じゃあ俺、死霊術《ネクロマンス》で世界の第三勢力になるわ。
8-3
8-3
「ちょ、ちょっと待ってくださいロウランさん!」
ロウランに腕を引っ張られながら、ウィルはなんとかその手を振りほどこうともがいていた。だが見た目以上にロウランの力は強く、その手はまるで緩まない。そうやってずるずると夜の浜辺を引きずられながら、ウィルはまだ決心がつかないでいた。
「私、やっぱり……今から戻って、もう一度フランさんに」
「それは、やめといたほうがいいと思うの」
ピタリ。いきなりロウランが足を止めたので、ウィルは危うくぶつかりそうになった。ロウランが振り向く。
「あなた、あのコがどうしてあなたに譲ったのか、分からないの?」
「え……そ、それは」
「きっと、前々から考えてたんだよ。その場のノリで軽々しく言ったんじゃ、ないと思うな」
うぐ。ウィルは言葉に詰まった。フランのあの、決意に満ちた瞳。確かにあれは、思い付きでどうこうできるものじゃない……
「そういうのは、きちんと正面から受け止めてあげるべきなの。あなたは、あのコからダーリンを託されたんだよ」
「う、ぅ……わ、私で、よかったんでしょうか……」
「知らないの」
「え、えぇ?」
あっけらかんと言い放つロウラン。
「アタシが行けたらよかったんだけどね。ねえ、今からでもアタシに譲ってくれる?」
「そ、そんなの……!」
できません、と続けようとして、ウィルはロウランにそう言うよう誘導されていることに気が付いた。ロウランがニヤニヤと笑っている。ウィルはむむっと眉根を寄せた後、はぁとため息をついた。
「……分かりました。女は度胸です。精いっぱいやってみます」
「それでいいの♪ほら、この先をまっすぐ行ったところだよ。そこにダーリンはいるの」
気付けば、さざ波が寄せる桟橋の近くにやって来ていた。この桟橋の先に、桜下がいるのだろう。ウィルはすぅと息を吸うと、まっすぐ前を見据えた。
「では、行ってきます」
「うん。よろしくね」
ひらひらと手を振るロウランの姿が、うっすらと透けていく。その姿に見送られて、ウィルは桟橋の上を滑るように進み始めた。
俺は、足もとでぴしゃぴしゃとはねる波を、じっと見ていた。別に、海の中に財布を落としたわけじゃないが……しいて言えば、俺の視界で動いているのはそれしかないので、何となく見ているだけだ。どういうわけだか、夜の浅海は、仄かにライトグリーン色の光を発している。水底で何かが光を放っているようだ……生き物だろうか。それとも、これも魔法か。どっちでもよかった。興味があるわけじゃないから。
夜の海に風が吹く。優しい風は、砂浜に植えられたヤシの葉をさわさわと揺らす。甘い果物のような香りが鼻をくすぐる。俺は最低だ。
「桜下さん……」
背中から声を掛けられた。俺は驚かなかった。こうなるような気は、心のどこかでしていたから。俺は振り向かずに言う。
「その声、ウィルか?」
「ええ……その……すみません」
「あはは、どうして謝るんだよ。開口一番に」
「でも……一人にしてくれって。それに、私よりも……」
ウィルはしどろもどろで、何が言いたいのかよく分からなかった。なんだか俺よりも、ウィルの方がひどく狼狽えているようだ。俺が怒るとでも思っているのかな?そんなことしないのに。
「ウィル。よかったら、隣座ってくれよ。せっかく来てくれたんだからさ」
俺はそう言うと、つま先を伸ばして、波を蹴飛ばした。ピシャリ。靴が濡れるが、気にならない。やがておずおずと、俺の隣にウィルがふわりと腰を下ろした。
「桜下さん、その……」
「聞いたんだろ?アニから。あいつ、ちゃんと話したか?」
「え、ええ。包み隠さず、と本人は言っていました」
「そっか。あいつは真面目だから、じゃあほんとにそうなんだろうな」
真面目で、人間味がなくて、噓がつけないガラスの鈴。アニをぶら下げずに出歩くなんて、初めての経験だった。風呂とか以外じゃ、片時も離れなかったからな。
「そうかぁ……なんか、悪いな」
「え?」
「また、かっこ悪いとこ見せちまっただろ?ったく、少し株が上がったと思ったら、すぐズドンと落ちるんだからな。嫌んなっちまうよ」
「……私は、桜下さんをかっこ悪いとは思いませんよ」
