒気が抜けてしまう。
心のない人間などいないと
小鳥遊には言っていたが、
夜六は自分の心を
正しく認識している気はなかった。
任務の為に生き、任務の中で死ぬ。
大切な物もあるが、
夜六の心の人生観はその程度だった。
しかし、小鳥遊に語る内に、
自分の心が垣間見えた気がしたのだ。
夜六は自分がこんなにも
暑苦しいことを言えると
思ってもいなかった。
元から持っていた資質なのか、
この学園で出会った人達の影響か、
今の夜六には分からないが、
あえて一つだけ言えるとするなら、
──夜六も人間だった。

「…俺も霞んだな……」

「何か言った?」

夜六の独り言に糸恩は反応した。
しかし、何を言ったかは
聞き取れなかったようで、
疑問符を頭に浮かべている。

「いや、何でもない」

誤魔化すように、
夜六はコーヒーを飲むフリをする。
もう空っぽになっているカップを
自然に口まで運び、
夜六はひと息ついた。
そして、夜六と糸恩は
2人で店を出る。
仲良く揃って、まるで恋人のように。

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