年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない
Chapter,2_02. 勿忘草の花言葉
息子の存在が暁に露見したのは七年前のゴールデンウィーク明け。
夕方、大学病院の保育所から母子寮へ戻る途中、勿忘草の花が咲く歩道でぐずる赤子の灯夜を抱っこ紐であやしている姿を見られてしまったのだ。
兄の朔が大学を卒業して一年が経過していたことで気が抜けていた自分にも当然非がある。けれど、理工学部棟から遠く離れた大学病院の歩道を暁が通りかかったことは、偶然ではなく必然だった。
朔が大学を卒業してからも、暁は彼に黙ってよしのという姓の女性を探しつづけていたらしい。大学院生の卒業名簿を探しても見つからず、諦めかけたときに見つけたのが、香宮淑乃、という名前だ。
兄が結婚したいと望んだ女性が、自分たち一族と因縁を持つ娘だと知らなかった暁は、なぜふたりが別れたのか納得できずにいたのだという。けれども彼は、朔と淑乃が隠していた真実を暴いてしまった――暁は、ふたりに裏切られたと思ったに違いない。
「見つけましたよ。朔兄から逃げ出せて満足? 香宮先輩」
淑乃にとって、海堂朔は復讐すべき相手で、恋すべき相手ではないはずだった。目の前で忌々しそうに自分を見つめる弟の暁の方が、正しい反応なのだ。
暁は自分から朔の心を奪った淑乃が、ひとりで子どもをあやしている姿に驚いたようだった。
朔の子だと素直に認めた淑乃を前に、暁は困ったなあと嗤いだす。
「朔兄には婚約者との結婚が控えているのです。隠し子の存在が明らかになろうが、いまさら貴女が入り込む隙などありませんよ」
淑乃を傷つけるように、暁は告げたけれど、泣きそうな顔をしていたのは彼の方だった。
自分は香宮の娘だから、彼の花嫁になりたいと願うなどおこがましいのだと、淑乃があっさり言い切ったから。
その瞬間、暁はとんでもないことを言いだした。
「貴女は俺たちにとっての勿忘草なんです。どうか、朔兄の結婚式が無事に行われるまで……」
――海堂の名のもとに、貴女を監視させてください。
* * *
運命の歯車は思いもしない時宜とともに、とんでもない方向へ狂っていく。
息子の存在を朔に黙ってもらう代わりに淑乃は自分の携帯電話に暁が作成したアプリを入れることを渋々認めた。大学の理工学部で情報工学を専攻していた暁は在学時代から海堂グループが扱うコンピュータシステムを牛耳っていたのだ。
暁は自分と息子の存在をほかの海堂の人間に知られないよう守るために必要なものだと説明してくれたが、自分が登録した情報はすべて彼に筒抜けで、下手をすればメールや通話の履歴も簡単に確認できる状態だった。
朔の結婚式が無事に行われるまでと暁は言っていたが、結婚式は失敗に終わっている。そのうえ、朔はいまも淑乃を求めている。
朔に自分の連絡先を嬉々として教えたら、履歴情報を読み取って暁が邪魔するのは目に見えている。
だからあえてお金と職場の名刺を置いて、淑乃は朔の前から去ったのだ――彼のことだから、きっと職場までお金を返しに来ると信じて。
――勿忘草、か。花言葉はたしか、“わたしを忘れないで”……
婚約破棄された朔を慰めるため一目でいいから彼に逢いたいと希った淑乃のために、暁は夢のような一夜をお膳立てしてくれた。
けれど、暁は淑乃と朔がよりを戻して結婚することを快く思っていないはずだ。
それとも、状況が変わったのだろうか。
海堂グループの後継者争いに因縁持ちの香宮の娘は不要。だから淑乃は身を引いたのに。暁はそんな淑乃をもどかしく思っている。兄が駄目なら自分ならどうだと何度冗談交じりに口説かれたことか。
朔が父親から社長の椅子を引き継ぐために一生懸命学んでいたことを知っているから、彼の隣に社長夫人にふさわしい女性が現れてこの場を収めてくれないかと他人事のように考えていたのに……朔の気持ちはまだ、自分にあるのだと識ってしまった。そして自分も彼を忘れられずにいて、ずっとすきでいたことを伝えてしまった。もう、戻れない。
