年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,2_07. 隠れ家のジンジャーエールは恋の味

 地下へつづく階段を降りた先にある白木の扉をひらくと、壁のあちこちに極彩色の絵画やアート作品が無造作に飾られている無秩序でありながら魅力的な空間が拡がっていた。
 アートカフェ&レストランバー『ホワイトチョーク』。
 そこは学生時代から淑乃が通っている無名の芸術家たちの作品を楽しめるアトリエ兼食事処である。
 この店を切り盛りしている夫婦も大学卒業生で、一部の学生たちの隠れ家的存在として支持を受けている。淑乃もサークル仲間と何度か足を運んだことがあり、大学院を卒業してからも年に数回灯夜と一緒にご飯を食べに通っていた。

「あら珍しぃ、よしのちゃんがオトコつれてくるなんて。トーヤくんは?」
「学童の延長お願いしてきちゃった。奥空いてる?」
「ガラガラよ。すきな場所つかって」
「りょーかい」

 朔は淑乃に案内されるがまま、この隠れ家風のお店に足を踏み入れて、絶句している。大学のすぐ近くにこんなお店があったことに驚いているらしい。背の高い観葉植物と謎の狸の置物が複数並べられている奥の席の黒いテーブルを選んだ淑乃は、店長の好奇心丸出しな視線を無視して「いつもの!」と注文をする。

「……ここは?」
「サクくんは来たことなかったよね? 学生時代サークル仲間と打ち上げでつかっていたお店」
「ああ、はじめて来たよ。暁は?」
「アカツキくんはそもそもこの場所を知らないよ。彼は劇団のひとだったから。いまはあたしとトーヤがときどきご飯を食べに行くだけ」

 そう言って、壁面を眺める朔を面白そうに見つめながら淑乃は説明する。
 学生時代『アート集団ナヒト(通称アートな人)』に所属していた淑乃だが、朔が入学してきたときにはすでに大学三年生だったこともあり、就職活動で忙しくなりはじめた仲間と自然と距離を置くようになっていた。せいぜい文化祭のヘルプで後輩を手伝ったり暁が所属していた演劇集団の舞台美術に口を出していた程度だから、朔は淑乃がサークルで精力的に活動していた過去を知らない。ただ、彼も絵を見ることは嫌いではないのでこういったお店に連れて行っても抵抗されないだろうと思った淑乃である。
 けれども今夜彼女がこの店を選んだ理由はそれだけではない。

 ――このことを知ったら、アカツキくんは発狂するかな。

 この『ホワイトチョーク』は、雑居ビルの地下に位置していることもあり、GPSが察知しないのだ。もともとアート作品を堪能できるよう電波が入りにくい構造になっているため、淑乃が携帯電話を持っていても位置情報は最新のものに更新されず、大学敷地内にいると誤解させることができる。
 ただ、今日は念には念を入れて、淑乃は自分の携帯電話をあえて白衣のポケットに入れっぱなしにして、職場に置いてきた。これですこしは時間稼ぎができるはずだ。
 ここに朔を案内したのは、彼の元に暁から連絡が入るのを恐れたから。一度だけ逢いたいと願った淑乃の言うことをきいてくれた暁だが、その後も淑乃と朔が彼を欺くようにふたりで逢ったことが判明したら、何をするかわからない。

「お待たせしました。ほうれん草とチキンのクリームパスタとピッツァマルゲリータです。お飲み物はジンジャーエールでよろしかったでしょうか?」
「あたしはそれで構わないけど、サクくんは?」
「……俺はコーヒーで」
「かしこまりました」

 閉院作業があるからと井森は淑乃と朔が一緒に出ていくのを見送ってくれたが、暁の兄で灯夜の父親である朔をまだ完全には信用していないようだった。それもそうだろう、八年間音沙汰なしの恋人がとつぜん職場に来たのだから。実際には暁が邪魔して彼との再会を阻んでいただけなのだが、そこまで説明する余裕もなかったため、井森からすれば朔は悪い男に見えてもおかしくない。
 とはいえ今回は朔を想う淑乃の味方だと言ってカウンセリングの時間と篠塚がいる外来の時間をずらしてくれた。名目上は婚約者に逃げられて抑うつ状態になった患者のカウンセリングとフォローアップ。朔が来る前に事情をきいた井森も婚約者に逃げられたはなしが真実だと知って「嘘みたいね」と驚いていた。そのことが引き金となって彼がいまも淑乃を諦めきれていない現実と向き合うことになったわけだが、そのことについては「遅すぎる!」と淑乃の代わりにぷりぷり怒ってくれた。彼が灯夜の存在を知らないまま生きてきたことを知ってさらに憤る井森に、淑乃の方が慌てて事情を伝えて宥めたほど。

「俺、受付の子に悪いことしちゃったかな……当日に予約入れて」
「そんなことないよ。忘れたり遅れてくる患者さんも多いから。ただ、イモリちゃんは素直な子だから」
「……睨まれた気がする」
「あたしと一緒に出ていったから、これ以上悪いことしないように睨んだだけでしょ」
「なんだよ悪いことって」
「んー、ヤり逃げとか……?」
「なっ! 俺ってそんなに不誠実な男に見えた?」
「あたしはそう思わないけど、周りからするとかなりヒドい男に見えるんじゃないの」
「まいったなあ」
「で、でもイモリちゃんはあたしの複雑な事情を知ってるから、仕方なかったことは理解してるよ、たぶん。今回も彼女のおかげでアカツキくんに隠れて逢えたわけだし」