ウィルは、優しいな。まだそう言ってくれるのか。
「ありがとな。でもさ、正直、幻滅したろ」
「幻滅、ですか?」
「ああ。だって俺……自殺、してるんだぜ」
「っ」
隣でウィルが息をのむのが聞こえた。
「ああ、あんまり気を遣わないでくれよ。他人事みたいなもんだし」
「え?それは、どういう……」
「自殺したってこと自体は思い出せたんだけど、その理由とか、そん時どういう気持ちだったのかは分かんないんだ。ほら、封印されちったから」
俺は自分のこめかみをトントンと叩いた。記憶の封印って、具体的にどうやってしているんだろう?俺はそれをされたことにすら気が付かなかった。
「正直、ぜんぜん実感がわかないよ。アニは嘘をつかないから、事実なんだろうけど……自分の事じゃないみたいなんだ。んなもんだから、ショックではあったけど、頭ん中はいやに冷静でさ。で、色々考えちゃってな……」
不思議なものだ。人には、自分の死よりも気がかりな事というものがあるらしい。
「みんなは……生きたくても、生きられなかったのに。俺は自ら、死を選んだんだ。ほんとに最低だよ。合わせる顔がないっていうのは、このことを言うんだな」
「そんな……!」
ウィルがこっちを見つめているのが分かる。けど俺は、彼女の目を見られなかった。
「呆れないでくれるか。思い出せないけど、当時の俺には、それなりの理由があったと思うんだ。じゃなきゃさすがに、そんなことに踏み切ろうとは思わないだろうし」
「そんなことは……でも」
ウィルは言葉を区切ると、考え込むように少し黙ってから、また口を開いた。
「……でも正直、軽々しく気持ちはわかる、とは言えません。今、少し考えてみましたけど、やっぱり私には、死にたくなる気持ちが分からないです。今まで生きてきて、そして実際に死ぬまで、死にたいなんて思ったことは一度もありません」
「そう、だよな。なのに俺は……」
「ですが。それは私が、幸福だったからです。決して裕福ではなかったですし、辛い事も多かった……けど、そこまで追い詰められることはなかった。桜下さん、私は桜下さんの記憶の封印が、戻らなければいいのにとさえ思ってしまいます」
「え?」
「だって……死にたくなるような記憶が、辛くないわけ、ないじゃないですか」
ウィルの半透明の手が、俺の膝の上に乗せられた。俺はその手を見つめる。
「私はそれほどの苦しみを味わったことがないから、適当なことは言えません。けど、それで桜下さんが引け目を感じるのは、間違っているとはっきり言えます」
「でも……」
「だって、そうでしょう?あなたは誰かを傷つけたわけじゃない。フランさんたちだって、桜下さんを妬むようなことはしませんよ。ただ……悲しいだけ、です」
「悲しい?」
「ええ……桜下さんがそんなにまで追い詰められたことが。どうしてあなたを、誰も助けてあげなかったのか……それが、悲しいです」
悲しい、か……そうだった。ウィルは、他人の死を、自分のことのように悲しむ娘だ。
「ははは……ウィルらしいな。よかった、安心したよ」
俺は乾いた声で笑った。愚痴まで聞いてもらった上に慰めてもらって、ウィルには悪いことをしてしまった。これ以上甘えるのも悪い、そろそろしゃんとしないと。
けどさウィル、一つだけ間違えているよ。俺は、誰にも助けられなかったわけじゃないんだ。
「さあ……そろそろ戻るか。いつまでもこうしてるわけにもいかないしな」
「桜下さん……もう、大丈夫なんですか?」
「おう。おかげさまで、もうすっかり平気だよ」
俺は後ろに体重をかけると、足を引っ込めて、ぴょんと跳ぶように立ち上がった。
「よっと。みんなにも心配かけちまってるんだろ?なら早く大丈夫だって伝えないと」
外に出たおかげで、心の整理はある程度ついた。もう大丈夫だ、きっと今からは、いつも通りの俺で居られるはず……俺は深く息を吸い込むと、コテージへと足を進めようとした。
かくん。
「おっとと……なんだよウィル。どうして引っ張るんだ?」
桟橋に腰かけたままのウィルが、片手を伸ばして、俺のコートの裾を掴んでいた。ウィルはうつむいているので、その表情はフードに隠れてうかがえない。何のつもりだろう?
