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年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,2_04. 過去の痛みと束の間の逢瀬

 ――自分の心の傷を自分で癒やすことができたら、どんなに素晴らしいだろう。

 淑乃が心の世界に興味を抱いたのは、精神を病んでいた母親が生きづらそうにしていたからだ。
 香宮家の高貴な姫君だった母は、入婿に選ばれた男が死後に重婚まがいの騒動を起こし、向こうの女の親族に逆恨みされ一族の矜持を奪われた経験によって、変わってしまった。

 精神病院で入退院を繰り返していた母に代わり、幼い頃の淑乃は祖母によって育てられた。香宮の家に嫁いできた彼女は、後継ぎとして婿を取らざるをえなかった淑乃の母と異なり、柔軟な思考の持ち主だった。物心ついた頃から「お母さんは病気なんだよ」と憐れみ混じりに言われていたから、そういうものかと淑乃は納得していた。

 母の病態は淑乃が小学生になる頃には落ち着いたが、祖母の死後、ふたたび悪化してしまう。思春期まっただなかの娘は母の恨み節を聞くことにも嫌気が差し、彼女と距離を置くようになる。薬の効果があるときだけは正気だが、それ以外のときは淑乃の前で泣くか喚くか酒を飲むかというていたらく。死にたいと叫んで手首を切りつけたり睡眠薬を過剰に飲んで救急車を呼んだり、そうかと思えばふらりと夜の街に出て知らない男を部屋に連れ帰って娘がいるというのに抱き合ったり……淑乃はそんな彼女の尻拭いのせいで、高校生のときに過ちを犯してしまう。

 母親が連れ込んできた男に襲われたのだ。
 薬を盛られ朦朧とした意識のなか全裸にされた屈辱と身体を引き裂かれた痛みと絶望は、もう二度と経験したくない類のもので、淑乃の心と身体は闇に沈んだ。薬によって記憶が曖昧なため、本人のショックは痛みによるものの方が大きかったが、医師から将来子どもを妊娠することは難しいだろうと診断されたことだけが悔しかった。
 けれど、娘を傷つけられたことで母親は自分の罪に気づき、その日を境に男遊びに興じることはすっかりなくなった。男は女性に非道な行為を行う常習犯だったらしく、高校生の淑乃に手を出したところを母に通報され、あっさり警察に捕まり長期の実刑が確定し、いまも塀のなかにいる。

 淑乃はこの事件を機に実際の心理カウンセラーと知り合い、自分の体験を少しずつ昇華していった。高校時代は友人を作ることもできずにいたが、父親譲りであろう持ち前の楽観的な性格が良い方向に出ていたらしく、自分も心理の道に進みたいと勉学に励み、志望校に現役合格することができた。
 とはいえ、母との仲は冷えきっていた。裏切られたという心の傷だけは、どうしても癒せなかったから。

 ――その彼女が死んだことで、自分の憎しみは虚空に放り出されてしまった。

 事故の報せは馴染みのケースワーカーから届いた。
 母と喧嘩別れするような形で一人暮らしをはじめた淑乃にとって、彼女は唯一の架け橋となる存在だった。駅前の交差点で車が暴走し母が巻き込まれたと。首の骨を折り即死だったという。淑乃は自分が襲われたとき同様に、どうしようもならない気持ちに陥った。運が悪かった。自分のせいではない。そういった言葉を呪文のように唱えて、感情に蓋をして母を弔った。いつか溢れ出てくることは理解していても、そうすることでしか対処することができなかった。

 大学で心理学の授業を学んでいてもなかなか身に入らなかった。自分みたいな人間が他人の心の傷を癒やすなどできるわけがない、そんなふうに落胆していたのを見て、教授が統計学を薦めてくれた。感情と向き合う以前の、数字による解析。心理テストの土台となるサンプルの集計。単調なものだが、淑乃は与えられた課題に取り組むうちに、すこしずつ回復していく。

 女子寮で知り合った芸術学部の子にサークル活動をすすめられ、自由気ままに絵や彫刻を楽しむようにもなったのもこの頃だ。自分で描いたり彫るというよりは鑑賞して作家の深層心理を探るという独特の楽しみ方をしていたが、仲間からは好評で、淑乃の趣味に美術館通いの項目が加わった。
 大学生の作品はもちろんのこと、地元の中高生の美術工芸品も何度か見る機会があり、そこで当時の自分を彷彿させる絵を見つけて驚いたこともある。あれはたしか、地元の中学生が北国の夜を描いた作品で「極夜」なんてシンプルなタイトルがついていたっけ。

