年下御曹司は白衣の花嫁と極夜の息子を今度こそ! 手放さない

ささゆき細雪

Chapter,2_01. 春、色づく世界の片隅で

「こちら、沓庭ガーデンクリニックです。はい、外来のご予約ですね……当院は初めてでしょうか?」

 受付事務をしている井森法子いもりのりこの声が耳底に届く。別室で書類作業をしていた淑乃は慌てて白衣を羽織り、扉を開いて待合室へ歩いていく。
 井森が受け付けている電話が初診患者の予約だとわかると、彼ではないかとつい期待してしまうが、受話器越しの顔色をうかがえば、淑乃の想い人ではないらしく、彼女は苦笑を浮かべていた。残念。

 ――だってあのときは、職場の名刺を置いていくので精一杯だったから。

 香宮淑乃が学生時代の恋人である海堂朔と八年ぶりに再会した春の夜から、すでに一月ひとつきが経過しようとしている。
 満開だったソメイヨシノは新緑が眩しい葉桜となり、花びらをすべて散らしてしまったが、大学敷地内には未だ春の訪れを歓迎する花々が四月下旬の陽気を喜ぶように咲き誇っている。初めて朔と逢ったときに咲いていた季節遅れの八重桜や、白や桃色の花水木もあちこちで見頃を迎えたが、なかでも目立つのは病院周辺の日当たり良好な歩道を覆い尽くす薄青色の勿忘草だろう。どこから飛んできたかはわからないが、種が芽吹いて毎年この季節になると一斉に花をつけるのだ。

 淑乃が勤務する診療所のまわりにもたくさんの花が咲いている。エントランスの花壇にはスタッフ総出で秋に植えたチューリップの球根がおおきな蕾を色とりどりに膨らませているし、待合室の窓からよく見える中庭の小手毬の花木はその名のとおりちいさな毬のような白い花をぼんぼりのように揺らしている。
 フラワーセラピーの概念を取り入れた憩いの庭は、病院関係者や医学生たちからも評判が高い。

 大学病院付属の外来施設とはいえ、堅苦しくないのはこの建物が比較的最近に建てられたものだからだろう。もともと院内の同じ場所で精神科は入院外来患者を一緒に診ていたが、近年の社会情勢による患者数の増加によってひとつの場所で捌ききれなくなったため、外来専用の診療所を別途用意することになったのだ。五年ほど前に病院から声をかけられた淑乃は、新規カウンセラーとして採用され今に至っている。

 ――サクくんには偉そうなこと言っちゃったけど、不安定な職なのは事実なんだよね。

 大学院を妊娠中に卒業した淑乃は、世話になった教授夫妻のもとで二年間を過ごした。卒業後は引き続き院の研究室に入るものだと思っていた教授に妊娠の事実を告げ、迷惑はかけられないと辞退しようとしたが、天涯孤独である淑乃の境遇を知る教授はそれを許さず、せめて無事に子どもが生まれるまでは自分のもとにいろと引き止めたのだ。
 そのため、精神科心理学教室に所属した状態で淑乃は灯夜を出産、教授が手配してくれた病院付属の母子寮で子を育てる傍ら、精神科の非常勤カウンセラーとして大学病院で働くことになった。産後一年も経たないうちに壮絶な現場へ放り出された淑乃を見た暁はこんなことしなくても自分の元に来ればいいとさんざんアプローチしてきたが、彼女はそれを頑なに拒み、働きつづけた。
 朔の手を取らずに逃げ出した自分が暁に絆されることなどあってはならないことだ。だって彼の目的は自分ではなく兄との間にできた息子なのだから……

 がむしゃらに働いた結果、淑乃の勤勉さが認められ、新設される診療所の専属カウンセラーに正職員として入らないかという誘いが来た。もしかしたら海堂一族による囲い込みかもしれないと疑心暗鬼に陥った淑乃だったが、暁たちの監視の目が届いていないことを知り、異動を決める。
 保育所に預けていた灯夜が未就園児でなくなるのを機に大学付属幼稚園へ入園させ、淑乃の働き方も不規則なものから規則的なものへと改善した。正職員として病院の外で働くことを知った暁は悔しそうな顔をしていたが、完全に彼らの監視下からは逃れられないのだからこのくらい自由にさせろと言い切り、淑乃は己のキャリアを優先させている。

 ――シングルは大変だけど、あたしはいまの生活に満足してる。海堂一族を刺激してはいけない。これ以上、彼の……彼らの枷になりたくない。

 朔は結婚したいと言うけれど、灯夜のことを知ってもらえただけで充分だと淑乃は思っている。息子は自分の父親が誰か知らない。生まれた頃から遊び相手のような暁と勉強を教えてくれる篠塚が淑乃の傍にいるから、そのどちらかではないかと考えているふしはあるが、朔が登場したことで灯夜のあたまのなかは混乱しているようだ。
 現に、仕事でもないのに知らない男と一晩過ごして朝帰りしてきた母を前に、彼は拗ねてしまった。暁がフォローしてくれるだろうと楽観視していた自分の読みが甘かった……と毒づく淑乃に井森は冷たい。

『そりゃあ、自分より兄を選ぶよしのちゃんに失望したからでしょ。いままで陰ながらよしのちゃんとトーヤくんを見守っていたのに、アッサリ別の男のもとに走られてみ? その男の子どものことも可愛さ余って憎さ百倍になるわよ』

 そもそも暁は陰ながら見守っていたわけではなく、香宮の娘と海堂の長男とのあいだに生まれた息子を監視していただけで、自分は扱いにくい駒でしかないのだと井森に反論したところで「いや、それはないでしょ」と一蹴されるのがオチだ。

 ――じゃなきゃ、なんなのよ。携帯電話にGPS位置情報を埋めこまれて動きを制限されてるこっちの身にもなってほしいわ!

 はぁ、とため息をつきながら、淑乃は白衣のポケットに入れている携帯電話の時計を確認する。
 受付の井森が「それでは来週水曜日の十六時、お待ちしております。失礼いたします」と電話を切ったのを見て、肩を落とす。
 今日も朔からの連絡はなさそうだった。

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