「……」
「おーい、ウィル?」
「……桜下さんっ」
うわっと。ウィルはばっと振り向くと、ふるえる黄金色の瞳で俺を見上げる。
「私の勘違いだったらごめんなさい。でも桜下さん、ぜんぜん大丈夫なんかじゃ、ないですよね?」
「え……?」
なんで……なんでウィルは、そんなこと言うんだ……?俺はとっさに笑顔を浮かべようとしたが、どうにも顔が引きつってしまった。
「ど、どうしてだよ。あはは、他ならぬ俺自身が、もう平気だって言ってんだぜ?」
「ええ、分かってますよ。でも、ちっともそんな風に見えないんです」
「おいおい、んなこと言われても……じゃあ、どうすりゃいいんだよ?逆立ちでもすれば元気だって認めてくれるか?」
「桜下さん!茶化さないでください!」
「ウィル、なあおい。ちょっと落ち着いて……」
「じゃあどうして!“そんなことない”って言わないんですか!」
「……っ」
ウィルの透き通るような瞳は、全てお見通しだとばかりの光を放っていた。ぐっ……言葉に詰まる。無意識のうちに、避けていたのかもしれない。
俺は作り笑いを引っ込めた。
「……」
「桜下さん……まだなにか、あるんでしょう?確かにさっきの言葉には、嘘は感じませんでした。でも、それで心が晴れたようには、どうしても思えないんです」
「……だったとして。それで、どうしろって言うんだ?」
「それは……」
ウィルは迷うように瞳を伏せた後、ぎゅっと目を閉じた。そして、開く。
「話して、くれませんか。私に、すべて」
……だよな。そう言うと思ったんだ。俺は唇を噛む。
「……嫌だ」
「どうしてですか」
「別に、どうだっていいだろ。嫌なものは嫌なんだ。なあ、もういいだろ。とっとと行こうぜ」
俺はコートの裾を引っ張って、ウィルの手を振り払った。そのまま逃げるように、ずんずんと歩き出す。だが数歩歩いたところで、今度は手首をぐっと引っ張られた。ちっ!
「くどいぞ、ウィル!」
「桜下さん!ダメです、行かせません!」
ウィルは俺の手首を両手でしっかり掴んでいる。ちくしょう!なんでこんな時に、こいつはこんなに頑固なんだ!俺は頭の中で火花が散るのを感じた。
「いい加減にしろって!放っといてくれって言ってんだ!それが分かんないのかよ!」
「分かりません!ちっとも、分かんないですよ!」
「こんのっ……!」
頭に血がのぼる。気づいた時には、俺は口を開いていた。
「余計なお世話なんだよっ!お前にそばにいられる方が迷惑だっつってんだろ!わかったなら、とっとと放せよッ!」
全て言い終わった時には、俺は酷い息切れを起こしていた。全力疾走した後のように、心臓が痛い。だが、覆水盆に返らず。俺は言ってしまったし、ウィルは聞いてしまった。
「っ……!」
ウィルは目を見開き、唇を噛むと、片手を振りかぶった。
殴られる。そう思った。
「桜下さん。あまり、舐めないでください」
え……?俺は強く手を引かれて、前につんのめった。金糸のような髪が揺れて、フードがぱさりと外れる。背中に片腕が回された。
ウィルに抱きとめられたと理解したのは、数秒経ってからだ。
「お、おい!何のつもりだ、放せよ!」
「嫌です!放しません!」
俺が激しく身をよじっても、ウィルはしがみつくように俺から離れない。意味が分からないぞ!