 それでも逢瀬のために毎回彼女に甘んじるわけにはいかない。今日は篠塚が五時あがりだったからよかったものの、彼と朔が鉢合わせたらそれはそれで面倒なことになるのが目に見えている。
 まあ、どっちにしろいつかは知られてしまうことだと淑乃はあたふたする朔を見つめながら学生バイトらしき若きウエイターが運んできたジンジャーエールにストローを入れる。さすがに子どもを迎えに行く前にアルコールを頼むほどダメな親ではないのだ。

「ここなら、時間いっぱいまで誰にも邪魔されないよ。サクくん。はなしのつづきをきかせてよ。あたしがいなくなってから八年、何をしていたの?」
「さっきもはなしたけど、大学卒業して三年くらいは全国各地の現場をまわっていた。その後は東京本社で社長秘書について」
「――もし、父親が選んだ婚約者に逃げられなかったら、きっぱりあたしのこと諦められた?」
「……わからない」

 パスタを取り分けながら淑乃は朔の表情を観察する。
 ふだんからあまり感情を出さない朔の本心を読み取るのはそう簡単ではない。淑乃が姿を消してからの八年間、彼はさらに心に鎧をまとうようになっていた。仕事に没頭することで、恋人が消えたことをカバーした結果だろう。

「わからないけど、淑乃のことを忘れたことはなかった。たしかに不誠実な男だな」

 婚約者とあのまま結婚していたら、確実に不誠実な男の烙印を押されたことだろうと朔は自嘲する。
 淑乃と別れてから一度もほかの女性と関係を持たないまま年ばかり重ねたかつての恋人は、学生時代の青さを残しながらも男としての色気を増していた。「寄ってくる女性も多かったでしょ」と茶化すようにきいても彼は首を横に振るばかり。

「肩書目当てで近寄ってきたのはいたけど、そういう女は弟にも声をかけていたし、父親が選んだ婚約者がいると知れば怖気づいてその場を離れていったよ」
「ふうん。その婚約者って年下だったんでしょ。女子大出たばっかりって言ってたけど」
「ああ……暁からきいたのか」
「まあね」
「けど、結局彼女は俺なんか相手にしないでずっと傍にいた執事と駆け落ちした。あれはなんというか憑き物が落ちたような気分だったな」

 パスタとピザを交互に食べながら、朔はあっけらかんと口にする。まるで、婚約破棄されたことは別にショックでもなんでもないのだと淑乃に言い聞かせるかのように。

「そういうよしのこそ、大変だったんじゃないか……俺に黙って出産って」
「それは、ごめん」
「ごめんって」

 そんな軽く謝られてもとたじろぐ朔に、淑乃はくすりと笑う。

「だって、サクくんとのあいだに子どもができたのは……奇跡だったから」
「――ごめん」

 淑乃が高校時代に経験した壮絶な過去を、朔は知っている。そのことを思い出させてすまないと申し訳なさそうな顔をする彼に、淑乃はしずかに首を振る。

「ううん。あたしの方こそ、トーヤのこと勝手にいろいろ決めちゃって……」
「俺がいない夜でも明かりを灯せるように、ってよく名付けたな。もう俺は不要なのか?」
「何言ってるの。父親を越えるように、って願いを込めただけじゃない。それとこれとははなしが別よ」
「どーだか」
「このあと……一緒に学童まで迎えに行く?」
「よしのが許してくれるなら」

 コーヒーを味わっていた朔が悪戯っぽく笑う。ふたりで分け合ったパスタとピザの皿はあっという間に空になっていた。
 時計の針は午後八時半。店を出るにはちょうどいい時間だ。淑乃は「許すも何もないでしょ」とジンジャーエールを飲み干してから立ち上がる。
 テーブルからはなれる際に壁にかけられた黒い絵画がカタりと揺れる。朔が慌てて彼女の前へ両手を伸ばしてその絵が落ちないように支えれば、自然と彼女を囲うような形になってしまう。

「……サク、くん」
「よしの。次はいつ逢える? 職場を介して連絡するのは大変だろう? 暁には俺の方からはなすよ。バカなことはやめろって」
「でも」
「こういうときくらい、俺を頼れよ。それ以上口答えするなら、塞ぐから」
「サクく……――ンっ」
「――今度逢うときは、身体のすみずみまで愛してやるよ」

 壁から落ちそうになっていた絵画を両手で支えたままの朔に口づけられて、淑乃は身動きが取れなくなる。まるで壁ドンだ。
 幸い、観葉植物の葉の影に隠れているから、ふたりが壁際でキスしている姿は目立たない。それでも恥ずかしい、けれど……
 観念した淑乃は彼の背中にそっと手をまわして、ジンジャーエールと苦いコーヒーが混ざったキスに溺れることにした。

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