――彼との愛の証は息子の灯夜だけ。それで良かったのに。
朔に抱かれた夜を思い出す都度、淑乃の下腹部は鈍く疼く。はじめて身体を重ねて彼が自分に溺れた学生のときを思い出して、淑乃はいつの間にか自分の方が彼に溺れていたことを悟ってしまう。
桜の花びらのようなキスマークは時間の経過とともに消えてしまったけれど。彼に丹念にほぐされた女体は、愛された記憶を強く刻みつけていて、淑乃を切ない気持ちにさせる。
「あ、よしのちゃん六時に予約一件入ったから用意お願いね」
「イモリちゃん? 今日の最終って空いてなかったっけ?」
「それがさ、昼休みに電話が来て。仕事帰りに立ち寄りたいから、って」
「了解」
「篠塚先生は五時あがりだけど、カウンセリングだけでって言うから、ふたコマ取っといたよ」
井森に話しかけられて淑乃はスケジュールの確認をはじめる。昼休みに電話が来たならもっと早く教えてくれればいいのにと頬を膨らます淑乃に、井森はごめんごめんと笑ってごまかす。
「だって、ほかの仕事が手につかなくなったら困るじゃない」
時刻は午後四時半。窓に映し出された光景を眺めながら、淑乃は井森の言葉の意味を考える。
傾きだした西陽を浴びている憩いの庭のベンチには、太った茶色の猫が我が物顔で寝そべっている。淑乃が猫の方へ視線を向けても、猫はぴくりとも動かない。そよ風に揺れて薄紅色の八重咲きチューリップが物憂げに頭を垂れる。その周りには静謐な湖を彷彿させる薄青色の――いちめんの勿忘草。
忘れてなかった、と察した淑乃は瞳を瞬かせる。
「初めての患者さんだけど、香宮先生ご指名です」
「……名前、は」
「カイドウ、と」
――きっと、サクくんだ……!
ぱあっと表情を明るくする淑乃に、井森が「ほらね」と微笑を浮かべる。
沈みゆく晩春の夕陽の橙色のひかりを浴びた淑乃の横顔は、ほんのり幸せそうに赤らんでいた。
夕方、大学病院の保育所から母子寮へ戻る途中、勿忘草の花が咲く歩道でぐずる赤子の灯夜を抱っこ紐であやしている姿を見られてしまったのだ。
兄の朔が大学を卒業して一年が経過していたことで気が抜けていた自分にも当然非がある。けれど、理工学部棟から遠く離れた大学病院の歩道を暁が通りかかったことは、偶然ではなく必然だった。
朔が大学を卒業してからも、暁は彼に黙ってよしのという姓の女性を探しつづけていたらしい。大学院生の卒業名簿を探しても見つからず、諦めかけたときに見つけたのが、香宮淑乃、という名前だ。
兄が結婚したいと望んだ女性が、自分たち一族と因縁を持つ娘だと知らなかった暁は、なぜふたりが別れたのか納得できずにいたのだという。けれども彼は、朔と淑乃が隠していた真実を暴いてしまった――暁は、ふたりに裏切られたと思ったに違いない。
「見つけましたよ。朔兄から逃げ出せて満足? 香宮先輩」
淑乃にとって、海堂朔は復讐すべき相手で、恋すべき相手ではないはずだった。目の前で忌々しそうに自分を見つめる弟の暁の方が、正しい反応なのだ。
暁は自分から朔の心を奪った淑乃が、ひとりで子どもをあやしている姿に驚いたようだった。
朔の子だと素直に認めた淑乃を前に、暁は困ったなあと嗤いだす。
「朔兄には婚約者との結婚が控えているのです。隠し子の存在が明らかになろうが、いまさら貴女が入り込む隙などありませんよ」
淑乃を傷つけるように、暁は告げたけれど、泣きそうな顔をしていたのは彼の方だった。
自分は香宮の娘だから、彼の花嫁になりたいと願うなどおこがましいのだと、淑乃があっさり言い切ったから。
その瞬間、暁はとんでもないことを言いだした。
「貴女は俺たちにとっての勿忘草なんです。どうか、朔兄の結婚式が無事に行われるまで……」
――海堂の名のもとに、貴女を監視させてください。
* * *