「なんで……なんでだ!俺はウィルに……!」
「舐めないでって言ったでしょう!桜下さん、私が軽い気持ちで、あなたを家族だって言ってると思ってたんですか!?」
「え……?」
「だとしたら、大バカですよ!ここで見捨てるような人に、私はそんなことは言いません!」
背中に回されたウィルの右手が、服をぎゅうと掴んだ。俺にはそれが、心臓を鷲掴みにされたかのように思えた。
(痛い……)
今の俺は、優しくされればされるほど、心がねじ切れそうなほど痛くなるんだ。
「……くそっ!わかった、もうわかったから!だから頼むから、もう一人にしてくれよ!」
「いや!」
「ウィル!」
「あなたが、私を救ってくれたから!」
え……?ウィルの言葉の意味が分からなくて、俺は身をよじるのをやめた。
「私が一人になろうとした時、あなたが手を差し伸べてくれた!私がどれだけ拒絶しても、あなたは逃げずに向かってきてくれた!だから今度は私が、桜下さんのそばにいるんです。たとえそれで、あなたに憎まれたとしても!」
なんだって……?俺はハッとした。その時初めて、今のこの状況が、王都でのあの一夜と真逆なんだと気がついたんだ。
「桜下さんは、辛いんですよね?辛くて、苦しくて、誰かに心配されるのが痛くて、一人になりたいんですよね。私もそうだったから、わかるんです」
「……そこまで分かってるなら、どうして……」
「でもね、桜下さん。やっぱりそれって、解決にはならないんです。あの時桜下さんが来てくれなかったら、私はきっと今……ここにいません。私はあなたに、そんな風になってほしくありません」
ウィルはしがみついていた腕の力を緩めると、改めて、優しく抱きしめてきた。俺の耳もとに頬が寄せられる。彼女の髪からは、冷たい、だけど懐かしい香りがした。
「桜下さんは、その苦しみを一人で抱え込むつもりでしょう?今みなさんのところに戻ったら、あなたは普段通りのあなたになってしまう。苦しみを見せようとしない……違いますか?」
「俺……おれは……」
「大丈夫。だいじょうぶです」
冷たい手が、俺の後頭部を撫でた。耳元で、優しい声がささやく。
「たとえ何があっても。私は、あなたのそばにいますから」
つづく
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読了ありがとうございました。
続きは【翌日0時】に更新予定です(日曜日はお休み)。
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ロウランに腕を引っ張られながら、ウィルはなんとかその手を振りほどこうともがいていた。だが見た目以上にロウランの力は強く、その手はまるで緩まない。そうやってずるずると夜の浜辺を引きずられながら、ウィルはまだ決心がつかないでいた。
「私、やっぱり……今から戻って、もう一度フランさんに」
「それは、やめといたほうがいいと思うの」
ピタリ。いきなりロウランが足を止めたので、ウィルは危うくぶつかりそうになった。ロウランが振り向く。
「あなた、あのコがどうしてあなたに譲ったのか、分からないの?」
「え……そ、それは」
「きっと、前々から考えてたんだよ。その場のノリで軽々しく言ったんじゃ、ないと思うな」
うぐ。ウィルは言葉に詰まった。フランのあの、決意に満ちた瞳。確かにあれは、思い付きでどうこうできるものじゃない……
「そういうのは、きちんと正面から受け止めてあげるべきなの。あなたは、あのコからダーリンを託されたんだよ」
「う、ぅ……わ、私で、よかったんでしょうか……」
「知らないの」
「え、えぇ?」
あっけらかんと言い放つロウラン。
「アタシが行けたらよかったんだけどね。ねえ、今からでもアタシに譲ってくれる?」
「そ、そんなの……!」
できません、と続けようとして、ウィルはロウランにそう言うよう誘導されていることに気が付いた。ロウランがニヤニヤと笑っている。ウィルはむむっと眉根を寄せた後、はぁとため息をついた。
「……分かりました。女は度胸です。精いっぱいやってみます」
「それでいいの♪ほら、この先をまっすぐ行ったところだよ。そこにダーリンはいるの」
