2と4の境界線

折葉こずえ

第09話 僥倖1

翌朝、目が覚めるとすぐさまLINEを確認した。そこには池上さんのIDが登録されていて昨夜の出来事が夢では無かったと安心する。

トーク画面を開くと昨夜僕が送ったメッセージにはまだ既読がついていなかった。彼女は今日は午後1時からだしまだ眠っているのかも知れないけれど少し沈む。

洗顔をし、食パンにジャムを塗って無理やり口にねじ込みコーヒーで流し込む。いつもはしないけれど、髪を少しセットし、普段よりもちょっとお洒落なシャツとジーンズで家を出た。駅までの道すがら再びLINEを開く。まだ既読は付かない。また少し落ち込む。

池袋線で池袋まで行き山手線に乗り換え鶯谷へ向かう。決して不便では無いのだけれど何となく引っ越したくなる。出来れば中野に。恋人でもないのにこんな事を想像していてはっきり言って自分自身でキモチ悪くなった。でも現状、歩いても30分なら近いと言えば近いのか。

ホテルの従業員出入口の前で再度LINEを確認すると彼女からメッセージが来ていた。

『おはようございます! 後から行きますのでよろしくです!』とのメッセージの後にウサギが敬礼をしているスタンプ。

たったこれだけなのにやる気がみなぎって来るから不思議だ。従業員用の扉を開けて、普段ならぼそぼそっと挨拶する僕が、「おはようございます!」とフロントの吉本さんに声をかけると肩をビクっと揺らした彼女が驚いて、「ああ、大崎君か、おはよう。どうしたの? 元気だね」と言った。僕は曖昧に誤魔化しその場を去る。

タイムカードを打刻してエレベーターを待っていると、同じく出勤してきたのであろう野田さんが背後から近付いてきた。

「おはよう、大崎君」
「あ、おはようございます」
ここでも僕の声が大きかったのか野田さんはおっと仰け反って少し目を見開いた。

「元気だね。なんか良い事あったの?」
良い事はあった。新人をいきなり食事に誘い、楽しく会話し家まで送ってLINEも交換した。だけど言えない。

「いえ、べつに……」と濁した。

「池上さんはどう? やれそう?」
野田さんは肩透かしを食らった様だったけれど気にする様子もなく続けて質問をしてくる。

「作業はまだ遅いですけど、真面目だし物覚えは良さそうです」
「そう……わたし教育から外されちゃったかな」
野田さんは今回教育に選ばれなかった事を気にしている様子だ。

エレベーターが降りてきて野田さんと一緒に乗る。エレベーター内に設置されている棚に引き下げられたシーツがこんもりと乗っかっていた。僕はそれを両手で抱きかかえつつ、
「今回はお試しで僕って感じでしたよ」とフォローじみた事を言う。昨夜、良い思いをした事に後ろめたさがあったのかも知れない。
「ふうん。でも大崎君って案外教育に向いているかもね」
「そうですかね」
すぐにバックヤードのある二階に到着し両手が塞がっている僕の為に野田さんが扉の開放ボタンを押しっぱなしにしてくれた。
僕は着替える前に両手に抱えたシーツの塊を仕分け用の袋が設置されてある場所へ持って行き、シーツとピローカバーに分別し袋に入れた。

更衣室で着替えてバックヤードに戻ってくると、マネージャー室から三宅さんが顔を出し、
「大崎、ちょっと良いか?」と声をかけてきた。
「はい」と言って近付くと、僕の耳に顔を近付け、
「今日、昼の休憩の時に少し話せるか? 時間取ってくれ」と言う。
「何時になるか分かりませんが」と答えると、
「何時でもいい、とにかく顔を出してくれ」と言うので、
「わかりました」と答えた。