運命の歯車は思いもしない時宜とともに、とんでもない方向へ狂っていく。
息子の存在を朔に黙ってもらう代わりに淑乃は自分の携帯電話に暁が作成したアプリを入れることを渋々認めた。大学の理工学部で情報工学を専攻していた暁は在学時代から海堂グループが扱うコンピュータシステムを牛耳っていたのだ。
暁は自分と息子の存在をほかの海堂の人間に知られないよう守るために必要なものだと説明してくれたが、自分が登録した情報はすべて彼に筒抜けで、下手をすればメールや通話の履歴も簡単に確認できる状態だった。
朔の結婚式が無事に行われるまでと暁は言っていたが、結婚式は失敗に終わっている。そのうえ、朔はいまも淑乃を求めている。
朔に自分の連絡先を嬉々として教えたら、履歴情報を読み取って暁が邪魔するのは目に見えている。
だからあえてお金と職場の名刺を置いて、淑乃は朔の前から去ったのだ――彼のことだから、きっと職場までお金を返しに来ると信じて。
――勿忘草、か。花言葉はたしか、“わたしを忘れないで”……
婚約破棄された朔を慰めるため一目でいいから彼に逢いたいと希った淑乃のために、暁は夢のような一夜をお膳立てしてくれた。
けれど、暁は淑乃と朔がよりを戻して結婚することを快く思っていないはずだ。
それとも、状況が変わったのだろうか。
海堂グループの後継者争いに因縁持ちの香宮の娘は不要。だから淑乃は身を引いたのに。暁はそんな淑乃をもどかしく思っている。兄が駄目なら自分ならどうだと何度冗談交じりに口説かれたことか。
朔が父親から社長の椅子を引き継ぐために一生懸命学んでいたことを知っているから、彼の隣に社長夫人にふさわしい女性が現れてこの場を収めてくれないかと他人事のように考えていたのに……朔の気持ちはまだ、自分にあるのだと識ってしまった。そして自分も彼を忘れられずにいて、ずっとすきでいたことを伝えてしまった。もう、戻れない。
――彼との愛の証は息子の灯夜だけ。それで良かったのに。
朔に抱かれた夜を思い出す都度、淑乃の下腹部は鈍く疼く。はじめて身体を重ねて彼が自分に溺れた学生のときを思い出して、淑乃はいつの間にか自分の方が彼に溺れていたことを悟ってしまう。
桜の花びらのようなキスマークは時間の経過とともに消えてしまったけれど。彼に丹念にほぐされた女体は、愛された記憶を強く刻みつけていて、淑乃を切ない気持ちにさせる。
「あ、よしのちゃん六時に予約一件入ったから用意お願いね」
「イモリちゃん? 今日の最終って空いてなかったっけ?」
「それがさ、昼休みに電話が来て。仕事帰りに立ち寄りたいから、って」
「了解」
「篠塚先生は五時あがりだけど、カウンセリングだけでって言うから、ふたコマ取っといたよ」
井森に話しかけられて淑乃はスケジュールの確認をはじめる。昼休みに電話が来たならもっと早く教えてくれればいいのにと頬を膨らます淑乃に、井森はごめんごめんと笑ってごまかす。
「だって、ほかの仕事が手につかなくなったら困るじゃない」
時刻は午後四時半。窓に映し出された光景を眺めながら、淑乃は井森の言葉の意味を考える。
傾きだした西陽を浴びている憩いの庭のベンチには、太った茶色の猫が我が物顔で寝そべっている。淑乃が猫の方へ視線を向けても、猫はぴくりとも動かない。そよ風に揺れて薄紅色の八重咲きチューリップが物憂げに頭を垂れる。その周りには静謐な湖を彷彿させる薄青色の――いちめんの勿忘草。
忘れてなかった、と察した淑乃は瞳を瞬かせる。
「初めての患者さんだけど、香宮先生ご指名です」
「……名前、は」
「カイドウ、と」
――きっと、サクくんだ……!
ぱあっと表情を明るくする淑乃に、井森が「ほらね」と微笑を浮かべる。
沈みゆく晩春の夕陽の橙色のひかりを浴びた淑乃の横顔は、ほんのり幸せそうに赤らんでいた。
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