気付けば、さざ波が寄せる桟橋の近くにやって来ていた。この桟橋の先に、桜下がいるのだろう。ウィルはすぅと息を吸うと、まっすぐ前を見据えた。
「では、行ってきます」
「うん。よろしくね」
ひらひらと手を振るロウランの姿が、うっすらと透けていく。その姿に見送られて、ウィルは桟橋の上を滑るように進み始めた。
俺は、足もとでぴしゃぴしゃとはねる波を、じっと見ていた。別に、海の中に財布を落としたわけじゃないが……しいて言えば、俺の視界で動いているのはそれしかないので、何となく見ているだけだ。どういうわけだか、夜の浅海は、仄かにライトグリーン色の光を発している。水底で何かが光を放っているようだ……生き物だろうか。それとも、これも魔法か。どっちでもよかった。興味があるわけじゃないから。
夜の海に風が吹く。優しい風は、砂浜に植えられたヤシの葉をさわさわと揺らす。甘い果物のような香りが鼻をくすぐる。俺は最低だ。
「桜下さん……」
背中から声を掛けられた。俺は驚かなかった。こうなるような気は、心のどこかでしていたから。俺は振り向かずに言う。
「その声、ウィルか?」
「ええ……その……すみません」
「あはは、どうして謝るんだよ。開口一番に」
「でも……一人にしてくれって。それに、私よりも……」
ウィルはしどろもどろで、何が言いたいのかよく分からなかった。なんだか俺よりも、ウィルの方がひどく狼狽えているようだ。俺が怒るとでも思っているのかな?そんなことしないのに。
「ウィル。よかったら、隣座ってくれよ。せっかく来てくれたんだからさ」
俺はそう言うと、つま先を伸ばして、波を蹴飛ばした。ピシャリ。靴が濡れるが、気にならない。やがておずおずと、俺の隣にウィルがふわりと腰を下ろした。
「桜下さん、その……」
「聞いたんだろ?アニから。あいつ、ちゃんと話したか?」
「え、ええ。包み隠さず、と本人は言っていました」
「そっか。あいつは真面目だから、じゃあほんとにそうなんだろうな」
真面目で、人間味がなくて、噓がつけないガラスの鈴。アニをぶら下げずに出歩くなんて、初めての経験だった。風呂とか以外じゃ、片時も離れなかったからな。
「そうかぁ……なんか、悪いな」
「え?」
「また、かっこ悪いとこ見せちまっただろ?ったく、少し株が上がったと思ったら、すぐズドンと落ちるんだからな。嫌んなっちまうよ」
「……私は、桜下さんをかっこ悪いとは思いませんよ」
ウィルは、優しいな。まだそう言ってくれるのか。
「ありがとな。でもさ、正直、幻滅したろ」
「幻滅、ですか?」
「ああ。だって俺……自殺、してるんだぜ」
「っ」
隣でウィルが息をのむのが聞こえた。
「ああ、あんまり気を遣わないでくれよ。他人事みたいなもんだし」
「え?それは、どういう……」
「自殺したってこと自体は思い出せたんだけど、その理由とか、そん時どういう気持ちだったのかは分かんないんだ。ほら、封印されちったから」
俺は自分のこめかみをトントンと叩いた。記憶の封印って、具体的にどうやってしているんだろう?俺はそれをされたことにすら気が付かなかった。
「正直、ぜんぜん実感がわかないよ。アニは嘘をつかないから、事実なんだろうけど……自分の事じゃないみたいなんだ。んなもんだから、ショックではあったけど、頭ん中はいやに冷静でさ。で、色々考えちゃってな……」
不思議なものだ。人には、自分の死よりも気がかりな事というものがあるらしい。
「みんなは……生きたくても、生きられなかったのに。俺は自ら、死を選んだんだ。ほんとに最低だよ。合わせる顔がないっていうのは、このことを言うんだな」
「そんな……!」
ウィルがこっちを見つめているのが分かる。けど俺は、彼女の目を見られなかった。
「呆れないでくれるか。思い出せないけど、当時の俺には、それなりの理由があったと思うんだ。じゃなきゃさすがに、そんなことに踏み切ろうとは思わないだろうし」
「そんなことは……でも」
ウィルは言葉を区切ると、考え込むように少し黙ってから、また口を開いた。
「……でも正直、軽々しく気持ちはわかる、とは言えません。今、少し考えてみましたけど、やっぱり私には、死にたくなる気持ちが分からないです。今まで生きてきて、そして実際に死ぬまで、死にたいなんて思ったことは一度もありません」