あ! っと僕は思い出し、

「池上さんが1時から出勤なのでそれまでには昼食取った方が良いですかね?」と訊くと、
「お前を戻すまでリネンでも畳ませておけ」と言った。

「それより……」
「はい?」
「お前、今日はやけに喋るな?」
自分でも気が付かなかったけれど、確かに三宅さんにこんなにも話した事は無いかも知れない。だとしたらそれはきっと昨夜の出来事の所為だ。少し恥ずかしくなり、顔を背けて、
「そうですか?」と言うと、
「いつもそうしてろ」と言われ、「もう行っていいぞ」とあしらわれた。頭を下げバックヤードへ戻り業務を開始する。

土曜日の朝と言う事も有り宿泊客が多いようで、モニターには入室してからの経過時間が表示されているのだけれど、軒並み長時間になっている。そろそろ退室ラッシュが始まる頃だ。僕は引き下げ時に持って行く風呂掃除用のカゴに小袋になったスポンジや入浴剤などの消耗品を詰め込み、バスタブを洗う洗剤等も補充し客の退室を待った。

僕の中の基準で1室当たりの引き下げ時間を20分としている。時間がかかっても特に何も言われないのだけれど目標を設定しておくと時間の経過が早く感じるから。休憩込みとは言え毎日12時間ここで働いていると、時間を追って仕事をしていると疲れてしまうのだ。時間に追われた方が時間が経つのも早く感じるし疲労も少ない。

そんなこんなで午前中の引き下げラッシュをこなしているとあっという間に午後1時になった。僕が休憩を取ろうとバックヤードに戻って来ると丁度池上さんが出勤してきた。
昨日の様にラフな格好でやって来た彼女は僕を見つけると、
「おはようございます」と言って頭を下げ更衣室へ向かおうとするので、
「あ、池上さん」と呼び止めた。
彼女は「はい?」と言って立ち止まる。僕は事情を説明し、僕が戻ってくるまでここでリネンでも畳んでいてくれと伝えた。

「わかりました」と言って更衣室に向かう彼女を見てから食堂へ向かった。
朝、買ってきたカップ麺にお湯を注ぎ出来上がるまでの間におにぎりを食べる。その後急いでカップ麺を啜りコップ一杯の水を飲むとマネージャー室へ向かった。

扉をノックする。

「どうぞ」と声が聞こえたので、「失礼します」と言ってゆっくり入室すると、マネージャーの三宅さんの他にもう一人スーツを着た40代くらいの男性がいた。
三宅さんは僕を認めると、「場所を変えよう」と言い、フロントに内線をかける。

「空いてる部屋あるか? うん、じゃあ203でいい。使うから閉じてくれ。あとコーヒーを3つ持ってきてくれ」と伝えた。

「よし、203で話そう」と言って立ち上がり部屋を出て行くので僕もそれに続いた。

僕のホテルでは、面接や来客等、大事な話がある時は客室を応接室代わりに使う。会話を聞かれる心配も無いし、何より清潔でキレイな部屋に立派なソファーもあるからだ。

203の部屋に入り、どうしていいか分からず突っ立っていると、三宅さんが化粧台用の椅子を持ってきてカップル用のソファーの向かいに置いた。

「ここに座れよ」と促されるので、言われるがまま腰掛けた。

三宅さんとスーツの男性がカップル用のソファーに並んで腰掛けたので何となく可笑しくなり俯いて下唇を噛んだ。

「池上はどうだ?」と、きっと本題では無い話題を三宅さんが口にする。コーヒーが来るまでの時間稼ぎなのだろう。

「真面目な人だと思います」と率直に感想を述べた。その間もスーツの男性は何も喋らず僕を観察している様だった。
玄関のチャイムが鳴り、すぐに内扉をノックする音が聞こえ、「失礼します」とキッチンの渡辺さんがトレーにコーヒーを3つ乗せて入ってきた。渡辺さんはコーヒーを僕らの前に並べ、トレーはテーブルの脇に置き、
「大崎君、最後にカップ下げてね」と言ってその場を離れると、「失礼しました」と言って出て行った。

三宅さんもスーツの男性も何も喋らずコーヒーに砂糖とミルクを入れてスプーンでかき回し一口啜る。僕も間が持たないので同じようにそうした。

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