 ――一日中、夜の世界。
 ずっと明けない夜のなかでがむしゃらになっているのは、あたしだけではないのだなと、密かに安心した記憶がある。

 そして母の一周忌。
 墓前に花を手向けた際に出逢った男によって、淑乃は海堂朔に興味を抱く。
 どうせ子どもを作れない身体だ。いまさら他の男とどうこうする気もない。それならいっそ、母が死ぬまで恨んでいた海堂の男を誘惑してやろうか――……


   * * *


 ブルーグレーのスーツを着込んだ朔の姿を前に、淑乃は高鳴る鼓動を抑え込みながら言葉を紡ぐ。

「遅い」

 沓庭ガーデンクリニック、第一診察室の隣に位置するカウンセリングルーム。
 夕方六時のチャイムよりすこし早めに来た朔は、井森がいる受付で素直に問診票に記入し、淑乃との一対一のカウンセリングを一時間行う権利を見事に取得した。日が暮れたので窓はカーテンをしめており、明るい雰囲気のカウンセリングルームのなかもいまは橙色の蛍光灯のひかりだけがぼんやり浮かぶ物寂しい空間になっている。
 扉の前で白衣を着てぴしっと背筋を伸ばして待っていた淑乃だったが、向こうから現れた朔の大人になった姿に絶句する。なんせ大学生のときの彼しか知らなかったから、いまの社会人になった彼のスーツ姿をまじまじと見たのは初めてだったから……改めて惚れ直してしまうほどの破壊力があった。

「……すまない。ほんとうならもっと早く逢えると思ったのだが」

 そんな淑乃の強がりなヒトコトを前に、朔は素直に頭を垂れる。もっと早く逢いたかったと心から詫びている彼を見て、思わず淑乃も彼のスーツの裾を握りながら口を滑らせてしまう。

「あたしだって逢いたかった」
「八年間音信不通だったくせに」
「あれはアカツキくんが……っ」
「俺の前で他の男の名を口にするな」

 スマートに口づけられて、何も言えなくなる。
 一時間もの間、彼とこの部屋でふたりきりなのに。
 はなしたいこと、はなさなくてはいけないことがたくさんあるのに。

「どこからはなせばいい? 与えられた時間は一時間しかないんだろう?」

 朔は「一時間しかない」と焦りの表情を見せている。そうだ、いまの自分たちは学生時代のように夜遅くまでお喋りに興じられないのだ。我に却った淑乃はかつての恋人の前で素に戻ってしまった自分を諌め、ビジネスライクな口調で井森から渡されたカルテを読み上げる。

「……婚約者に逃げられて以来、精神的に追い詰められている、ね。カウンセリングに来る理由をでっちあげるまでもないところがサクくんらしいわ」
「うるせえ」
「住所地沓庭になってるけど、大学出てから東京で暮らし始めたんじゃなかったっけ?」
「越してきた。よしのがいるから」

 さらりと爆弾発言をする朔を無視して、淑乃は淡々とはなしをつづける。

「……家族構成は会社経営者の父と、ふたつ年下の弟。お母様は早くに亡くされて」
「俺が小学生の頃な。暁はまだ幼稚園児だった」
「それ以来、叔母さまがふたりの母親代わりになった、と」

 その母親代わりの叔母、光子と婚姻関係にあった男こそ、海堂と香宮の一族に亀裂を入れた淑乃の父親である。
 淑乃は光子と実際に逢ったことはないが、淑乃の母と死んだ兄の名前で結婚していながら金のためだけに海堂の娘にも手を出し、数年間のほほんと暮らしていた男のことを死んでからは空気のように扱っているという。父親が男の一族を断罪したことについては当然だというが、香宮の人間については巻き添えを食らっただけだと思っているようで、同じ女性として母のことを哀れんでいたときく。

「あと、俺達には兄代わりのような叔父もいて……むかしは仲が良かったんだが、いまは後継者候補として互いに争う立場になっていて」
「……そのはなしは初耳だわ」

 ――いや、淑乃はどこかできいたような、と首を傾げ、朔を見つめる。
 彼はK&D代表取締役社長兼CEOの長子として、将来社長の椅子が約束されている御曹司。けれど、婚約者に逃げられたことで彼の立場は海堂グループ全体で危ぶまれているのだという。後継者にするなら朔よりも弟の暁の方がいいのではという声があがっているという噂もある。けれど、もうひとり彼の立場を脅かす存在が……そういえば、母の墓前に花を手向けてくれたあのひとが自ら口にしていたではないか。自分は月の裏側にいるしがない陽光だと。海堂朔という男に復讐しないかと淑乃を唆した……

「現K&D取締役兼COOの海堂陽二郎。暁なんかよりも食えない、海堂グループ一腹黒い男だ」

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