「そう、だよな。なのに俺は……」
「ですが。それは私が、幸福だったからです。決して裕福ではなかったですし、辛い事も多かった……けど、そこまで追い詰められることはなかった。桜下さん、私は桜下さんの記憶の封印が、戻らなければいいのにとさえ思ってしまいます」
「え?」
「だって……死にたくなるような記憶が、辛くないわけ、ないじゃないですか」
ウィルの半透明の手が、俺の膝の上に乗せられた。俺はその手を見つめる。
「私はそれほどの苦しみを味わったことがないから、適当なことは言えません。けど、それで桜下さんが引け目を感じるのは、間違っているとはっきり言えます」
「でも……」
「だって、そうでしょう?あなたは誰かを傷つけたわけじゃない。フランさんたちだって、桜下さんを妬むようなことはしませんよ。ただ……悲しいだけ、です」
「悲しい?」
「ええ……桜下さんがそんなにまで追い詰められたことが。どうしてあなたを、誰も助けてあげなかったのか……それが、悲しいです」
悲しい、か……そうだった。ウィルは、他人の死を、自分のことのように悲しむ娘だ。
「ははは……ウィルらしいな。よかった、安心したよ」
俺は乾いた声で笑った。愚痴まで聞いてもらった上に慰めてもらって、ウィルには悪いことをしてしまった。これ以上甘えるのも悪い、そろそろしゃんとしないと。
けどさウィル、一つだけ間違えているよ。俺は、誰にも助けられなかったわけじゃないんだ。
「さあ……そろそろ戻るか。いつまでもこうしてるわけにもいかないしな」
「桜下さん……もう、大丈夫なんですか?」
「おう。おかげさまで、もうすっかり平気だよ」
俺は後ろに体重をかけると、足を引っ込めて、ぴょんと跳ぶように立ち上がった。
「よっと。みんなにも心配かけちまってるんだろ?なら早く大丈夫だって伝えないと」
外に出たおかげで、心の整理はある程度ついた。もう大丈夫だ、きっと今からは、いつも通りの俺で居られるはず……俺は深く息を吸い込むと、コテージへと足を進めようとした。
かくん。
「おっとと……なんだよウィル。どうして引っ張るんだ?」
桟橋に腰かけたままのウィルが、片手を伸ばして、俺のコートの裾を掴んでいた。ウィルはうつむいているので、その表情はフードに隠れてうかがえない。何のつもりだろう?
「……」
「おーい、ウィル?」
「……桜下さんっ」
うわっと。ウィルはばっと振り向くと、ふるえる黄金色の瞳で俺を見上げる。
「私の勘違いだったらごめんなさい。でも桜下さん、ぜんぜん大丈夫なんかじゃ、ないですよね?」
「え……?」
なんで……なんでウィルは、そんなこと言うんだ……?俺はとっさに笑顔を浮かべようとしたが、どうにも顔が引きつってしまった。
「ど、どうしてだよ。あはは、他ならぬ俺自身が、もう平気だって言ってんだぜ?」
「ええ、分かってますよ。でも、ちっともそんな風に見えないんです」
「おいおい、んなこと言われても……じゃあ、どうすりゃいいんだよ?逆立ちでもすれば元気だって認めてくれるか?」
「桜下さん!茶化さないでください!」
「ウィル、なあおい。ちょっと落ち着いて……」
「じゃあどうして!“そんなことない”って言わないんですか!」
「……っ」
ウィルの透き通るような瞳は、全てお見通しだとばかりの光を放っていた。ぐっ……言葉に詰まる。無意識のうちに、避けていたのかもしれない。
俺は作り笑いを引っ込めた。
「……」
「桜下さん……まだなにか、あるんでしょう?確かにさっきの言葉には、嘘は感じませんでした。でも、それで心が晴れたようには、どうしても思えないんです」
「……だったとして。それで、どうしろって言うんだ?」
「それは……」
ウィルは迷うように瞳を伏せた後、ぎゅっと目を閉じた。そして、開く。
「話して、くれませんか。私に、すべて」
……だよな。そう言うと思ったんだ。俺は唇を噛む。
「……嫌だ」
「どうしてですか」
「別に、どうだっていいだろ。嫌なものは嫌なんだ。なあ、もういいだろ。とっとと行こうぜ」
俺はコートの裾を引っ張って、ウィルの手を振り払った。そのまま逃げるように、ずんずんと歩き出す。だが数歩歩いたところで、今度は手首をぐっと引っ張られた。ちっ!
「くどいぞ、ウィル!」
「桜下さん!ダメです、行かせません!」
ウィルは俺の手首を両手でしっかり掴んでいる。ちくしょう!なんでこんな時に、こいつはこんなに頑固なんだ!俺は頭の中で火花が散るのを感じた。
「いい加減にしろって!放っといてくれって言ってんだ!それが分かんないのかよ!」
「分かりません!ちっとも、分かんないですよ!」
「こんのっ……!」
頭に血がのぼる。気づいた時には、俺は口を開いていた。
「余計なお世話なんだよっ!お前にそばにいられる方が迷惑だっつってんだろ!わかったなら、とっとと放せよッ!」
全て言い終わった時には、俺は酷い息切れを起こしていた。全力疾走した後のように、心臓が痛い。だが、覆水盆に返らず。俺は言ってしまったし、ウィルは聞いてしまった。
「っ……!」
ウィルは目を見開き、唇を噛むと、片手を振りかぶった。
殴られる。そう思った。
「桜下さん。あまり、舐めないでください」
え……?俺は強く手を引かれて、前につんのめった。金糸のような髪が揺れて、フードがぱさりと外れる。背中に片腕が回された。
ウィルに抱きとめられたと理解したのは、数秒経ってからだ。
「お、おい!何のつもりだ、放せよ!」
「嫌です!放しません!」
俺が激しく身をよじっても、ウィルはしがみつくように俺から離れない。意味が分からないぞ!
「なんで……なんでだ!俺はウィルに……!」
「舐めないでって言ったでしょう!桜下さん、私が軽い気持ちで、あなたを家族だって言ってると思ってたんですか!?」
「え……?」
「だとしたら、大バカですよ!ここで見捨てるような人に、私はそんなことは言いません!」
背中に回されたウィルの右手が、服をぎゅうと掴んだ。俺にはそれが、心臓を鷲掴みにされたかのように思えた。
(痛い……)
今の俺は、優しくされればされるほど、心がねじ切れそうなほど痛くなるんだ。
「……くそっ!わかった、もうわかったから!だから頼むから、もう一人にしてくれよ!」
「いや!」
「ウィル!」
「あなたが、私を救ってくれたから!」
え……?ウィルの言葉の意味が分からなくて、俺は身をよじるのをやめた。
「私が一人になろうとした時、あなたが手を差し伸べてくれた!私がどれだけ拒絶しても、あなたは逃げずに向かってきてくれた!だから今度は私が、桜下さんのそばにいるんです。たとえそれで、あなたに憎まれたとしても!」
なんだって……?俺はハッとした。その時初めて、今のこの状況が、王都でのあの一夜と真逆なんだと気がついたんだ。
「桜下さんは、辛いんですよね?辛くて、苦しくて、誰かに心配されるのが痛くて、一人になりたいんですよね。私もそうだったから、わかるんです」
「……そこまで分かってるなら、どうして……」
「でもね、桜下さん。やっぱりそれって、解決にはならないんです。あの時桜下さんが来てくれなかったら、私はきっと今……ここにいません。私はあなたに、そんな風になってほしくありません」
ウィルはしがみついていた腕の力を緩めると、改めて、優しく抱きしめてきた。俺の耳もとに頬が寄せられる。彼女の髪からは、冷たい、だけど懐かしい香りがした。
「桜下さんは、その苦しみを一人で抱え込むつもりでしょう?今みなさんのところに戻ったら、あなたは普段通りのあなたになってしまう。苦しみを見せようとしない……違いますか?」
「俺……おれは……」
「大丈夫。だいじょうぶです」
冷たい手が、俺の後頭部を撫でた。耳元で、優しい声がささやく。
「たとえ何があっても。私は、あなたのそばにいますから」
つづく
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